二人分の心音

平川彩香

二人分の心音

 枯葉が風に吹かれてカサカサと乾いた音を奏でる季節——私の心臓があったところには、ぽっかりと空洞ができていた。


更紗さらさ、ご飯できたよ」

「今行くから、ちょっと待ってて」


 他愛のないこの会話。すぐに彼の元へ戻っていれば、あんなことにはならなかったのだろうか。


 私にはわからない、誰にだってわからない。真っ暗な闇の中を、私たちは手探りで歩んでいるのだから。


 湖面に木の枝から水滴が落ちた音と、彼が倒れる音はほとんど同時に私の脳内で鐘のように響いた。



稀恭ききょう⁉稀恭……‼」


 揺さぶっても目を覚まさない彼を前に、私は冷静でいられなかった——冷静でいられるはずがなかった。


 すぐに救急車を呼び大学病院で救急医療を施したが、彼の心臓は弱々しく拍動するだけで、意識の回復さえ難しいだろうとのことだった。


 言葉にできない苦しさが私の胸を押しつぶしてしまいそうで、必死に息をしようとしてむせた。空を見上げると、無慈悲にもいつもとそう変わらない光景が広がっている。真っ暗な闇の中にひっそりと佇む銀色の月。その光が、血の気のない彼の肌をより一層青白く見せている。


 その夜は、彼と一緒に星を見る約束をしていた。双子座流星群。十二月頃から見られる、フェアトンという小惑星を母天体とする流星群だ。



 十年前——私の両親が交通事故で亡くなった年に彼に誘われて、私は彼と湖のほとりで星を見た。寒さで目に涙が溜まっていて、あまりはっきりとは見えなかったけれど。彼は、美しい星々を眺めながらこんなことを口にした。


「僕が星になったら、夜空を見上げてほしい」


 当時の私には彼の真意がわからなかった。今なら、その言葉の意味が分かる。あの時、彼はただ一人で、迫りくる真っ暗な自分の未来を見つめていたのだろうか。誰にも言えない、自分の秘密を胸の内に抱えながら。


 私は彼に向かって微笑んだ。

 

「十年後、絶対またこの場所で星を見よう」


 その十年後の今、私は彼が眠るベッドに腰かけて、窓越しにそれを見ている。少し形は違うけれど、その願いは叶えられた……と、思う。

 次々と落ちては燃え尽きていく星々に、私の心臓は強く拍動する。


 嗚呼…あの日もそうだった。


 夜空と湖面に映る星々を見ながら、届きもしない上空に手を伸ばして、まだ幼かった私は落ちてくる星を手に取ろうと必死だった。


 滑稽だ。あんなことをして、いったい何になるのか。気が遠くなるほど遠くにある星を、掴めるはずもないのに。


 だが、意味のない動作に見えるものも、子供には何かしらの意味があるのだ。意味を持たないものなどないのだと、私は矛盾を抱えて過去の想像の中の自分を、まるで他人のような目で見つめた。あの頃は単純で、" 常識"なんてものに囚われずに物事を考えられた。そう、自由——…


 はっと我に返り、膝の上で握りしめた手の力を抜く。手の平に爪の跡が残ってしまっている。小さくため息をついて、顔も覚えてもいない、両親の写真を鞄から取り出した。どこにも懐かしさを感じないそれに、胸が痛くなることもない。


 この痛みに慣れてしまったからなのだろうか。いや、そうであってほしいと思う。もう、同じ痛みは味わいたくない。自分の心臓の上に手を置いて、その鼓動を感じようと静かに目を閉じた。


 星々と彼。


 両方を交互に見合わせて、私はある大きなをした。もう一度空を見上げる、青白い顔をした月は一層、より孤独に見えた。


 朝一番、私は医師の元を訪れた。もちろん、高度な技術とリスクを伴う、今までに例のない手術の提案に医師は反対したし、彼は医師としての自分の名誉が傷つくのが何よりも嫌なようだった。結局その日は部屋を追い返されたけれど、私は懲りなかった。毎日、毎日、空いた時間さえあれば医師に懇願した。


 結局、医師は最後まで反対していたけれど、その予測に反して手術は上手くいき、その医師は私にわざわざ声をかけに来た。それがただ、自分の名誉を高められたお礼だとしても、何にしても、私にはどうでもよかった。


