第3話 雪の少女
「お待たせっ!」
一人の少女が横から走って来ていきなり飛びつくと、二人の空いた手を両手で掴んだ。そのまま嬉しそうにぶんぶんと振る。
「え? 何?」「あなた、誰?」
二人が驚いて問い掛けても少女はにこにこ笑うばかりだ。
少し色の薄い長い髪には軽くウェーブがかかり、頭には桃色のベレー帽を乗せている。もこもこと膨らんだ桜色のダウンコートの胸元からは白いセーターのタートルネックが覗き、裾から伸びた細い脚は若草色のタイツとムートンブーツで護られている。多分、服の中は、見た目と同じ春のような暖かさなのだろう。
「手を繋ぐの、初めてだね!」
少女の声は明るく眼は輝き、季節を忘れさせるほどだ。頬の赤さと吐く息の白さだけが、今は冬なのだと思い出させる。
それにしても。
「お嬢ちゃん、悪いけど、人違いだよ」「ええ、ごめんなさいね」
二人が口々に言うと、少女は悲しそうな顔になった。
「そうなの?」
「ああ、お嬢ちゃんはお父さん、お母さんとここで待ち合わせかな?」「どこか他にいるのかしら? 申し訳ないけど、手を放してくれる?」
少女は周囲をきょろきょろと見回したが、ぶんぶんと首を横に振り、俯いた。繋いだ手はぎゅっと握り締めて放そうとしない。
夫は困って妻を見た。
「どうしようか」
「弱ったわね」
「この寒空に一人ぼっちで放り出しちゃまずいだろう。この子の親が来るまで、一緒にいてやってもいいんじゃないかな。僕達の話は、もう急ぐものじゃあないし」
「そうね」
二人とも、この少女がなんとなく気に掛かるのは同じだった。妻は頷くと、少女に笑いかけた。
「じゃあ、あなたのお父さんお母さんがいらっしゃるまで、一緒にいましょうか」
少女にも笑顔が戻った。
「うん! じゃあ、それまではおとうさん、おかあさんだね!」
少女の言葉に、二人は苦笑いをせずにはいられなかった。小さな子供から「おとうさんおかあさん」と呼ばれるのは、これが初めてかもしれない。亡くなった子は言葉が喋れるほどには成長できなかった。そのことを思うと、また切なくなってくる。でも、そう呼ぶなとは言えなかった。
夫がまた困った顔をして応えた。
「まあ、お父さんお母さんの臨時代理だね。許可はもらっていないけど」
そして妻に言った。
「親御さんが来たらきちんと説明しないとな」
「ええ、人攫いと思われちゃうわね。あなたも私も、今日は人相が悪いし」
妻は応えて悪戯っぽく笑った。二人とも、さっきまでの深刻なしかめっつらよりは、少しはましになったかもしれない。
「あ、笑った!」
そう言うと少女も嬉しそうに笑った。その笑顔につられて二人もまた笑った。苦笑いでなく笑うのは、久しぶりのことかも知れない。娘の病気が分かって以来、二人とも笑うことが殆ど無くなったのだ。
ひとしきり笑うと、少女が空を見上げた。
「雪、止んじゃったね」
確かに、さっきまで空中を舞っていた白いものは、いつの間にか姿を消している。
「積もるかもと思ったのに」
二人はまた笑いを零した。
「あの降り方じゃあ、ちょっと無理だね」
「ええ、もっと強く、顔が見えなくなるぐらいに降らないと積もらないわね」
「そっか。じゃあ、降らなくていいや。おとうさん、おかあさんの顔が見える方がいいし」
「まあ。ありがとう。でも、木の枝とか草の上になら積もりやすいから、少し弱い雪でも積もるかもしれないわね」
「この樹も、雪が積もればもう少し見映えがするかもな」
「ふーん」
少女は寒々し気な鈴懸の樹を見上げていたが、振り返って二人に尋ねた。
「ねえ、おとうさんとおかあさんはどうしてここにいるの?」
「えっとね。ここは私達にとって大切な思い出の場所でね」
悲しそうな顔に戻った夫が答えた。
何年か前の春にこの鈴懸の樹の下で、夫は妻に愛を告白され、秋に同じこの樹の下で妻に結婚を申し込んだのだ。そして今、ここで別れようとしている。そのことは言えなかった。この幼い少女に言うべきことではない、と。妻も黙って聞いている。
「ふーん。でも、他に誰もいなくてつまんないよね。ねえ、あっちに行ってみようよ。人がいっぱいいるし」
少女は二人の手を引っ張った。
「えっと、」
妻が引き留めようとしたが、夫が遮った。
「いいじゃないか、すぐそこなんだから、この子の親が来たらすぐにわかるよ。それに、一人で行かせるわけにもいかないよ。この子、目を離すとすぐにどこかへ行ってしまいそうだ。年末は物騒なんだから」
そう言うと、妻も「そうね」と頷いた。
少女は「そうそう」と嬉しそうに二人の手をぐいぐいと引っ張って広場の反対側に連れて行こうとする。夫が少女に寄り添って歩き出すと、妻も「ふぅ」と溜息を吐いて手にしていた封筒をポケットにしまい、手を引かれながら一緒に歩いていった。
