第2話 貴和子 1


 日本海に面した河口の町。母、千夜子の郷里は私にはあたたかくなかった。

 それは母のせいなのだけど。



 母は高校を出るとさっさと東京に向かった。進学でも就職でもなく。芸能事務所だか劇団だかにいたらしい。

 母は売れたかったのだそうだ。ちやほやされると嬉しいの、とよく言っていた。

 それは小料理屋の女将になっても変わらない。おかげで母に入れあげた男の人の家庭が軋み、そこの子どもから私に八つ当たりが回ってくることも、ままあった。


 学校はずっと居づらい場所だった。でもいい成績を取っていれば教師はかばってくれるし、こうして東京の大学にも進める。

 私に眉をひそめる人々に対して顔を上げているためには、そうするよりなかった。


 東京なら、誰も私を見ないだろうか。

 



 空港へはバスで四十分ほどかかる。

 車窓から見えた雪の残る田んぼにはもう白鳥はいなかった。二月には群れてゴソゴソと何かを食べていたものだけど、さっさと北へと渡る時期か。


 そして私も東京へ渡る。十八の歳でここから逃げるのは、母と同じだった。




 曇り空に飛び立つ飛行機からちらりと見る海。荒れているというほどではないが、白浪が忙しい。


 あの浪は、いつまで空を呪っているのだろう。いつ果てるとも知れない呪い。

 呪いというのなら、人の心の方がよほど呪詛に満ちているけれど。



 ――母は呪われていたのかもしれない。

 誰かに見つめられずにはいられない。男にもてはやされることでやっと生きていた母。

 母は何に囚われていたのか。




 私を産むまではいくつかの映画やドラマに出て、舞台にも上がったらしい。そこで脚本家の父と出会った。

 父は母にぞっこんだった。崇拝していた。

 だが本妻のことも崇めていた。本妻は美人ではないが、いわゆる憑依型の女優。その凄みのある芝居が絶賛されている。

 つまり、父は何かしらの才能を愛する男なのだった。芸術家によくある破綻を内包した人間。


 血のつながりなど否定できればしたい。でも私には力がない。

 父の援助がなければ東京に進学し暮らすことも叶わなかった。母の店を畳むのだって父の手配した代理人がすべてやってくれた。そもそも母に店を持たせたのだって父だったみたいだし。


 両親も、郷里も、私をとりまくものすべてを疎ましく思っても自力では何もできないのが、私。



 嫌いだと呟くぐらいなら自由だと思う。

 それでも一樹さんの前で口に出したのはまずかったか。母の再従姉弟はとこの一樹さん。お焼香に来てくれた人。


 つい、口をついたのだ。

 たぶん一樹さんはあの町や親戚達が好きではない。そう勝手に仲間意識を持ってしまった。

 それにあの人の視線はサラリとしている。

 男が女を見る時の視線には二種類あって、私の周囲にはその片方の、ねちっこい、舐めるような、あわよくばという目が多かった。主に母のせいだと思うけど。

 とばっちりで母に似た私にまでそんな視線がまとわりつくこともあった。だから私はなるべく腕も脚も胸元も隠す服を着る。夏でも透けない薄物を羽織る。

 肌をぞわぞわさせる下卑た男達が、私は嫌いだ。




「え――うちの隣の駅だよ」


 あの日、私が春から暮らす東京の町と最寄駅を聞いて、一樹さんはポカンと困惑していた。そんな顔も下心がなくて安心する。


「ぼろアパートとかじゃないだろうね。若い女の子一人なのに。普通の住宅街ではあるけど……」


 たぶん家賃とセキュリティの兼ね合いを心配したのだろう。山手線に接続するのに十分しかかからない場所。急行も停まる私鉄駅だ。ちゃんとした部屋ならそこそこ高くなるらしい。


「……父が、用意してくれたんです」

「ああ……ちゃんと、つながりはあるんだ。ならよかった」


 何と言えばいいか迷う風だった。私の生まれの事情など親戚中に筒抜けなのだと、その反応であらためて思い知らされる。

 流布された話の中で、私はいつまでも母の付属物だ。私個人として見られることなど、きっとないのだろう。


「ちゃんと、と言えるのかは、わからないですけど」


 私は私であって、もう独りなのだとささやかに主張したかった。でもそう言い張るのも幼いと思って、言ってから恥ずかしくなった。すると一樹さんは少し眉を寄せてまた迷う。


「――もしよければ、俺の連絡先を渡しておくよ。近所なんだし、何か怖いことでもあったら呼んでくれていい。男が後ろにいるだけで舐められなくなるから」

「危ない目にあわせるのは悪いです」

「本当に危ない時は、俺じゃなく警察にしてくれるか」


 一樹さんは苦笑して私を真っ直ぐ見なかった。それはそうだ。

 今日初めて会ったのに連絡先を教えようなど、ナンパみたいだ。親戚の子どもを心配してのこととはいえ言いづらい。それでもあえて申し出てくれるのが、大人だと思った。

 そして三十二歳だという一樹さんからすると、私は十分に子どもなのだろうとも思った。







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