 彼が生きているなら、助かるなら、それでいい。


「気分はどう?」


 目を覚ました彼は、よくわからないというような表情を浮かべた。まだ意識のはっきりとしていなさそうなぼんやりとした目で、私を見つめている。


「思ったより、僕の身体は丈夫みたいだ」

「そう、よかった……」


 ふっと息を吐いて力なく笑う彼は、まだ知らない。いや、知らない方がいいのかもしれない。きっとあのことを知れば、彼はもう笑顔を見せてくれないだろうから。



「少し外に出たい」


 引きこもりがちの彼が珍しくそう言った日、看護師に車椅子を用意してもらって私たちは久々に外の空気を吸いに行った。術後はずっと彼の傍にいたし、良い気分転換になるだろう。


 外は凍てつくほどに寒いが、真っ青な空が清々しい。陽の光と一緒に彼の笑顔が身に染み渡っていく。冬の陽は、こんなにも暖かかったか。ただ、私がそう感じるのか。


 粉雪の降る中庭で、彼が楽しそうに笑い声をあげる。車椅子から身を乗り出して、手の平にそれを受け止めようと空へ手を伸ばす。彼の歳には不相応なその姿に思わず笑みがこぼれた。


「ねぇ、更紗」

「なぁに」


 短いやり取りだった。


 それだけでも、私の心情は彼に筒抜けになってしまう。胸の上に手を当てても、もう温もりは感じられないし、彼の手を握って、冷たくなった手を温めてあげることもできない。それでも、私は彼といられるだけで幸せだった。


 この細やかな幸せの他には、もう何もいらない。


 彼は驚くほどのスピードで回復して、あっという間に退院の日を迎えた。そして私たちはまたあの場所で一緒に暮らし始めた。家の中は少しほこりがかかってしまっていたけれど、一ヵ月前と変わらず家はそこにあって、隣には彼がいる。ちょうどいい季節だったし、私たちは帰りに寄ったガーデニングの店で買った花の苗を花壇に植えた。庭の桜は、もうそろそろ咲こうかと風につぼみを揺らしながら小声で話している。


「稀恭、覚えてる、あの時の約束」


 静かな声で問うと、僅かに息の音をさせて彼はうなずいた。


「またここで暮らして、花を植えて、十年後には星を見て、それから」


 少し間を開けて、彼が大げさに声を大きくしていった。



「……一緒に桜ラテ飲みに行こう!」



「そう、それも」


 笑いながら彼と顔を見合わせる。一番大事な約束は、口には出さない。壊れてしまったら、困るから。心の中で最後の約束を唱えて、私は小さく微笑んだ。


 桜が満開になって、風が吹くと花びらが舞う日、私たちは行列ができるほど人気なカフェに足を運んだ。そこからはちょうど通りの桜並木と川が見える。


「休日に来なくてもいいんじゃないか?」

「だってこれ、日曜限定なんだもん」


 店内は忙しなく動くウエイトレスや親子連れで賑やかだ。彼があまり人混みが好きでないのは知っているけれど。 


「お待たせしました、桜ラテとガトーショコラです」

「わぁ……おいしそ」


 目の前に置かれた桜色のラテとガトーショコラを交互に見ながら彼が笑って言った。


「桜の木みたいだな」

「外の景色に合ってて綺麗だと思って」


 ラテに刺した紙ストローでつぅ、と吸うと桜の香りが私を包み込む。彼の目が一瞬だけそちらを向いたのを見て、彼の頬をつついた。


「……ガトーショコラなら一口あげてもいいけど?」

「いや、いい」


 私は笑いながらプスリとガトーショコラにフォークを刺した。サクッとした表面を突き抜けて、しっとりとした生地が切り込みを入れられていく。パラパラとこぼれる粉砂糖が、ちょうど窓から見える桜の花びらのようにゆっくりと舞い落ちる。


「言うと思った」

「じゃあなんで聞いたの」


 甘い、粉砂糖のような声が私を優しく包み込む。


「……なんとなくかな?」


 私はガトーショコラを口に放り込みながら隣の席へと目線を移した。仲の良さそうな高校生カップルが頼んだケーキを半分にしながら笑い合っている。昔を懐かしんでいると、おかしそうに口元に手をやる彼と目が合った。


「なに…」

「いや、更紗もまだ子供なのかなと思ってさ」


 彼の指が私の頬に触れる。優しく拭われた彼の指には生クリームがついていた。


「それで、笑いを堪えてたんだ?」


「僕、そんな顔してた?」

「してた」


 顔を見合わせて、クスクスと笑い合う。指にはめた銀色の指輪が店内のオレンジ色のライトで照らされて星のように輝く。彼の指にも同じものが光っていて、私はそれを見つめながらまた一口、ガトーショコラを口に運んだ。


