第3話 一樹 2


「助けてください」


 念のために教えた電話番号に貴和子からそんな着信があったのは、梅雨の夜だった。

 俺は会社を出たところだった。雨音と雑踏の中に貴和子の張りつめた空気が耳を刺す。


「どうした。どこにいるんだい」

「駅です。うちの。改札前」


 震える貴和子の小声は早口だった。


「電車で何かあったのか」

「いえ。駅を出ようとしたら、待ち伏せされてて」


 言われたことは要領を得ないが、穏やかではない。俺はつとめて淡々と話した。


「落ち着いて。駅員さんがいるだろう、助けを求められるか?」

「駄目です、知り合いなんです、仕事の。騒ぎにしたら父が」


 貴和子はうろたえた声で言う。正月に会った時のしっかりした様子からは信じられない弱々しさだった。仕事だの父親だの、まったく話の中身はわからなかったが、行ってやった方がいいのだろうか。


「わかった、そこで待っててくれ。今は安全なんだね? 人目はあるね?」

「はい」

「俺はまだ会社の前だから少しかかる。頑張れるか?」

「はい」


 答える声は頼りない。不安を掻き立てられながら足を早めた。

 いつもの各駅停車じゃなく混み合う急行に乗って、自宅を一つ過ぎた貴和子の最寄りで下車する。人波に乗って改札に向かうと、コンコースの壁際に貴和子と男が見えた。


 距離があるのにすぐ気づいたのは、貴和子の白い顔が無表情に顎を上げて男をめつけていたからだ。こんな状況なのに俺は貴和子に吸い寄せられた。目を引かれた乗客達もチラチラとしながら通りすぎていく。

 男の方は四十代ぐらいだろうか。軽いジャケットを着た、おそらく自由業な雰囲気。その背中から近づくと、貴和子の視線が俺を捉えた。貴和子はフラと駆け出して俺にぶつかるようにしがみついた。


「貴和――」


 驚く俺の肩に額をつけ、袖をつかむ。身体こそゆったりと離れているが呼吸が震えているのがよくわかった。


「君が貴和子ちゃんが待っていた相手か」


 向き直った男が値踏みする目で俺を見た。癇にさわる。向こうが一回り以上歳は上だろうが、初対面の相手に失礼極まりなかった。


「――この人は?」


 直接言葉を交わすことを避けて貴和子に目を落とした。貴和子は我に返ったのか頭は上げたが、袖は離さない。


「――映画の、プロデューサーさんです。父に言われてちょっとだけ出ることになって」

「映画?」

「いや、ちょっとじゃないよ。台詞はないけどキーになる女なんだ。運命の女ファム・ファタールっていうの?」


 滔々と語られたところによれば、主役の行動原理を形作った思い出の中の女、という設定らしい。撮影そのものは五月に済ませたのだが、そこでこの男は貴和子に魅了されたのだった。

 今後の女優活動を勧めているというが、できるなら私的な関係も、との思惑が透けて見えた。下衆だ。


「本人にそのつもりがないなら、押し掛けるような真似はどうかと思いますよ。お引き取り下さい」

「君ねえ、この透明感、埋もれさせるのは惜しいと思わないかい?」

「その透明感を自分色に染めたいと?」

「……もちろん、僕の作品に起用したいんだよ」


 嫌味を言ってみたら開き直った態度が返ってきて腹が立った。


「若い女性を待ち伏せなんてするもんじゃないでしょう。それじゃストーカーと変わらない。貴和子を怖がらせるなら、通報してもいいんですよ」


 俺はことさら親しげに呼び捨てて肩に手をかけてみせた。それを拒まない貴和子を見て男は顔を歪めたが、小さく「じゃあまた」と吐き捨てて改札をくぐっていった。


「行ったよ」


 知らない男と言い合うのは俺だって得意ではない。緊張をため息と共に吐き出すと、腕の中の貴和子が顔を上げてこちらを見た。

 青ざめた頬。見開いた瞳。

 千夜子と似た顔の貴和子なのに、その硬い視線は似ても似つかなかった。それが反対に最後に会った時の千夜子を思い出させた。




 正月の、親戚一同が集まる中に千夜子は帰省して来た。

 垢抜けた格好の綺麗な女。田舎の中学生だった俺は呆然とした。

 まじまじ見ていると、千夜子からツイと視線が飛んできた。染みるような濡れたような黒目が俺の上に留まって笑み、俺は背中がぞくりとした。

 そういう感覚がなんなのか。その時の俺にはわからなかった。でも何故だかとてもいけない事のような気がした。



 千夜子は、俺の記憶にある初めから千夜子だった。

 対して俺はただの少年だった。凡庸な、箸にも棒にもかからない男子中学生。幼い子どもでもないが大人になど遥かに届かない存在。



 千夜子がくれた視線で引き起こされた、自分の肚にぐるぐると渦巻く衝動。それを気持ち悪く思いつつ、その底の知れなさに惹かれてもいた。暗い情動は人を突き動かす理由として十分なものだ。

 でも俺は、そのまま流されることに抗った。俺は千夜子のいるだろう親族の集まりにはもう顔を出さなかった。反抗期の子どもの行動として、大人達は叱責しつつ最終的には諦めた。


 何か汚らわしいもののように思えたのだ。とてつもなく魅力的にも感じたくせに。




 そして今、似て非なるが俺を真っ直ぐに惹きつける女がそこにいた。

 透明感とは、あの男もよく言ったものだ。

 その通りだった。










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