第4話

 ある休日、やはり雨降りの日に、庭のスケッチをしてみたいと村長が言いだしたので、リヒトは傘を差して外に連れ出した。

「前から一度やってみたかったのだけれど、我儘を聞いてくれてありがとう」

「いいえ」

 家のあちこちに飾られている水彩画の多くは、村長の夫が描いた作品であるとカリンから教わった。かつては夫妻で村中を回って描いていたようだが、彼が亡くなってからは描かなくなってしまったと、前のメイドから聞いたという。

 もう一度筆を取る気になってくれたことは嬉しかった。しかしそれよりもリヒトは、二人きりで雨音を聴けることが嬉しかった。そんなことは口に出さなかったけれども。

 ちょうど木の陰になっていて雨があまり落ちてこない場所に車椅子を止め、村長とスケッチブックが濡れないように注意を払った。

 木々の葉は、よく見るとひとつひとつ色が少しずつ違う。花の色も、同じ種類であっても僅かに差がある。それらすべてが、穏やかな慈雨に首を垂れている。花木に感情などは無いのかもしれないが、リヒトには彼らが目を閉じて祈りを捧げているように思えた。

 風が吹くと、わずかに土の匂いが混じって漂ってくる。

 静かな雨が降り注ぐ規則的な音。水滴の重さに耐えきれず、しなっては跳ね上がる葉が立てる音。微かな風に揺らされた葉が擦れる音。それから、村長が鉛筆を走らせる音と、静かな呼吸。

 彼女は、この情景に溶け込んでいた。

 その後ろ姿は、色鮮やかで可憐な花々よりも、ずっと美しかった。

 淡い色が塗られた爪だとか、細い手首だとか、髪の間から覗くうなじに浮き出た骨だとか、どうでもいい部分が目について気になってしまう。造形の美しい人間など、いくらでもいるけれども、彼女のものは特別な気がした。

 手入れが行き届いた花のようだ。

 少し考えて行き着いた答えが、自分にも手入れをさせてほしいというものだった。ずっと雨がちで花木の手入れが十分にできないから、代わりが村長だなんて、変だ。リヒトは思わず笑った。

「どうかしましたか?」

「いいえ、気にしないで続けてください」

 この時間が、いつまでも続いてくれればいいと思った。


 村長は小一時間ほどでスケッチを終えると、あとは室内で色を塗ると言った。

 彼女は伸びをしてから、不意にリヒトのほうを振り返った。

「リヒトさん、私は実は人間ではないのよ」

 リヒトは目を瞬かせた。また、からかうつもりだろうか?

「自律式人形だとでもおっしゃるんですか?」

「あら、それなら食事をしないでしょう? 人が住めない森の奥深くに済む種族なの。エルフに近い感じだと言うほうが通じやすいかしら」

 花の蜜が主食で、耳が尖っていたり、背中に生えた薄い翅で空を飛べたりするらしい。そういえば、耳の形は気になっていた。

「若かった私は、夫と駆け落ちして故郷を捨てました。もう百年近く前の話だけれど。私たちは人間よりも老いるのが遅くて、三倍以上長く生きます。森を離れた私は、花の蜜ではなく動物の肉も食べるようになり、森の精気を吸えなくなったせいで翅を失い、少し早く歳を取ってしまったわ」

 でも、そのことを後悔してはいないと、彼女は続けた。

「この庭にある花木の多くは、彼が私のために集めてくれたものなのよ。少しでも木々の精気を吸えるようにって。生まれ育った森でないと、あまり意味がないのだけれど、ここにいると身体が少し軽くなるわ」

 遠い目をして語る視線の先には、生前の彼の姿が見えているのだろう。リヒトは、自分は邪魔者なのかもしれないと引け目を感じた。

「もし森を出ていなければ、私はあなたより若いでしょうね。まだ小娘に毛が生えたようなものです。でも、私は人間になりたかった。もう十分長く生きたと思うのです」

「なぜ俺に、この話をしようと思ったんですか?」

「私は、そんなに先が長くないと思います。だから村長を継いでくれる人を探しているのです。リヒトさん、あなたはどう?」

 降って湧いたような話に、リヒトは戸惑った。

「何をおっしゃるんですか。俺は人間じゃない」

「私も人間じゃありませんよ。あなたは私に似ていると思うの。人のことが怖くて、よく観察しているから、多くのことに気づけるわ。いい人が見つかったら、二人で協力して村を支えていってくれたら……ごめんなさい、お節介ね」

 村長以外の誰かと、うまくやっていけるとは思えなかった。これ以上は何も望まない。以前は、できるだけ長く仕事をしたいと考えていたが、彼女以外の人に仕えたいとは思えなくなっていた。リヒトは首を横に振った。

