死がふたりをわかつとも

文月 郁

死がふたりをわかつとも

 入院病棟の個室。枕元の時計はもう四時に近い。

 ドアの向こうでは、看護師や見舞い客の足音が通りすぎていく。

 この部屋に来る足音はない。

 ふう、と息を吐いて、僕はそっと横になった。

 四角い窓から見えた空は、どんよりと曇っていた。


 思えば、記憶にある空はいつも曇っていた。

 引き取られた孤児院の窓から見えていた空も。

 学校を辞めた、あの秋の日も。


 こつ、こつ。

 足音が、近付く。


「全く、物価の高騰と老人の長話は限度というものを知らないのか。何でもかんでも値段は上がるし、用があるから早く帰ると言っているものをいつまでもくどくどと。おかげで二時間近くも、何の意味もない話を聞いてすごすはめになったじゃないか。なあ、ロウ・シャンディル。相変わらずチーズみたいな顔色で景気が悪い。だからいつも、もっと陽にあたれと言っているのだこの隠花植物男」


 開口一番、愚痴が主なのか僕への罵倒が主なのか、意図をつかみかねる長広舌。

「やあ、マリ」

 風で乱れたらしい長い黒髪。寒気で紅潮した頬。

 きりりと上がった眉の下で、切れ長の菫色の目が僕を見た。

 リーベル・マリ。

 淡い、柔らかなタッチの画風を得意とし、二十歳になるかならないか、というころから、いくつもの賞を取ってきた天才画家。

 露出を嫌い、メディアの前には姿を見せない、謎に包まれた画家。

 リーベルは顔をしかめ、バッグから小さなケースを出すと、中身を口に入れ、断りもなく枕元の水差しを取り上げ、水をコップに注いで飲み干した。

「ひどいなあ」

「ひどいもなにも事実じゃないか。そうやって頭まで布団をかぶっているから、良くなるものも良くならないと言うのだ」

 巷の人間は、彼女がこうずけずけとものを言う女性だとは思わないだろう。

 絵のタッチから画家の人となりを想像して、たおやかな、優しげな女性だとでも思うことだろう。

 事実、僕は売店の雑誌でそういった評を読んだことがあった。あのときは、笑いそうになったものだ。

「依頼が、あったの」

「あったよ。今度改装されるホテルのロビーに飾るんだそうだ。年明けには内装も完成するから、それまでには完成させなきゃいけない。全く大変だ。大変だからもう帰る」

 そう言うや、リーベルはくるりと向きを変え、さっそうと部屋を出ていった。

 彼女はいつもこうだ。自分が世界の中心で、自分以外の人間は全員有象無象とみなしている。

 僕がリーベルに出会ったのは、ある町の美術学校だった。昔から、絵だけは得意だった僕は、周囲の反対を押し切ってその学校を受けたのだった。

 試験の結果は良いとは言えなかったものの、どうにか合格したその学校に、リーベルも入学していたのだ。

 入学前から、噂だけは聞いていた。入学試験を満点で通過した天才がいる、と。

 それがリーベル・マリだと知ったころ、彼女はすでに同級生の間で孤立していた。

 原因は主として彼女の言動――相手を不快にさせることについて、美術の腕に劣らず卓越している――にあった。まるでわざと嫌われようとしているのではないかと思うほど、リーベルの言葉には遠慮というものがなかった。

 性悪女。それがリーベルの評価だった。


「これは君の見た夢の絵かい」

 ある日、僕が取り組んでいたデッサンをのぞきこんで、こう言ってきた人間がいた。

 え、と言いかけてふりかえった、その目線の先にリーベルはいた。

 腕を組んで、くいと顎を上げて、菫色の瞳をじっと紙に注いで。

 このときは確か秋口で、リーベルの悪評はもう、学年中――もしかしたら学校中に――広まっていた。標的になったら筆を折られる、とか、彼女が展覧会で賞を取っているのは、スポンサーに彼女の親族がいるからだ、とか、そんな噂も囁かれていた。

