色恋

山田あとり

第1話 一樹 1


 後ろにいるのは、これは千夜子ちやこではない。

 俺は千夜子に線香をあげに来ているのだ、これは千夜子であるはずがない。だがとても千夜子に似ている。顔の造作に限った話だが。


 これは、千夜子の娘。

 まだ十八歳の貴和子きわこの張りつめた頰は硬質だ。とろりと零れるような笑みを持っていた千夜子とは違っていて、俺は何故か安堵した。


 年末に亡くなった千夜子は俺の再従姉弟はとこだ。十と少し歳上だったはずだ。とにかく綺麗な女だと俺は思っていた。顔の造りじゃない。あふれ染み出す何かしらのせいだった。

 美しいものを何でもかんでも詰め込んで煮凝にこごらせ、それから圧し潰し抽出したような不安定な美。そこにいると視線がいってしまい絡め取られる。

 思い出すにつけ蠱毒こどくのような女だった。



 遺影となった千夜子も、やはり千夜子だった。

 宣材写真じみた隙のない遺影は、じんわり湿った匂いたつ瞳でこちらを魅入る。死んだ女をそんなふうに感じる自分に嫌気がさして、俺は顔を伏せた。


 合わせた手をといて座布団からにじり下りると、畳の上の貴和子が小さく黙礼した。しっかりした娘だ。

 貴和子に会うのは初めてだった。大学進学にかこつけて俺が東京に出たのが十四年前。そのすぐ後、入れ替わりにこちらに来たはずだ。親族の集まりを避ける俺とは顔を合わせぬうちに、すっかり大人になっていた。


「仏壇は、ないんだね。これからか」


 小さな座卓の上に直接置かれた遺影と位牌、そして遺骨。申し訳程度の線香立て。リンすらない。

 四十代の癌では発覚から死までさほどかかるまい。母娘二人の暮らしでそこまで手は回らなかったか。まして貴和子は三月にやっと高校卒業を控える身だった。


「いえ、作らないです。私が東京の大学に行くので。ここは、三月に引き払います」

「ああ……」


 かっちりしたウールのスカート。タートルネックのセーター。底冷えする正月に対抗するためか、厚手のタイツ。

 暗い色合いの地味な装いは貴和子の普段着だろうか。俺が帰省のついでに弔問させてくれと連絡したからだろうか。母の再従姉弟などという遠い親族の男に押しかけられて迷惑だっただろうか。


 立ち上がった貴和子はお茶を淹れようとしてくれる。お構いなく、と言ってみるがそのまま茶を出してきた。どちらも様式美のようなやりとり。


「千夜子さんの具合を看ながら受験勉強は大変だったろうに。もう東京行きが決まったのかい?」

「推薦をもらえたので。ぎりぎりで安心させられてよかったです」


 淡々と貴和子は答える。貴和子の進路が決まったからといって千夜子が心安らかになれたものなのか。娘を遺して。


 そして、貴和子の内心は。失った母のことをなんと思っているのだろう。





 本妻に存在が露見して東京を逃げ出し地元に戻った母娘。それが千夜子と貴和子だ。


 この町で小料理屋を営んだ千夜子はその潤んだ瞳で客をつかみ店を繁盛させた。何人もの常連の男に言い寄られていたらしい。そう聞いた。

 親戚の恥さらし、と俺の親は吐き捨てた。県下三番目の中核都市ではあるが、暮らしの及ぶ範囲は狭い。すぐに噂は回り、肩身は狭くなる。そんな土地柄だった。

 貴和子はここを出て行くのか。それがいいだろう。後ろ指を差されながらしがみつくような町でもなかった。


「……一樹かずきさんは、どうしてわざわざ母の焼香に?」


 名前を呼ばれて驚いた。貴和子もどうしようか迷ったようだったが、双方苗字が同じなので仕方ない。


「何だろう――千夜子さんは不思議と印象に残る人だったんだ、子ども心にも。それが亡くなったと聞いて、お別れしたくなった。俺が大人になってから話したらどんなだったかと考えてしまって」

「母と会ったのはそんなに前でしたか」

「最後は……小学校の終わりの正月ぐらいかな」


 本当は中学生だった。だが俺はまだ子どもだったということにしておきたかった。

 千夜子はとにかく男を惹きつける女だったのだ。なので言い訳せねばと焦る。千夜子のことが気になったのは男としてではないと。


 実際のところ、自分ではわかっている。

 俺は、千夜子にくれられた視線が忘れられないのだ。


 でもそんな記憶をさとられては軽蔑されかねないと思った。貴和子はそんな頑なな空気をまとっている。話すほどに貴和子の唇は硬さを増すようだった。


「私と会ったことは」

「ないね。君を産んでからは千夜子さん帰省しなくなった。俺は大学から東京に出たし、そのまま就職した。盆暮れにこっちにいても皆が集まる時には顔を出さなかったな。ひどいもんだ」

「この町が、嫌いですか」

「嫌い――ではないよ。苦手かもしれないけど」


 人々の視線の波に溺れ死にそうで。

 そう思って言わずにいたら、貴和子が呟いた。思いつめたように。


「私は、嫌いです」


 





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