第4話 貴和子 2


 私は何故、一樹さんに助けを求めてしまったのだろう。

 半年も前に一度会ったきりの人。私には親戚として一応の気遣いをくれただけの人。ちゃんと考えてみれば迷惑でしかなかった私の要求に応えてくれて、私は嬉しかった。


 そう、嬉しかった。


 助かったとか安心したとかでなく、嬉しい。それが私の感じたこと。

 振り回してしまったのに、それを喜ぶだなんて。母に言い寄っていた人達と、それをあしらっていた母の姿を思い出した。


 これは母の遺した呪いかもしれない。




 気持ちが落ち着くまで一人にさせられないと心配された。でもファミレスは少し歩いた街道沿いにしかない。駅近くで腰を据えていられるのは居酒屋だけだった。申し訳なさそうにされたけど、家業が小料理屋だったのだから抵抗などない。


「顔色が良くなった」


 席に着いて、一樹さんはやっと安心したようだった。私の様子はそんなに酷かったのか。

 そうかもしれない。

 あのプロデューサーの言うなりになったら、母のように人の視線と心を請う女に堕ちてしまいそうで怖かった。そんな母に振り回されて生きてきたことを思い出すだけで血の気が引く。


 なのに、一樹さんのことは振り回すんだ。

 私の心が自分をあざけった。



 枝豆に軟骨揚げ、シーザーサラダ。そして私はウーロン茶。知らない店でも慣れた風にビールを飲んでいる一樹さんが向かいにいて、私はそれをじっと眺めてしまった。


「元気が出たなら、何か食べたい物を頼んでいいよ」


 私の視線に気づいたのか、一樹さんは壁に貼られたお品書きを見上げた。


 そうじゃない。

 どうしてこの人は私を気にかけてくれるんだろうと考えていた。そして、この人からの気配りなら嬉しいのは何故だろう、とも。



 私は誰からも注目されたくなかった。

 これまでずっと「千夜子の娘」で「あの小料理屋の子」だった。他人が私を見る目は非難に満ちていて、私はいつも消えてしまいたかった。


 なのに一樹さんの目は嫌じゃない。

 最初から一樹さんには母とは違う「私」が見えているように思えた。母のことも家のことも承知でそうしてくれる人は、他に知らない。



「モツ煮込み、食べていいかい。おじさんくさくて悪いけど」

「……母のモツ煮込み、美味しかったんですよ」

「へえ。やっぱり店に行ってみるべきだったな。モツ煮が旨い店はいい店だと思ってる」


 やめて。

 来てくれなくてよかった。母に見惚れる一樹さんなんて見たくない。母から微笑まれたら、私に向ける真面目な顔とは違う人になってしまう。母に呪われないで。

 あなたには、今のように穏やかに笑っていてほしい。


「……母のお客さんは、料理より母が目あてでした」


 とげのある言い方になったかもしれない。一樹さんは少し言い淀んでから苦笑した。


「千夜子さんは、綺麗だったね」


 記憶を探っていた目が、次に私の上に留まる。


「――貴和子も、とても綺麗だから。気をつけるんだよ」


 気をつけろというのは今日のような事があったからだろう。

 でも呼び捨てにされて、綺麗と言われて、鼓動が速まった。これまで男性に容姿を褒められても嫌悪感しか抱いたことがなかったのだけど、今は心地よかった。


 泣きそうだ、こんな自分。




 我が儘で迷惑をかけたのに、一樹さんはご馳走してくれた上に家まで送ると言う。

 そぼ降る雨は止んでいなかった。水溜まりに街灯が映って揺れている。二人で傘を差して歩いた。傘があれば近づき過ぎずに済む。距離を詰めるのはどうしてか怖かった。


 あの映画プロデューサーのことは父から注意してもらえ、とも忠告してくれた。

 あまり父に頼りたくはないが、元は父の無茶な要求から始まったのだった。それぐらいは言っていいと思う、と一樹さんは私を励ました。またこんな事があったら外に出られなくなるし、そうすると約束した。


「貴和子が出ているなら、その映画、観てみたいな」

「……回想シーンが何カットかあるだけですよ」

「きっと綺麗に撮ってくれてるよ。惚れ込んでるのは本当だと思う」


 そうなのだろうか。父が母にそうだったように。


「じゃあ、試写会があるでしょうから、一緒に行ってください」

「それは関係者のやつだろう? 題名を教えてくれれば公開中に勝手に行くから」

「嫌です。あのプロデューサーが怖いから、来てください」


 ああ、また我が儘。どうしてこんな事を言ってしまうの。ほら、一樹さんが困った顔で迷ってる。


「ええと、貴和子は……付き合ってる人なんかはいないんだよね」

「あ」


 そうか。一樹さんは私よりずっと大人だ。一人暮らしとは聞いたけど、恋人ぐらいいて当たり前なんだ。


「ごめんなさい――私、迷惑ですよね。ごめんなさい。うち、すぐそこなので、ここで」


 カァッと赤くなったかもしれない。夜道で助かった。早口で言って、私は走って逃げ出した。


「待って、貴和子!」


 一樹さんはあっさり追いついてきて、私の腕をつかんだ。振り向いて、私はその手を離されたくないと感じていることに気づく。


 この人を、私のそばに置きたい。置いてみたい。知りたい。


 ――ああ駄目だ。私も、やっぱりこんな女なのか。


 相手の都合など知らない。

 ただ奔放に、愛した人を愛したい時に愛するだけ。

 そんな母と同じ心が自分の中にあるだなんて、知りたくなかった。








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