広場の反対側では、何本かの緑豊かな樅の木に金、銀、赤、白、多彩な色で飾り付けがなされており、周囲では何組かの家族連れやカップルがそれを楽しそうに見上げていた。
三人が近づいて行くと、歓迎するかのように、枝一杯に飾られたLEDの電飾が一斉に光を放ち始めた。
「綺麗! すごーい!」
少女が小さく叫ぶ。
「本当だ。すごいな」「この時間でもキラキラして、眩しいぐらいね」
「綺麗! 綺麗!」
明滅を繰り返す樅の木に、少女は夫と妻の間でぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ねていたが、いきなり跳ぶのを止めて二人の顔を見上げた。
「ねえ、さっきの樹は葉っぱが無くなっちゃってたのに、こっちは冬でも元気なのはなぜ? 葉っぱがチート? 無敵モードなの?」
少女の今時の子供らしい物言いに、夫も妻も苦笑したが、口々に答えた。
「いや、そういうわけじゃないね。こういう
「そうよ。一年中ずっと緑でいて同じ姿をしているように見えるけど、それでもどんどん入れ替わっているのね」
少女はじっと聞いていたが、二人の話が終わるとぽつりと言った。
「それぞれが一所懸命に生きられるだけ生きて、そして落ちていくんだね。だったら、きっと、悔いは無いよね。人と同じだね」
さっきまでとは違う、静かな声に二人が驚いていると、少女が歌い始めた。
幾年もの昔、雪の夜
全ての人の罪、背負わんと
清らなる神の御子生まれたり
悲しみにくれる民に言いたもう
民人よ、嘆くなかれ
我つねに共にあらん
初めて聞くその歌に男と女は戸惑ったが、澄み切った歌声に黙って耳を傾けた。気が付けば周囲の人々も少女に聞き入っていた。
いつしか
またこの年も早や逝かんとす
喜びはひと時のことなれど
悲しみも
祝いの日共にせん
苦しみ悲しみは神に任せ
喜び楽しみを共にせん
過ちも
今一度手を繋ぎ
明日の日を共にせん
心より待ちわびし
祝いの日共にせん
歌い終わると周囲の人々から拍手が上がり、少女はぴょこんと頭を下げると照れ臭そうに「ふふっ」と笑いながら二人の顔を見た。
「上手なのね。びっくりしたわ」「ああ、本当に。何て言う歌なのかな?」
二人が口々に褒めると、少女は困った顔をした。
「うーん、知らないの。教えてくれたおじいさんも、知らないって言ってた。『題名や歌詞なんかどうでもいい、どんな気持ちで歌うかが大事なんだ』って」
「そうかもしれないな。初めて聴いたはずなのに、とても懐かしい気持ちになったよ」
「私も、何だか子供の頃から何度も聴いたことがあるような気がしたわ」
「聴かせてくれて、ありがとう」「本当、ありがとうね」
二人の礼の言葉を少女は顔を赤らめながら聞いていたが、顔一杯の笑顔で答えた。
「おとうさん、おかあさんが一緒に喜んでくれて良かった。これでまた仲良しになってくれると、私も嬉しい」
「え?」「どういうこと?」
少女は訝しがる二人の手を放し、淋しげな顔になった。
「私、お迎えが来たみたい。そろそろ行かなくちゃ」
「そうなのかい?」「一人で大丈夫?」
「うん、大丈夫。最後に一つお願いがあるんだけど……」
「何だい?」
「えっと、おとうさん、おかあさんに、ぎゅってして欲しいの」
おずおずと言い出された少女の願いを聞いて、二人は顔を見合わせた。しかし、すぐに頷き合って少女に向いた。
「ええ、いいわよ」「ああ、いいとも」
少女の顔が花咲いた。
「うれしい」
そう言うと、夫と妻に順番に抱き着いた。二人も女の子をしっかりと抱き締め返す。離れた後も、子供の熱が腕の中にいつまでも残るように思われた。
女の子は一歩、二歩と後退ると、目を光らせながら別れを告げた。
「ありがとう。おとうさん、おかあさん、大好きだよ。元気でね。いつまでも仲良くしてね」
「待って」「待ちなさい」
二人は胸騒ぎがして引き留めようとしたが、女の子はもう一度にっこりと笑うと、二人に背を向けて走り出した。
二人は思わず叫んだ。
「私達も、君が大好きだよ!」「そうよ、また会いましょうね!」
少女はその声に立ち止まってこちらを振り返り、嬉しそうな、しかしどこか悲しそうな顔で大きく手を振った。空からはまた
姿が見えなくなっても二人はじっと見詰めたまま立ち尽くしていたが、妻がぽつりと言葉を洩らした。
「なんだか、不思議な子だったわね」
「ああ、何というか、懐かしくて愛おしくて、儚くて。この
まだ二人は少女が消えた方角を眺めていたが、やがてお互いに向き直った。
妻はコートのポケットに手を入れた。
「ねえ、これのことなんだけど。あら?」
そこには封筒は無かった。
「どうしたの?」
「いつの間にか無くなってる。落としたのかしら」
「いや、見当たらないな」
二人が広場を見回しても、それらしいものは落ちていない。
「おかしいね」