「リーフィアさんがいなければ、俺がここにいる意味はありません」

 村長は困った顔になった。

「そんなこと言わないで。村長は継がなくても、ここの花や木たちの世話は続けてあげて。人と付き合うと疲れてしまうけれど、こういうのは慣れですよ。あなたは賢いから大丈夫。私とは自然に話せるようになったでしょう?」

「いいえ。本当に言いたいことは、全然言えていません。俺は、手入れした庭をリーフィアさんに見せて回る時が一番幸せです」

 あなたと二人で過ごすとき、時間が止まればいいと思う。微笑んでくれたときは、ずっと見ていたい。庭の木々や草花のように、髪や指先や唇を手入れさせてほしいと思う。

 そう言うと、リーフィアは目を見開いた。それから目線を泳がせ、顔を両手で覆った。

「リヒトさん、ご自分が何を言っているか分かっておられますか?」

「いえ、俺もよく分かっていないんです。やはり変ですか? 不具合でしょうか?」

「も、もう、戻りましょう」

 村長は、濡れるのも構わずに一人で中に戻ってしまった。

 尖った耳の先が少し赤らんでいたような気がする。外にいたせいで冷えたのかもしれない。

 カリンにそのことを伝え、ついでに自分の言葉のどこがまずかったのかを聞いてみた。が、カリンの反応も村長と似たようなものだった。両頬に手を当てて妙に慌てた様子で何も言ってくれなかったので、何一つ分からずじまいだった。


 その次の週から急に空は晴れ上がり、村に短い夏がやって来た。

 山の近くだけあって、街ほど暑くない。おかげで仕事にも精が出た。

 降り注ぐ太陽を浴びて生い茂る草木を見ていると、気分も明るくなる。

 あれから村長には、自分の言ったことのどこがおかしいのか、何度か問い詰めてみたものの、毎度答えをはぐらかされてしまった。カリンも同様だ。

 村の他の住人とも簡単に仲良くなれる性格ではないので、もし話せる人が出来たら聞いてみようと、のんびり構えることに決めた。さっさと技師に相談してしまっても良いのだが、余計なことを言って人工知能をいじられるのは嫌なので、とりあえずは黙っておくことにした。

 村長を継ぐ件については、はっきりと断っておいた。村長は残念そうだったが、もしも考えが変わったら言ってくれればいいと言って、それきりその話は出さなかった。


 空が少しずつ高くなり風が涼しくなってくると、村長は、時折あの遠い目で庭の向こうを見つめるようになった。

 カリンによれば、夫の命日が近いからだという。この時期は、そっとしておいたほうが良い、具体的には『不具合』を見せないほうがいいとアドバイスされ、リヒトは黙々と仕事に専念することにした。


 ある満月の夜、零時を回った頃。階下で微かな物音がした気がして、リヒトは目を覚ました。

 何気なく窓の外を見ると、テラスの扉が開いている。まさか侵入者ではと思い、しまい込んでいた剣を急いで出して一階に向かおうとしたとき、廊下の突き当りにある村長の部屋の扉が開いているのが見えた。

 何者かが押し入っていないか確認しに行くと、室内には誰もいなかった。襲われた形跡はなく、ほんの少し安堵したが、村長の姿を見るまでは安心できない。夜風に当たりに行っただけであることを祈り、武器は持ったまま庭に出た。

 庭のどこにも村長の姿はなく、もしや、と思い当たった。

 あの柵の向こう側だ。

 予想通り、柵の扉は開いていた。言いつけを破ることになるが、後で謝罪しようと決めて中に踏み込んだ。

 柵の中はリヒトの部屋二つ分くらいの広さだった。薄紫の小さな花をつけた背丈のある植物が一面を埋め尽くしており、村長は車椅子から降りて墓の前で跪いていた。

 ほっとしたリヒトは、彼女がすすり泣いていることに気付いて足を止めた。彼女はリヒトに気付いているはずだったが、顔も上げずに、ずっと泣いている。

 こういう場合は立ち去るべきだと、これまでの経験上分かっていた。

 だが、足が動かなかった。

 秋の虫が静かに鳴いている。風がさっと吹いて、足元に咲いている花が揺れた。リヒトは剣を置いて墓の方に歩み寄った。村長は微動だにしない。

 墓石の文字を読むと、墓の主は半世紀ほど前に亡くなっているようだった。

 リヒトは羽織っていた上着を村長の背中に掛け、背を向けて立ち去ろうとした。

「リヒトさん」

「はい」

 振り返ると、村長は鼻が詰まった声で「ありがとう」と言った。

「いえ、勝手に入ってお邪魔してしまって、すみませんでした。テラスの扉が開いていたので、何かあったのかと思ってしまいました」

「心配を掛けてしまったんですね。ごめんなさい。今日はこの人の命日でしたので」

 どう話を続けていいか分からず、リヒトは薄紫色の花の名を尋ねた。

「シオンです。毎年いつもこの時期に咲く花です。私の故郷にもたくさんあって、夫がこっそり種を持ってきてくれました。この花がたくさん咲いて囲んでいてくれれば、彼も寂しくないと思って植えたんです」

