第5話 一樹と、貴和子と


 俺は女には淡白だった。

 付き合った女もいたが、激しく求めるでもない。放ったらかして角の立たぬよう、そこそこにかまうだけ。

 それはおそらく千夜子の呪いだ。


 貴和子を引き留めて視線を合わせた時にそう気づいて、俺は思い知った。

 貴和子が欲しい。

 初めから、貴和子に惹かれていたくせに。




 少年の日、千夜子の色香にあてられた俺はそれを忌んだ。呑み込まれるように恐ろしく感じて封じた。大人になっても理性で扱える範囲しか許してこなかった。

 それがなんで、十四も歳下の、無垢であろうと足掻いている女に惚れるんだ。しかもそれは千夜子の娘。


 貴和子は透き通って、頑なで、すべてを拒むような女だ。でもその芯には、何かが渦巻いて抑えつけられている。

 たぶん貴和子も囚われていた。母の呪縛に。母のようになりたくなくて、あの人の弄んだ色恋を封じたのだろう。



 でも今、雨夜の路上で貴和子の瞳は揺れて揺れて揺れて、俺を見つめている。ここから連れ出してくれと叫んでいる。


 もういいのか。

 俺でいいのか。

 千夜子に呪われた者同士で、呪いを解いても。



「かず、き、さん」


 掠れた声で貴和子が名を呼ぶ。

 ぞわり、とした。背すじを貫くものがあった。つかんだままの腕を少し寄せる。貴和子は抗わなかった。

 貴和子の手から、傘が落ちた。





 ***





 試写会があったのは季節が過ぎ、冬になってからだった。一樹さんは約束通り私と一緒に出席してくれた。

 あのプロデューサーはもう、つきまとってこない。父はそれなりに大御所の脚本家だ。睨まれるのはまずいらしい。


「じゃあ俺が行かなくても」

「いいでしょう。どうせ後で観に行くなら、ついでです」


 関係者に囲まれてるなんて落ち着かないよと苦笑する一樹さんは、変わらず穏やかだった。



 ずいぶん歳が上だからと私のことを大切に大切に甘やかす。

 私は嘘のように溶かされて満たされて、そういうことだったのかと思い知る。



 私はやっと母を見つけた気がしていた。

 父がそばにいられなかったからなんだね、お母さん。

 母が求めた愛はもらえなかった。だから母は愛を欲しがった。その希求する引力に、皆が狂わされて――私も、一樹さんも。


 母は愛されたかっただけ。綺麗だと、素敵だと、言ってもらいたかっただけ。父から。

 だから母が遺したのは呪いなどではなかったのだ。遺したのは、あれは祈り。

 愛という祈り。





 ***





 貴和子の頬は、俺が愛しても硬さを失わない。だがそれは凍てついたものではなく、透明な釉の掛かった陶器のそれだ。磁器ほどに薄くなく危なげなく、あたたかみが透けて見える土の器。

 初め俺は、貴和子の孤独につけこんでいるのではと危惧した。十四も歳が上なのに、俺には余裕がなかった。貴和子ならばいくらでも欲しくて、貴和子を壊しそうで恐れた。

 だがそうっと俺を包もうとする貴和子からは、確かに感じる。愛したい、と。



 貴和子の父には試写会で会った。それはつまり千夜子が愛した男で、それでも俺にはどこを愛したのかさっぱりわからなかった。

 男と女なんてそんなものだ。端からは、何もわかるはずがないのだった。だから俺と貴和子のことも、他人に理解してもらわなくとも構わない。


 貴和子の父はちゃんと千夜子を愛していたらしい。他にも愛はあったかもしれないが、千夜子への愛も確かにあった。

 面影を残す貴和子。その姿をスクリーンで観てみたかったのだと、俺にだけ小声で言われた。

 そういう言葉はまた呪いを掛けかねないと思うのだが、だからあえて俺に言うのだろう。とんでもない奴だ。

 芸術の世界には、呪詛が満ち満ちているのかもしれない。




 スクリーンの中の貴和子はやはり綺麗だった。俺の目に映る貴和子とは違っていても、それなりに魅力的だった。

 帰りながら本人は、私とは思えないと微笑んで遠くを見やった。

 そうだな。

 ここにいる貴和子が、貴和子だ。


 曇った都会の冬空の下、歩く貴和子は時々隣を向き視線をくれる。俺を貫き通す視線。いつ果てるとも知れない愛を。

 その愛はたぶん果てない。俺がしっかりと貴和子を見てさえいれば、もう千夜子の呪いに再び掛かることはない。

 貴和子はそれを確かめながら、俺の隣を歩いて行く。


 二人で交わす視線は凪いでいた。空を呪う白浪も凪ぐ。


 ここにあるのは祈りだけだ。

 いつまでもいつまでも、そうありたいという永遠の祈り。

 愛という、祈り。







                 終





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色恋 山田とり @yamadatori

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