どうしようもなく他者であること

「私」の勉強が「できる」能力というのは、努力によって得たものではありませんでした。つまり結果でしかなく、「できた」ことでしかなかったのです。真に能動的に得た能力ではないのです。そのため本当に何かをしたい時、それができない事態に直面したという無力感に、「私」は苦悩を感ずるのです。恐らく離婚が目前である両親が、電話越しの談笑している――この矛盾に、希望を見出しながら、しかし進むしかないであろう路も見据えている。それは、自分の介入できる余地が、そこにはないであろうという諦観です。他者が他者でしかないという事実を前に、「私」はどうすることもできません。それは母が弟に寄せる「願望」にも表れている通り、他者(母)にとっても他者(弟)は動かすことのできない存在であることを示しています。究極のところで、誰もが他人にしてやれるものはないのです。こうした絶望にも似た苦悩から浮び上るのは、ただ情念のみです。それは家族への愛情として、そしてあらゆる思索や想念を表現する手段である文学として表れています。こればかりは動かしがたいものです。「何もできない」という「私」は、早くも筆を止めました。それは「私」の「何もできない」という限界の一例であるかもしれません、ただそれだけでなく、着実に先人の書を読むことによって培われている「私」の視座が、やがては豊かな語りを現実のものとするかもしれないという、可能性であるとも言えるはずです。もっとも可能性が苦悩からの脱却を意味するのではありませんが。

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苦悩