不思議な奇跡よりも小さな人間の決断

一つの見方をすれば……
「男性の幽霊が見えている」という告白から始まる通り、不思議な事柄があり、やがては願いを叶えるという要素が表れるこの小説ですが、意外にも鮮烈な奇跡は希薄です。結局のところ、人はいずれ死ぬという、動かすことのできない真実があるのみなのです。もちろん、年を取らない清と、人と会話ができるタヌキという不思議な存在があるのは事実です。ただし彼等は、その不思議であることを当然のようにして存在するだけで、明確な奇跡を実は起していないとも言えます。
野暮なまでの疑いを見出すと、そもそもタヌキによる奇跡と代償とはどこまで本当なのでしょうか。八月六日、千代が原爆で命を落したのは、彼女だけの悲劇ではありません。それは神の力というより、人間が起した戦争という大きな災厄によるものです。事実タヌキは、「僕は千代が街へ行くのを止めることができなかった」と悔恨の調子で述懐しているではありませんか。神を名乗る存在ですら、当時の状況を把握できていないのです。
沙織の祖父である幸雄の死も、いつかは訪れる人の寿命とも言えます。そして、清を生かしてほしいと頼む沙織に対して、タヌキは応えることができないのです。これは清があらかじめ願っていたからですが、単純にタヌキにこれ以上人の命を操る能力がないとも言えるのではないでしょうか。これは過剰な読解であるかもしれません。ただし、清の病気を治してほしいと願い出る沙織に対する、タヌキの答えはまず「君を殺すことになる」であり、もっと根本的であるはずの「清との先約」を言わないのです。タヌキの能力の不完全、あるいは能力以前に若い沙織の未来を慮っていることを意味してはいませんか。これは能力をもたない人間でも、当然思うことです。以上よりタヌキは、人の願いを完全に操ることができず、いたって普通の人間らしい振る舞いを見せています。

奇跡と言えるものを起しているのは、沙織です。清の今際の際、沙織は自分を千代であると偽ります。朦朧とする清は(どこまで本当かはともかく)それを信じて、静かに眠ります。これは神の力に頼らない、沙織(と清)の能力です。題名である「また君に逢いたい」は、明らかに清の目線による語りです。この願いは、沙織との協力によって果されたのです。語り手である沙織は、生前の清に寄り添う形で書き上げられた手記が、「幾度の夏を越えて、また君に逢いたい」になったのだと考えれば、興味深いです。
小説の中で、最も奇跡を起こしたのは沙織でしょう。ただ直感で清に恋したのが、最後には宮司になった、この決断と行動です。タヌキへの願った人々は、基本的に「生きてほしい」という他人への思いやりを望みました(清の不老不死の解消を願った祖父も、普通の人と同じく生きてほしいという逆説的な思いからでしょう)。免れられない死がいくつも描かれた末にあるのは、宮司として生き続けようとしている沙織の姿です。そこには、不思議な能力などもたないはずの人間に備わる力強さがあります。