7 コーラのペットボトルのキャップ。ぷしっ。
いま、唐木田の目のまえで、それが身体を起こそうとしていた。それの頭の位置が変わって待望の太陽が姿をあらわした。目がさめるような強烈な直射日光が、唐木田とその周辺に浴びせられた。
しかし期待に反して、唐木田が見ていると思っていたものは、唐木田が見ていると思ったとおりのまま、常識的な正体はあらわしてくれなかった。唐木田はそれを見上げた。口を閉じるのを忘れていた。
「なんだ?」
なんだろう? 怪物だった。
それとも宇宙人だった。
ネットで読んだとおりだった。怒ったようなおそろしい顔は鈍い赤色に光っているようだった。先の尖った紡錘形の透明なヘルメットがその頭を覆っていた。黒い身体に、獰猛な鉤爪を持つ二本の腕が生えていた。片方の鉤爪が尾塚をしっかり握りしめ、もういっぽうの鉤爪が、ゆっくりと、操り人形の腕のような奇妙な動きで浮き上がり、尾塚の頭にかかっていた。下半身は金属光沢のスカート状になっていて脚は見えなかった。たぶん脚はないのだ、と唐木田は考えた。ネットで読んだ興味本位のくだらない記事に書いてあったとおり、あれは未知の科学技術によって、重力を遮断して浮いているのに決まっていた。
だって宇宙人だもの。
鉤爪が尾塚の頭をつかんだ。つぎになにが起きるのか唐木田にはすぐにわかった。なにしろその手つきは、このあいだの暑い夏の週末に、唐木田が売店で買ってやった冷たいコーラのペットボトルを、娘の愛華が受け取って、ふたをひねって開けるときのしぐさにそっくりだった。
夏休みもそろそろ終わりのころのことで、厳しい部活も一段落し、宿題もかたづいてひと息ついていたところを、唐木田が買い物に誘ったんだった。さいきんではすっかり父親とふたりで出かけるのを避けるようになった娘は、たぶん母親になにかいわれたからだろう、ひさしぶりにつきあってくれた。妻は同行しなかったから、これはつまり父娘の水入らずのデートだった。はしゃぎすぎるといやがられるのがわかっていたので、唐木田は慎重にポーカーフェイスをたもっていた。
銀座で買い物をして(唐木田は愛華が欲しがるものはなんでも気前よく買ってやった)、そのあとふたりで日比谷公園を散歩した。のどがかわいたというので売店でコーラを買った。よく冷えていて、たちまちペットボトルの表面に水滴が浮き出て流れ落ちはじめた。
「パパも飲む?」
笑顔で訊きながら愛華は左手でペットボトルを持ち、右手でキャップをひねった。炭酸が漏れる音がぷしっと心地よく響いた。いい休日だった。ほんとうは、先週、学校からあった連絡のことで行動をつつしむように、きつめにいいふくめておくつもりだった。デリケートな問題だった、なにしろ内閣府キャリア官僚の娘が同級生の自殺に関係している――それも遺書で何回も名指しされている――なんて、マスコミに嗅ぎつけられでもしたらめんどうなことになる。
しかし、いまこのときばかりは、そんなのはどうでもいいことだった。出世をねらう激務の内閣府官僚に、こういう最高の休日はそう何度もあるものじゃない。
愛華はそのままのどを鳴らしていっきにはんぶんほども飲んでから、男子みたいなげっぷをし、意外と大きな音だったことにはにかみながら父親にペットボトルをさしだした。
笑顔でこういった。
「おまえ、ほんっと無知だよな」
ちがう。愛華はこんなことをいわなかった。愛華はこんな声でもない。
それでも愛華は笑顔のまま、聞いたことのない声でつづけた。「だからそんなに傲慢なのか」
口の動きと声がずれていた。
つぎのしゅんかん、猛スピードで現実に引き戻された。すると唐木田はまだ森のなかにいて、目のまえにはまだ巨大な怪物がそそり立っていた。鉤爪がまだ尾塚をつかまえていて、いま、その鉤爪が、尾塚の頭を無造作にひねってちぎり取った。コーラのペットボトルのキャップ。ぷしっ。
大粒の雨が唐木田の顔や肩に、音をたてて降りかかるのを感じた。おかしかった。太陽はほぼ中天から明るく照らしていたし、天気予報ではこのあたりには終日、雨は降らないことになっていた。やけにねばつく、生臭い雨だった。ちがう。そうじゃない。
じいさんはどうかと目を向けると、おもしろがるような横目で唐木田のようすをうかがっていた。
そのとき頭上で怪物が、両手の鉤爪につかんでいたなにかを左右に投げ捨て、じゃまな木立をかきわけて唐木田のほうに身を乗り出してきた。唐木田は絶叫した。じいさんはその場に突っ立ったまま依然としてにやついているだけで、たすけてくれそうになかった。唐木田は逃げだした。藪のなかに突っこみ、泥を跳ね散らかし、道があるかどうかに関係なく(それが道なんて呼べるようなりっぱなものかどうかもかかわりなく)、やみくもに走った。森はどこまでも平坦だった。国土地理院がまちがっていないんだとすれば、同じところをぐるぐるまわっているか、それとも……いつのまにかぜんぜんちがうところにまよいこんで(誘いこまれて)しまったか。それがどこかといえば、唐木田がネットで宇宙人の記事を読んだとき、同じページで見出しだけ目にした異次元空間とかそんなようなところかもしれない。
そんなばかなことがあるわけがない。こんなのぜんぶ常識で説明がつくはずだ。パニックを起こさず、落ち着いて冷静に考えればすぐわかることだ。
理屈はそうでもじっさいにやるのはほぼ不可能だった。なにしろ後ろからあれが追いかけてくる。身長が三メートルもあり、宙に浮かんでいて、木立の向こうから怒ったような赤く光る顔をのぞかせて、こっちに鉤爪を伸ばしてくる怪物が。UFOくんとか宇宙人くんとか、ふいに五十嵐事務次官の軽口を思い出して爆笑しそうになった。ここで笑ってしまったら……腹をかかえ、涙をにじませて大笑いしてしまったら、ぜったい取り返しのつかないことになる。精神が、平衡をたもちきれずあっち側に倒れてしまう。
何度も転び、立ち上がるのももどかしく、這いずるようなかっこうでとにかく走りつづけ、そのたびに方向がわからなくなった。自分ではぜんぜん意識しないまま大声で叫んでいた。たすけてくれ! が、たすけてください! に変わり、いつのまにかごめんなさいを連呼していた。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! もうしませんもうしませんもうしません! と声を枯らして。
だれもたすけてはくれなかったし、だれも許してはくれなかった。なにより、自分がなにを謝罪しているのかもよくわかっていなかった。
〈つづく〉
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