「ああ、そこの果物を描いていたのか。あまり歪んでいるから、てっきり君が見た夢でも描いているのかと思ったよ」

 言われて思わず、モデルとして置いていた数種の果物と、紙を見比べる。

 そのときの僕には、彼女の言う“歪み”はわからなかった。

 根も葉もないことを言われた、と、かっとなって、言いかえそうとしたときにはもう、リーベルはその場を立ち去っていた。

 今ならわかる。そのときに描いたものは、確かに歪んでいた。

 当時の僕は、授業についていくので必死だった。美術の基礎も知識もろくにない、ただ多少小綺麗な絵を描く程度の能力しかなかった僕にとって、あの学校は不相応な場所だった。

 加えて、学校の、決して安くはない学費を捻出するために、僕は空いた時間の多くをアルバイトに費やしていた。学費と家賃を払ってしまえば、生活費として使える金はごく僅かだった。

 結果として、僕はいよいよ課題を作成する時間を削るようになり――当然、作品の質は下がる一方だった。

 巨匠の作品が並ぶ美術館に、そのへんの子供が描いた落書きが展示されているような状態だっただろう。

 結局、そんな状態で学生を続けられるわけもなく、僕は筆を折り、学校も辞めた。

 学費を捻出する必要がなくなったため、生活も少しは楽になった。

 僕がリーベルと再会したのは、そんなときだった。

「ロウ・シャンディル」

 道端で不意にリーベルに呼び止められたときには、正直に言って驚いた。

 近くの喫茶店に連れて行かれ、リーベルはいきなり、

「住み込みでアトリエの管理人をやってくれないか」

 そう、言ってきた。

「なぜ、僕に?」

「君は画材の扱いかたも、絵の保存の方法も知っているだろう」

「それなら、僕でなくても……」

「あのな、アトリエという大事な場所に、見ず知らずの人間を入れられるわけがないだろう」

 見ず知らずというなら僕も似たようなものじゃないかと思ったものの、結局、今よりも収入が上がることから、僕はそれを引き受けた。

 本当は、少し、下心もあったのだ。

 リーベル本人の性格はともかく、彼女の作品は本当に素晴らしいものだったから、それを間近に見られるのなら、と。


 管理人の仕事は、思っていたよりも難しくなかった。

 アトリエの掃除のほか、画材を片付けたり、彼女が“失敗作”と呼ぶ作品を処分したり、そういったことが主な仕事だった。

 ときにはリーベルの息抜きに付き合って、二人で一日かけて電車で遠くの町に出かけたり、アトリエの周辺にある喫茶店を次から次へ訪ねたり、なんてこともあった。

 リーベルは、意外にも普段はそこまで毒舌ではなかった。罵倒がないわけではなかったけれど、四六時中ということはなかった。

 毎日散々罵倒されるだろう、と一応は覚悟していた僕は、だいぶ拍子抜けしたのだった。

 そのときは突然やってきた。

 半年前のその日は、朝から右足に違和感があった。

 季節は初夏だというのに足はひどく冷たく、痺れているように感覚がない。

 温めてみても感覚は戻らず、石にでもなったかのようだった。

 リーベルにはごまかしながら数日暮らしていたものの、足がうまく動かずに階段から転げ落ちたことで、僕は結局入院することになる。

 入院先の病院で、胡麻塩頭の初老の医師から話を聞いた。

 医師曰く、最近見られるようになった、新しい病だという。

 身体が少しずつ、石のように変わっていく奇病。有効な治療薬のない難病。

 そう聞かされたときには、目の前が真っ暗になった。

 この半年、病は徐々に進行している。

 二月前まではなんとか立ちあがることができたのだが、もう腰から下は動かない。

 横になって眺めた空は、やはり曇って暗かった。


「考えていたんだが、ロウ、やっぱり君のご両親に伝えるべきじゃないか」

 翌日、面会時間が始まるやいなや顔を見せたリーベルは、いきなりそう言った。

 僕は黙って首をふる。

「なぜそんなに嫌がるのさ。絶縁でもしてるのかい」

「……死んでる」

「なら祖父母でも親戚でも、誰でもいいから話すべきだ」

「……いない。いない、んだ。誰も」

 リーベルが顔をしかめる。

「いないってことはないだろう」

 その顔を見て、僕はぽつぽつと話しはじめた。