「抹茶ラテのお客様」

「あ、僕です」


 受け取った抹茶ラテを嬉しそうに写真を撮る彼も、子供みたいで可愛い。ウエイトレスは、幸せそうで羨ましい、とでも言うようにコトリと靴音を立てて去っていった。


「ん、なに。あげないからな?」

「まだ何も言ってないんですけど」


 笑いながら自分の桜ラテをテーブルに置く。ずっと持っていたせいか、指先がすっかり冷たくなってしまっている。写真を撮る彼を見ながら、私は微笑みかけた。


「ほんと、稀恭は抹茶好きだよね」

「ん……まぁな」


 苦みの奥で甘みが感じられる抹茶は、どこか彼に似ている気がする。それを伝えると、彼は笑って言った。


「なら更紗は桜かな」


 首を傾げると、彼は窓の外を見て恥ずかしそうに左頬を搔いた。


「桜は、すぐに散ってしまう儚さと根強く生えるところから、優美な姿、精神の美という花言葉があるんだ……」


 変に間を開けてから、彼は付け足した。


「更紗は、とても素敵だよ」


 私は彼の表情を見て、小さく息を呑んだ。桜には他にも、花言葉がある。


"私を忘れないで"


 彼は既に、私の秘密に気が付いていたのだろうか。



 ついに、その日がやってきた。十年前のあの日からずっと心待ちにしていた、この日が。予定の時刻まであと二分。二分がこれほど長いと思ったことがあっただろうか。


「そんなに見上げてたら首が痛くなるよ」

「一つでも、見逃したくないの」


 夜空を見上げていると、今にも降ってきそうな星々が所狭しと並んでいる。あの時と同じで、手を伸ばせば届きそうで、届かない。虚しくなるような距離に思わずため息をつく。


 星々の中から一つ、星が空を駆けて落ちた。次々に、その星の後を追うようにして紺色の空へ姿を消していく。星の降る夜空は嘘のように綺麗で、感嘆の息でさえ呑み込んでしまう。

 姿を消した星々はどうなったのか。きっとあの星々は輝きを保ちながら、海中を照らし、海底に辿り着いた時、ゆっくりと闇が星を飲み込むのだろう。実際には、ただただ地球の大気と衝突して燃え尽きるだけだが。そんな現実染みたものをいちいち考えていたら、ロマンなどというどこか艶めいたものなど生まれやしない。


「更紗は夢想家だよね」

「知ってる」


 そっと頰に手を添えられて、親指で頰を撫でられる。心の中で、カチリという開錠音のようなものが聞こえる。ずっと昔に置き去ってきたものが、水面に浮かび上がってくる。それは重たくて、もう顔を出すことなどないと思っていたのに。不安定な夜に、が崩壊していく。



 不意に、彼に抱きしめられた。強く、強く、離れないように。彼の声が私を呼ぶ。愛おしいその声で、何度も、私の名前を。心臓の音が、血が身体を巡る感覚が、体温が、私の中に流れ込んでくる。


 背中に腕を回して、彼を抱きしめる。彼の手も、自分の手も震えているのがわかる。抱きしめられていて顔は見えなかったけれど、彼は泣いていた……と思う。冷たいものが頬を伝って、零れ落ちる。雨は降っていないのに、それは私の頬を濡らしていく。



「何で……更紗が泣いてるの」


 啜り泣きの声は、自分の声だったか。頬に手を当てて初めて、自覚する。


「わかんない……自分でも、わかんないよ」


 幼い子をあやすように、彼は私を撫で続けている。その間もずっと、星々はこぼれ続ける。最後の一つが落ちてしまう、その瞬間まで。

 とくとくと、彼の心臓の音がする。その音は弱々しくて、今にも消えてしまいそうで……それに重なって、私の心臓の音が聞こえる。





 二人分の、心音が。





「更紗…」


 彼が私の名前を呼ぶ。


「なぁに、稀恭」


私は彼の声に応える。


「……いよ」


小さく、息を呑む。私は悟った。


「…聞こえ……ないよ」

「稀恭…」


 願っても、どんなに手を伸ばしても、もう届かない———叶わない。わかっている、それでも、私は彼の声に応え続ける。


「聞こえないよ!!!」


 彼が叫んだ。その声は震えていて、今にも泣きそうで——…彼は、行き場のない手をぐっと握りしめた。小刻みに震える彼の唇から、ぽろぽろと言葉がこぼれ落ちる。






「なんで更紗は——」


 風が吹いて、湖面にさざ波が立つ。それほど強い風ではなかった。


 ある種の雑音が、周りの音を掻き消していく。それなのになぜ、彼の声だけはこんなにはっきりと聞こえるのだろう。


 彼は悲哀の混じった顔で無理矢理に笑顔を作って私に向けた。季節外れの桜の花びらが私たちの周りを舞う。そして、私の耳に、あの優しい声が囁いた。















「更紗はどうして、僕に心臓をくれたの」

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