「そうね。でも、ひょっとしたら」
妻がポケットにもう一度手を入れると、そこにほのかな温もりを感じた。
「あの子が持って行っちゃったのかしら」
「そうは見えなかったけど…… いや、そうかもな。僕たちに別れて欲しくないみたいだったし」
「どうして察したのか不思議ね。でも……」
妻は夫に向き直ると、少し躊躇った後に夫の眼を見上げた。
「ねえ、もし良かったら、もう一度やり直さない?」
「……いいのかい?」
「ええ、あの子も仲良くして欲しいって言っていたし。でも、お願いがあるの」
「何だい」
「これからは、一緒にいて欲しいの。私が辛い時も、あなたが辛い時も、悲しみは一緒に悲しみたいの」
「そうだね。本当に済まなかった」
「それともう一つ、もしできたら、いつかあなたが現場に戻れたら、良い薬を作って。あの病気でなくても、どんな病気でもいい、誰かを助けてあげて欲しいの」
「わかった。僕たちの娘も、それを望んでいるような気がする」
「ええ、私もそう思うの」
「なんだか、あの子も自分の娘のように思えたよ」
「そうね」
「じゃあ」
夫がおずおずと差し出した手を、だが、妻は取ろうとしなかった。その代りに、夫の腕にいきなり抱き着き、自分の胸に抱えた。
「手は、あの子のために空けておきましょうよ」
夫が物問いたげに見下ろすと、妻は抱えた夫の腕に額をつけながら言った。
「またいつか。その時のために」
「ああ、そうだね」
夫が応え、二人は微笑みあうと、腕を組んだままで広場から街の方へと歩き出した。
広場のベンチの老人は一部始終を興味深そうに眺めていた。その横には、駆けていったはずの少女がいつの間にか座っていた。
少女が呟いた。
「おとうさん、おかあさん、元気でね」
「もういいのかい?」
「ええ、素敵なひとときを有難う。もう思い残すことは無いわ。これ、はい」
少女は手に持った封筒を老人の方に差し出した。
老人はそれを受け取ると、もう片手で少女の頭を二度、三度と撫でた。
「そうかい。じゃあ、もういきなさい」
「ええ、じゃあ。さようなら」
老人に撫でられるうちに女の子の体は徐々に小さくなり、少しずつ薄れていき、やがて無数の光の粒に変わり、降り続く細雪に混ざり込み、風に吹かれて舞い上がって消えていった。
老人は見上げて見送っていたが、やがて「よっこらせ」と立ち上がった。
老人が立ち上がると、座っていた木製のベンチは深い雪を掻き分けて走る頑丈な
老人はその橇に乗ると、白く長い眉を上下に動かし、これも白く長い口髭と顎髭の間から「良い子達にはもう一つ、贈り物をせねばな」と呟くと、橇に積まれた大きな白い袋に手を突っ込んだ。
もぞもぞと袋の中を探ったその手で何かを握ったまま袋から出すと、空に向かって投げ上げる仕草をした。
その手から振りまかれた青くきらきらと光る粒は少女の白い光の後を追って空へと舞い上がり、雪片に混ざり込んだ。妖精が飛び回るように、地面に落ちることなく、風に踊りながら。
雪は街を歩く夫婦の上にも舞っていた。ひとひら、コートに落ち、ふたひら、音もなく溶けていく。二人はそれに気づくことも無く肩を寄せ合って人ごみの中に消えていった。
「では行くか。今夜はまだまだ忙しいからな。頼むぞ、ルドルフ」
老人が声を掛けるとトナカイは頷くように首を上下に一つ振り、橇を引いて走り出し、宙を駆け、空の彼方へと消えていった。
人々の心に鈴の音を残して。
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一か月ほど経ったある日、家で待つ夫の所に妻が帰って来た。
「遅かったね。心配したよ」
「ええ、ごめんなさい。病院に行ってきたの」
「そう、ここのところ、気怠るそうにしていたよね。大丈夫だったのかい」
「ええ。大丈夫というかそれ以上というか」
「え? どういうこと」
「先生が、『おめでとうございます』って。赤ちゃん、授かったの」
「え! 本当かい」
「ええ。ねえ、私、昨夜、あの女の子の夢を見たの」
「ひょっとして、あの子のことかい? 実は、僕もなんだ」
二人はまじまじと顔を見合わせた。不思議なこともあるものだ。妻が「ふふ」と笑い、夫に提案した。
「ねえ、もし女の子だったらつけたい名前があるんだけど、いいかしら」
「どんな名前? 言ってみてよ」
「風の花と書いて『ふうか』」
「風花か。いい名前だね。うん、そうしよう。きっと女の子だよ」
その時、二人の耳に、『おとうさん、おかあさん、ありがとう』という声が聞こえた気がした。
いや、きっと気のせいではない。確かに聞こえた。あの時の少女の声で。
雪の少女 花時雨 @hanashigure
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