 自分の母親が外に男を作り、自分は母とその男の子供であること。

 別れ話がこじれ、母は間男とともに家を飛び出し、逃避行の途中、列車事故に巻きこまれて二人とも命を落としたこと。

 自分は母の夫であった男のもとで五歳まで養育され、その後に施設に送られたこと。

 施設を出るときにその男が訪ねてきてこの話を聞かされ、その場で絶縁を言い渡された。

――お前に情を抱いたことはない。たとえ頼ってきたとしても、俺がお前を助けることはない。

 そう言った男の冷たい目は、今でもはっきりと覚えている。

 病気の影響か言葉は切れぎれ、これだけのことを話すのに、ずいぶん時間がかかったが、リーベルは一度も口を挟まなかった。

「じゃあ君は、恋人がいたこともないの」

 ない、と首をふる。

「なら私が、君の恋人になろうか。そうだな、例えば君が退院するときまで、なんてどうだい」

 リーベルが、悪戯っ子みたいに笑った。



 こつこつ、と、病院の廊下を進む。

 A――市の総合病院の入院病棟、五〇二号室。

 そこがロウの病室だ。

「またそうやって布団をかぶっている。せっかくいい天気なんだからもっと日光を浴びろと言うんだ。ただでさえ顔に血の気がないんだから、余計にカッテージチーズみたいに見える」

 ロウを見たとたん、反射的に言葉が口から滑り出る。

 ああ、薬を忘れていた。

 相変わらずだね、と苦笑するロウをよそに、ケースから青と白のカプセル薬を口に含んで水で飲みくだす。

「どこか、悪いの」

「まあね。ああ、君には話しておくのも悪くない」

 リーベル・マリという人間の欠陥を。


 幼いころから、私にはひとつの悪癖があった。

 それは、そのときに思ったことを、すぐに口に出してしまう、という癖だった。

 それがどれだけその場にそぐわないことでも、どれほど事前に口をつぐんでいようと固く決心していても。

 気付いたときには、言葉は自制を無視して口から出ている。

 それを話している自分が、内心どれほど言葉を止めようとしても、それを聞く相手の顔がどれだけ歪んでいても、口は自分の意思を無視して動き続ける。

 そんな私に友人などできるわけもなく、幼少期はずっと孤独だった。両親もいつしか私を疎むようになり、必要なこと以外を話すことはなくなった。

 それが原因で騒ぎを起こすことは何度もあり、なんとかできないかと調べ、病院で検査を受けた結果――脳機能に異常が見つかった。

 この異常は、生涯治ることはない。だが、薬でコントロールすることはできる。

 決して安くはないその薬を毎日――治療をはじめたころは数時間おき、今は一日三回――服用することで、私はどうにかこの悪癖を抑えていた。とはいえ薬を飲み忘れれば、すぐに言葉が口をつく状況は変わらないし、飲んでいても、完全に衝動を抑えられるわけではなく、ときには自制がきかなくなることがあった。

 学生時代、ロウの課題を見たときもそうだった。

 彼が入学してから初めて提出した作品――市場のスケッチだった――は、見ていると、まるで絵の中に引きこまれるような感覚を覚えた。

 道の両側に広がる露店。売り物の果物を差し出す店主。立ち止まって吟味する客。手に提げたかごに色とりどりの花を入れ、道行く人に差し出す娘。花を受け取り、小銭を探す男。

 写真で風景を切り取るように、“その一瞬”を描き出したそのスケッチは、教師や同級生の間では評価が低かった。

 それでも、そのスケッチは確かに私の心をとらえていた。

 そのときから、私はロウという男とその作品を、目に留めるようになっていた。

 春が過ぎて夏になり、秋が来るころには、ロウの作品の質は明らかに落ちていた。

 あの課題のデッサンも、なぜ気付かないのかと不思議に思うほど崩れていて、黙って行き過ぎようとした理性とは逆に、口は勝手に言葉を投げかけていた。

 それからひと月と経たないうちに、私はロウが学校を辞めたことを知った。


「そう、だったの」

「そうさ。あの市場のスケッチだけじゃない。君の絵は私にとっては素晴らしいものだった。クリサンセマムの花束を持った少女の絵も、公園で遊ぶ親子の絵も。正直に告白するけれどね、君に管理人を頼んだのは、また君の絵を見られないかって下心もあったんだ」

