8 この国では傲慢は八番めの大罪だ

 スマートフォンをポケットに戻すと、長い通路のいちばん先の、大きな扉を控えめに開くまで、五十嵐は頬のあたりがにやつくのを抑えていられなかった。例の件のことではこのところ悪いニュースばかり聞かされていた。いまのはひさしぶりのいいニュースだった。

 不機嫌な、威圧的といっていいほどの沈黙は月例の連絡会議ではいつものことだから気にすることなく、ただ表情だけはふだんいじょうに引き締めて、忍び足で会議室の長い壁伝いに自分の席に戻った。大臣の隣だった。きょう、会議がはじまる直前に、とつぜん席順が変わってそこに座ることになった。大臣のご指名だった。このあいだのゴルフ(と、そのあとのめくるめく接待)がたいそうお気に召したからといいって、これほどの抜擢はそうあることじゃない。つまり五十嵐事務次官は、また一歩、出世コースで抜きん出たことになる。これまでの努力を考えればとうぜんの結果だからといって、平静でいるのはかんたんなことじゃなかった。

 ここまで上座に近くなるといすも大型の豪勢な革張りで、肘かけは手のひらにしっくりとなじむ無垢のウォールナットだった。大臣はいつものように巨大に盛り上がった腹の上で両手を組んで目を閉じていた。居眠りしていると見せかけて、じつは警戒活動ちゅうの哨戒機さながら、あらゆる情報に耳をそばだて、スパコンなみの処理能力で瞬時に分析評価しているのを五十嵐は知っていた。自分も豪勢ないすに深く腰かけて、隣の大臣の静かな呼吸を聞いてしまうと、もう黙っていられなかった。

 手早くメモを書いて隣の席に押しやった。

 大臣がそれに気づいた気配はなかった。五十嵐は会議に集中しているふりをした。しばらく議事が(怒ったような静けさのなかで)進行してから、ふいに訊かれた。

「これはなに。ほんとうのことなの?」

 五十嵐もささやき声で答えた。「はい。先ほど、わたしがちょくせつ話を受けました」

 方言がきつかったので(だれかさんとちがってほとんど現地入りした経験もなかったから、なおさら聞き取るのはむずかしかった)、正確になんていったのかはわからない。ともかく語調と話しぶりから、五十嵐が連想したのは罪人の告解――迷える子羊が教会の狭い反省部屋みたいなところにひざまづいて、神さまお赦しください、わたしは罪をおかしました、とかなんとかお祈りするあれ――だった。どうやらあのじいさんも、ようやく自分の罪に気づき、救われるためには神にすがるしかないことを理解したらしい。

 ここでいう神がなんのことかは五十嵐もその内側にいるからよく知っている。

「あしたにでも現地で例の人物にあってこようと思います」

 そしてみじめな罪人に手ずから福音をあたえる……神の正式な代理人として。五十嵐にはその大役をつとめるだけの力量がある。無責任にぜんぶ投げだしてしまっただれかさんとはちがって。

 そのだれかさんは、五十嵐が連絡してみると電話口で大声で泣いた。まるであいつこそが罪人そのひとであるかのようだった。自分が苛烈な出世レースに万にひとつも勝てる見こみがないことを、やっと認める気になったんだと五十嵐は理解した。五十嵐にいわせれば遅すぎるくらいだった。なにしろ相手が悪すぎる。むしろいままでどうにかなると思っていたことのほうが驚きだった。逆転優勝でもねらっていたんだとすれば、とんでもなく傲慢だったことになる。

 しかし唐木田がひどく取り乱しているので武士の情けで黙って聞くだけにしておいた。

 これもまた、臆病な犬が吠えたてているみたいで、なんていっていたのか正確にはよくわからなかったのはともかくとして。

 しばらくするとまた大臣が小声で問いかけた。「それでどうなの。それ、おれもいったほうがいいの」

 これぞ僥倖、それとも奇跡か。

 抜きん出たキャリア官僚ならではの決断力で即答した。「はい。大臣にご足労いただければ、問題の人物も身を引きやすくなるでしょう」

 ここまで話がこじれてしまったら、トップの鉄槌でいっきに攻め落とすしか事態を打開する手立てはない。地位とか役職とか権威はそのためにこそある。いま、大臣はそれを惜しげもなく使ってくれるといったのだ、五十嵐のために。犬みたいに泣く脱落者のだれかさんだったらこうはいかない。

 薄目を開けて大臣が五十嵐を見つめた。「じゃあいくからさ、調整して。そのじいさん? かれにもいちどくらいあってみたいしな」

 そのさりげない目つきで五十嵐は確信した、官僚として、じゅうぶんすぎるほどの信頼を勝ち得ていると。

 表情だけはどうにか平静をたもった。平静をたもつのもすこしずつ上達してきているようだった。「承知しました。じつはわたしも話で聞いただけなので。どんな人物か興味があります」

「だよねえ」

 上機嫌なふくみ笑いは、まるで親密な仲間うちだけで通用する不謹慎なジョークだった。いうまでもなく五十嵐は平静をたもちつづけた。

 直接対決する。大臣が現地でじいさんと。これでぜんぶ解決だった。

 大臣の度量の大きさといったらそれこそ神そのものがすっぽり収まってしまうほどで、それにくらべたら例のじいさんなんてミジンコほどの価値もない。いくら中央政府を敵にまわして互角に渡りあっているつもりでも、その場でおのれの罪を思い知り(なにしろこの国では傲慢は八番めの大罪だ)、地べたに這いつくばって赦しを乞うことになる。

 これでなにもかも順調に動きはじめる。土地の買収は来月にも完了し、すみやかに測量がおこなわれ、森はきれいに伐採されて、重機の大群が計画どおりに深く巨大な穴を掘りはじめる。来年のいまごろには工事も終わり、五十嵐は大臣のまたとない右腕として異例の要職に抜擢される。そう考えるともはや平静ではいられなかった。

 あしたが待ち遠しくてならなかった。


〈おしまい〉

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ひらたい森の怪物 片瀬二郎 @kts2r

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