「綺麗な色ですね。きっと喜んでおられると思います。でも俺は、リーフィアさんが笑っていらっしゃるほうが嬉しいと思いますよ」

 彼女はリヒトを見上げて、顔を歪めた。

「俺があなたより先に壊れて、あなたが悲しんでくださるとしたら、嬉しいですが、嫌です。笑っていてほしいですから」

「私より先に? そんなの、やめて。また私を一人にしないで」

 なんとかして泣き止んでほしいと思って口にしたのだが、かえって彼女を泣かせてしまった。

「私は長く生きすぎたの。人間として、あの人と一緒に死にたかった。でも、絶対に後を追うなって、村を守ってほしいって、あの人が言うから」

「そうでしたか。おかげで、俺はあなたと出会えました」

 リヒトは屈み込み、彼女の手を握った。少し冷えてしまっている。

「リヒトさん、私なんてやめておきなさい。私は長生きするつもりはないの。あるべき姿を捨ててしまったから、もう自然に逆らわないの」

 何を言えば泣き止んでくれるか考えてみたが、結局答えは出なかった。うまく言えなくてもいいから、言いたかったことを言おうと決めた。

「リーフィアさん、あと百年生きると言ってください。俺も百年生きます。あなたを泣かせたくありませんから、身体を大事にします。俺だって、あなたがいなくなったら寂しさでどうにかなってしまいますよ。木々の精気を吸えるよう、いい庭を保ちます。だから、先が長くないなんて言わないでください」

 リーフィアは唇を震わせて泣いていたが、ふっと口元を緩めて微笑んだ。

「リヒトさん、あなたにしては長い言葉でしたね。でも、ご自分が何を言っているか、わかっていらっしゃるの?」

「やはり不具合なんですか?」

「そう、そうね。人間も、私達の一族も起こす不具合ですよ。そのせいで、私は故郷を捨てたんですから」

 彼女は、リヒトの手を掴んでよろめきながら立ち上がると車椅子に座り、少しのあいだ満月を見上げてから、再度くすくすと笑い出した。

「リーフィアさん、その不具合について、カリンも知っているくせに教えてくれないんです。なぜですか」

「あなたは本をよく読んでいるから、きっと知っていると思うのですが。また教えますよ。部屋まで連れて行ってくださる?」

 彼女がいつも通りの表情に戻っていたので、リヒトは胸を撫でおろした。

「リヒトさん、時々でいいです。夫の墓の手入れをしてくれますか?」

「わかりました」

「前よりも表情が豊かになりましたね。私とも自然に話せているし、今度、私の友人たちと一緒に茶会をしましょう。あなたを連れてきてくれた女の子たちですよ」

「ステラさんとシェリルさんですか? たまに会ったときは挨拶しています」

「それなら大丈夫ね。ほら、前に言っていた、あなたに不幸なお告げをした占い師の話でも聞きましょう。ステラのお師匠さんです」

「えっ、そうだったんですか?」

「いきなり不幸なお告げをしないように叱ってもらいましょう」

「そうですね。でも、彼もここに来たきっかけの一つだと思います」

「人がいいのね、あなたは」

 テラスまで戻ると、リーフィアはリヒトを見上げて、目をじっと覗き込んだ。

「リヒトさん、不具合を起こした人間がどういうことをするか教えましょう」

 彼女が立ち上がらせてほしいと言うので、肩と腰に手を回して抱えようとすると、なぜか眼鏡を外され、両頬を掴まれた。

「あの、これじゃ……」

 立ち上がらせることができないし、顔が近すぎてよく見えない。そう思っているうちに口を塞がれた。

 何が起きているのか、よく分からなかった。数秒間そうしていたが、その間に必死で知識を総動員して辿り着いた答えを口にした。

「リーフィアさん、俺は人工呼吸できませんよ。息を止めたら、あなたが窒息してしまいます。脈拍数も上がってしまっています」

「もう! 本当に全然知らないのね。人工呼吸じゃないわ。いつも何を読んでいるんですか? 小説じゃないの?」

「すみません、小説はあまり。でも、何だか嬉しい気がします。寂しくないと思いました。毎晩してもいいですか?」

 正直なところを告げたのだが、彼女は顔を真っ赤にして「おやすみなさい」と言って一人で部屋に戻ってしまった。

 翌朝、カリンに質問してみたが、結局いつもどおりのよく分からない反応が返ってきただけだった。謎がようやく解けたのは、二人の少女と茶会をした際に、こっそり聞いてからだった。

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百年の庭 陶守 美幸 @miyukisuemori

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