「絵。もう、ずっと、描いて、ない、や」

「そうだろうね。今手掛けている仕事が終わったら、外出許可をもらってどこかに行かないか。どこに行きたい?」

「ん……雪が、見たいかな」

「雪? ああ、わかった。どこに行くか考えておくよ」

 言いながら、私の頭にはひとつの場所がもう思い浮かんでいた。



 雪を見たい、と話した、その翌日。

 朝食のために起き上がろうとして、僕は異変に気付いた。

 右手がひどく冷たい。

 まさか、と左手で右手をつかみ、目の前に持ってくる。

 右腕は、血の気が引いて白くなっていた。

 左手で叩いてみても、つねってみても、右手は痛みを感じない。

 朝食は、ほとんど喉を通らなかった。

「ロウ、具合はどう?」

 いつものように、こつこつと足音を響かせてリーベルが部屋に現れる。

 その姿に、今日はなんだか、無性に苛立った。

「来る途中に本屋に寄ったら、君の好きそうな本があったから買ってみたんだ。見てみるかい?」

 大判の、様々な花をおさめた写真集。

「いい」

「ロウ? どうしたの、君らしくない」

「何でも、ない。今日は、帰って」

 わかった――と言うようなリーベルではなく、むっとしたように口を尖らせる。

「なにさ、いきなり。気に入らないことでもあるんなら、はっきり言えばいいじゃないか。何のために口がついてるんだ。ものを食べるだけの器官じゃないぞ」

「うるさい!」

 ふりはらった手が本に当たり、リーベルの手を離れた本はそばにあった水差しにぶつかり、床に落ちた水差しが甲高い音を立てて砕け、床にガラスの破片が混じった水が広がった。

「どうしました?」

 看護師が駆けこんでくる。ぽかんとしていたリーベルが、僕が何か言うより早く口を開いた。

「ああ、いや、ちょっと私が手を滑らせてしまって」

 水が滴る本を袋にしまい、リーベルがくるりと背を向けて、病室を出ていく。

 こつこつという足音が、次第に遠ざかって消えた。


◆◆◆


 ロウに次に会ったのは、年が明けて半月ほど経ってからだった。

 手掛けていた依頼が無事に終わり、やっと身体が空いたのだった。

 その間、ロウには一度も会わなかった。手紙は何度も送ったものの、返事が来ることは一度もなかった。

 ベッドに横たわる彼を見て、言葉が止まった。

 青白い顔、ほとんどが白くなった髪。こけた頬は老人のように乾いている。

 身体につながれた管も、明らかに増えていた。

 ロウはほんの少しこちらを見て、琥珀色の目を大きく見開いた。

 唇は小さく震えたものの、そこから声は出なかった。

「なんだ、もう来ないとでも思っていたのかい。ほら、前に話したホテルに飾る絵、あれの制作でこっちに来る時間を取れなかったんだよ。でもやっと身体が空いたから、一日中だっていられるよ」

