苦悩
404
私には何もできない。自分のしたいことも、親の期待に応えることも、私にはできない。ほれ、いま、水をこぼした。やはり私には何もできない。
このごろこんなことばかり考えている。元々、自信家でもないため、そう珍しいことでもないのだが、ここまでナイーヴになることは珍しい。と、いうのも、いま、私は、新しいことができないと言っているわけではなく、今迄できていたことすらも、できていなかった、と言い張っているのだ。人生の全否定、と言うと少しわかりやすいかもしれない。とにかく、私はいま、私自身が大嫌いでどうしようもないのだ。
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私は昔から、勉強は、俗に言う”できる”方であった。それは、私が、血の滲むような努力を行った末に出た結果、というわけではない。私は、特段の努力を要さずともその結果を得ることができた。そして、これは、私にとって大きな足枷となった。
勉強ができる、ということは必ずしも利点だけがある、というわけではない。私は、勉強ができることで、周囲から過大な期待と、莫大なヘイトを受けた。この二つは、一見両立しないようで、実際は表裏一体。期待を受ければヘイトを受け、そして、私にとっては、どちらも邪魔にしかならなかった。
私は、周りの人間から、「勉強ができるのなら他のこともできるだろう。」という、なんとも安直で下らなく、どうしようもない期待を受けた。そして、それと同時に、「勉強ができても他のこともできなければ意味がない。」などという、荒唐無稽で、意味の分からん、糞みたいなヘイトも受けた。
もし、私が差別主義者で、周囲の人間を凡庸な糞であると認識できれば、私が苦労することはなかったであろう。しかし、私は、その期待やヘイトは糞と言えても、それを言う人間を糞ということはできなかった。そもそも、私は、自分自身を、この世の全てものの中で最底辺に住まうモノとして認識しているため、私が人を糞だということは、往古来今あり得ないのである。
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こういう風にどうしようもなくなったとき、私は、つい、犯罪に手を出してしまうという悪癖がある。学生のころは盗み、少し前には違法賭博を行った。だがしかし、最近の私には、それらをしたいという感情がほぼ湧かない。なぜか。それは、今の私には文学がある(“文学ある”なんていうのは間の抜けた表現だが) ということ、そして、現在の私には、家族への愛があるということが由来するだろう。
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私は家族を愛している。私には、母と父、そして、弟が一人、家族としているのだが、私はその全員を愛している。
私の母と父の間では金銭面でのいざこざが起こっており、既に別居済み(私と弟は母のもとで暮らしている)である。しかし、私には、この二人の仲が悪いとは到底思えんのだ。
先日、母と父が、離婚届をいつ出すか、という電話をしていたのだが、その中で、私は何度か二人が笑う声を聞いた。信じられるだろうか。今にも離婚しようとしている二人が、電話越しとはいえ談笑しているのだ。
私は、この二人の仲をもう一度戻せるのではないかと淡い期待を持っている。しかし、恐らく、この願いが叶うことは未来永劫ないのであろう。
私の弟は、昔から、いわゆる"できない"人間であった。勉強、運動、芸術、すべてにおいて、これといって頭角を現さず、しまいには人柄も悪いと言った始末だ。母は弟の幸せを願い、何かしら才があるのではないか、と、いつまでも希望を持ち、最後には、それは、願望へと変わっていった。
私は、この、できないと言われる弟のことも、母と父と同様に愛している。
私は、この愛ゆえに、家族の死を激しく恐れている。これは、いま、自分自身の死よりも恐ろしく感じられる。
先日、太宰治の「斜陽」を読んだのだが、その中の、かず子(主役と考えて差し支えない)の母が病によって命を落とす場面、そして、弟の
ああ!私の母も父も、また、弟も、このようにあっさり(「斜陽」における死の描写は非常にあっさりとしていた)と死んでしまうのではないか!嗚呼、神よ!私はどのように死んでも構わぬから、どうか、私の家族には、悔いのない死を与えてくレ!
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私には、もう、何も分からぬ。自分が何を求め、そして、何を求められているのか。全てが皆目見当もつかない。私の将来、思想、役柄、何もかもがてんで分からぬ。嗚呼、もう残るは、私を救うは"死"のみか?いや、真に死は救済か?芥川や太宰は救いを求めて死したのか?死とは何だ?嗚呼、それすらも私には分からぬ。
将来とは何なりや?思想とは何なりや?役柄とは何なりや?何も分からぬ私には、それすらも、無論、分からない。
文学とは何なりや?これだけは、分からぬ、では済ませられない。
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文学とは何なりや?私にとって文学とは人生をよく生きるための一つの手段である。そう、あくまで手段であり、目的ではない(ここが反転している小説家も多いが人それぞれだと思っていただきたい)。
小説を書くために生きるのではない、生きるために小説を書くのだ。そして、それに伴い、文学とは、常に作者の気持ちが反映されている必要があると、私は考える。
作者が思い詰め、思考し、悩みの末に、解決策として書かれた小説には意味がある。これは、作品の優劣以前の問題だ。作者が気持ちを投影せずに書いた作品には意味がなく、また、優劣をつけるほどの価値もない。つまり、その作品は文学ではない。
よく生きる、とは、金を多く持つことではない。よって、金儲けの為に書かれた作品も、また、文学ではない。
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私は、ここまで、一つ(家族のことも長く書いたが本題からの派生としてみていただきたい)のことについてこんなに大袈裟に書いてきたが、こんなのは下らん悩みである。自信がない、なんていうのはほぼ全ての人間が持つ悩みであり、また、皆、それを当たり前として扱っているものである。どうしようもないことを、馬鹿ほど大袈裟に受け止め、阿呆ほど真面目(のような顔で)悩むというのも、また、私の悪癖の一つである。
ああ、まだ悩み足りぬ。もっと考え、もっと苦しまなければ答え(無論、そんなものはないが)が見つからぬような気がする。いや、決して見つかるわけがない。
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ここで、私は、筆を止めてしまった。
やはり私には何もできぬようだ。
苦悩 404 @sumino231
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