「……ごめん」

 機械音にかき消されそうな、弱々しい囁き。

「何がさ」

「ほん」

「――ああ、あれか。気にすることはない。私だって気にしていないもの。それより、ロウ、せっかく私も時間ができたんだから、雪を見に行こうじゃないか」

 ロウの左手を握る。

 握りかえすその力は、あまりにも弱々しかった。

「どうだ、私の手は温かいだろう?」

 ロウが目を細める。

「それじゃ、君の外出許可をもらいに行ってくるよ」

 離れようとして、ふと思い立って身をかがめる。

 重ねた唇は、温かかった。



 ロウの外出許可をもらうのは、それなりに骨が折れた。

 何せ私は彼の身内ではないのだ。恋人であり雇い主であるだけ。

 それでも最終的に医師は折れた。おそらく、ロウがもう長くないということもあったのだろう。

 厚手の毛布でしっかりと包まれたロウが横たわる、寝台式の車椅子を押して列車を降りる。

 駅前にはすでに、あらかじめ手配しておいた車が停まっていた。

 運転手の手を借りてロウを車に乗せ、隣に座る。

 地名を伝えると、車は静かに走り出した。

 駅から車で一時間近く。

「どこに、行くの?」

「ふふ、着いてからのお楽しみ」

 山あいの小さな町。

 町はずれの展望台。車椅子で登ることは、事前に伝えてある。

「寒くはないかい」

 車椅子についた、小さなモニターを見ながら訊ねる。モニターに映し出されるロウのバイタルは安定している。

「だい、じょう、ぶ」

 ロープウェイで上まで登る。

「この景色を見せたかったのさ」

 息を呑む声が、風にさらわれる。

 眼下に広がる、一面の銀世界。

 遠くまで続く、白い大地。

「君の、絵、の……?」

「そう。覚えていたんだね。私の実家はここから近くてね。ここは一番好きな場所なのさ」

 学生時代、初めての課題で描いた絵は、降り積もる雪と夜空の絵だった。地上部分は、ここから見える景色をそっくりそのまま描いたのだ。

 ロウがそれを覚えているとは思わなかったのだけれど。どうやら、覚えていたらしい。

 そう言うと、彼は口元にしわを寄せた。これが今のロウの、精一杯の笑いだった。

「君の、絵は、覚えてる、よ」

 その言葉は、得意げに聞こえた。


「さあ、だいぶ冷えてきたから戻ろうか。そろそろ戻らないと、下りのロープウェイに間に合わない。それに、このあと行きたいところもあるし」

「うん」

 毛布を直し、下りのロープウェイに乗りこむ。手を貸してくれた乗務員に礼を言って、車に乗りこむ。

 次の目的地を告げ、走る車の中、ロウの様子に目を配る。

「リー、ベル」

「うん?」

「ありが、とう」

「なんだ、礼を言うのはまだ早いよ」

 こちらを見て細められた琥珀色の目を見て、じわりと耳が熱くなった。

 町の中をしばらく走って、車は町はずれの教会に停まる。

「行こうか」

 ぐっと、力を入れて、車椅子を押した。


 その夜、私たちは予定より少し早く病院に戻った。

「また、行こう、ね」

 一度家に戻り、用事を片付けてくる、と伝えた私に、ロウは微笑んでそう言った。

 “また”なんて望めないことくらい、彼が一番よくわかっていただろうに。

 翌日から数日間は安定していたロウの病状は、その後、坂を転げ落ちるように悪化していった。髪は真っ白になり、表情を作ることも、声をだすこともできなくなった。意識は混濁し、一日の大半を眠って過ごすようになった。

 ときおり目を覚まして、視線で文字を入力できるコンピュータを利用して短く会話して、また眠る。そんな日々が続いた。

 そして、冬が過ぎ、吹きすぎる風が温かさを運んでくるようになったころ、ロウ・シャンディルは眠るように息を引き取った。

 もう話せないはずだったのに、私にだけ聞こえる声で、ありがとう、と言って。


 ひっそりとロウの葬儀を出して、私は自宅に戻った。

 静かな部屋で、出したままにしていた荷物を片付けようとしたとき、白い封筒に目が留まる。

 ロウが亡くなったあと、看護師から渡されたものだった。


 リーベル

 今日はありがとう。久しぶりに外に出られて、本当に楽しかった。

 ずっと見たことがなかったから、本物の雪景色、一度見てみたかったんだ。

 誰にも愛されることはない、誰も愛することのない人生だと思っていた僕に、誰かを愛する機会をくれてありがとう。

 あの教会でも誓ったけれど、もう一度。


 死が二人をわかつとも、僕の魂は君のそばに。



◆◆◆



 天才と呼ばれた画家、リーベル・シャンディルの訃報が世間に知れ渡ったのは、ある冬の日のことだった。

 生涯メディアの前に出ることはなかった彼女の人生を知る者はごく少ない。

 もっとも大きな謎として言われているのは、彼女がモデルとした人物である。

 画壇に登場してしばらく、風景を描くことが多かった彼女の作品には、あるときから同じ人物が登場するようになる。

 金褐色の髪に琥珀色の目の青年。

 このモデルは誰なのか、彼女が語ることはなかった。

 一説によれば。

 若いころのリーベルには、難病に侵された婚約者がいたという。

 この婚約者が、絵のモデルではないか、と噂する者は多かったが、彼女は結局何も語らぬままに世を去った。

『死がふたりをわかつとも』

 そう題された絵――教会の前に並んで立つ、リーベルと思しき娘と、金褐色の髪の青年を描いた絵を遺して。

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死がふたりをわかつとも 文月 郁 @Iku_Humi

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