第2話 別れ話

 男は少し歩くと立ち止まって、自分と同じ色のコートを着た妻が近付いてくるのを待った。

 妻は夫の前まで来ると、顔を見ずに「久しぶりね」と言った。夫が「そうだね」と短く返すと、二人はどちらからともなく歩き出した。二歩分離れたその距離が、二人の今の気持ちを表しているのかもしれない。

 鈴懸の樹の下まできて立ち止まると、夫は樹をしばらく見上げてから妻に向き直って切り出した。


「戻ってくる気は無いのかい?」

「……無いわね」


 夫の問いに、妻は俯いたままで答えた。


「あの家は、あの子の思い出が多すぎるもの。あの時の事を嫌でも思い出しちゃう」

「……」

「あの部屋で、あの子の苦しみを見ながら一人きりで何もできずにいたことを。もう、たまらないの」


 妻の思いは、一年ほど前、二人が暮らしていた家で、まだ小さかった娘の看病をしていた頃に移った。娘は先天性の難病で、しかも進行が早かった。自分では何もできないうちに、大切な命はあっというまに手の中から消えていった。


 長くもない記憶を一つ一つたどっているであろう妻の顔を見ていられずに、夫は目を逸らせた。

 呟くようにぼそっと言葉を零す。


「あの時は済まなかった」


 夫は妻が娘と共に苦しんでいる時に、一緒にいられなかった。仕事に没頭していたのだ。


「もう、いいわよ。あなたには仕事の方が大事だったのでしょうから」

「そんなわけじゃないんだ。あの子のことは本当に大事に思っていたんだ」

「嘘よ。だったら、なぜ、一緒にいてくれなかったの?」

「それは、悪かったと思っている」

「また嘘。なんとも思っていないくせに。あの子のことも私のこともほったらかしにして、仕事ばっかり。毎日遅くまで帰ってこなかった。ううん、帰ってこないことも多かった」

「それは……」

「何よ」

「……」


 夫が口籠る。それを見て妻は肩を聳やかした。


「ほら、やっぱり。あの時もそう。あなたは何も言ってくれなかったわ。やっぱり仕事のことしか考えてないのよ。私達なんかどうでも良かったのよ」

「違う」

「違わないわ。病気のことを話した後も、あの子が入院した後も、あなたは仕事からなかなか帰ってこなかった」

「違うんだ」

「病院にあの子に会いに来ても、少しの時間しか一緒にいなかった! あの子に会うのが恐くて、仕事に逃げたのよ!」

「頼む! 聞いてくれ!」


 夫はつい大声を出してしまった。近くにいた人が驚いて向けてきた奇異の眼に、妻の方に差し出した手を慌てて引っ込める。妻も思わず知らずいつの間にか大きくなっていた声を下げた。


「何よ」


 夫はそれでも躊躇っていたが、意を決した。


「僕は、あの病気の治療薬を研究していたんだ」


 絞り出すように言ったその言葉。


「え……」


 妻が絶句した。夫が製薬会社の研究員であることはもちろん知っていた。だが夫は仕事の内容は極秘だと言って自宅では決して話さず、妻もそういうものだと思って尋ねたことがなかった。夫が学生時代は肥満の研究をしていたことは知っていたので、今でも痩せ薬か何かを作っているのだろうとか、軽く考えていた。


「以前は高脂血症の研究をしていたんだ。そちらの基礎研究で成果が出せたから、しばらく前に先天的な脂質代謝異常の治療薬の開発研究をやるように会社から命令が下って。それで選んだのがあの病気だったんだ」


 夫は俯くと、ぽつりぽつりと語り始めた。


「会社が取り組んでいる病気や標的は、臨床段階に入るまでは極秘だ。他の会社との競争があるからね。家族にも言えない。君にあの子の病名を聞かされた時は愕然としたよ。言われるまでもなく意味はわかった。症例をいくつも調べていたから、重症なら長くは保たないことも知っていた。目の前が真っ暗になった。君も医師に聞かされた時、そうだったと思う」

「ええ」


 妻が短く答えると、夫は俯いたままで話を続けた。


「でも、僕のチームは可能性を見つけていた。病気の原因となっている異常な酵素の分解を選択的に促進する物質だ。それを早く開発し、臨床試験にまで持っていければ、あの子を参加させられる。そうしたら治せるかもしれない」


 そこまで言うと、夫は光る目をしばたたかせながら顔を上げた。


「少しでも早く、一日でも早く臨床へ。そう思うと、研究室から離れられなかった。離れたくなかったんだ。食事の時間も寝る時間も惜しかった。残業時間の限界をとっくに超えていると室長に止められて、無理やりに研究室から追い出されたよ。帰らない日には会社の近くのホテルに泊まって、研究室への行きも帰りも、どうすれば少しでも早く、少しでも良いものができるか、考え続けていた」


 そして、自嘲するように口を歪めた。


「でも、君が言うように君達から逃げていただけなのかもしれないな。薬効試験、動態試験、安全性試験、やらなければならない実験の量を考えれば、間に合わないのは明らかだったんだ。それでも、止められなかった」


 体の横で両方の拳を固く握り締めると妻に頭を下げる。


「本当にごめん」


 地面に涙の粒が落ち、いびつな円を次々に描いて黒く吸い込まれていく。

 妻は声を失ったまま、夫のその姿をじっと見つめた。思い出した。夫が生前のあの子に「頑張れ、待ってろよ」と、そしてあの子が亡くなった時には、小さな小さな亡骸を抱き締めて、「僕が無能なばっかりに」と呟いていたことを。あの時には自分の心労に憑りつかれて悄然としていて、その意味を問い返すこともしなかった。


 しばらくしてから、漸く声が出せた。

さっきまでの高い声とは違う、怒気の消えた静かな声だった。


「それで、その薬はどうなったの?」

「まだ研究中らしい。はは」

「らしいって……どういうこと?」


 夫は顔を上げて拳で眼をぬぐうと空虚な笑い声を出した。また自分を嗤ったのだ。妻が訝し気に問い返しても、夫の寂しげな嗤いは顔から消えなかった。


「外されたんだよ」

「え?」

「その研究を取り上げられたんだ」

「どういうこと?」

「あの子のお葬式に、うちの研究所長が室長と一緒に来てくれただろう?」

「ええ。私、病名を尋ねられたわ。答えたら、とても気の毒そうな顔をされたから覚えてるわ。とても理知的な顔の痩せた方よね」

「ああ。忌引きが明けて、出社したらいきなり所長室に呼ばれた。室長も一緒にいてね。そこで申し渡されたよ。難病の治療薬の研究には、家族に患者がいる者は参加させないのが会社の方針だ、ってね」

「え? どうして? 身内に患者がいれば、より懸命に研究するじゃない」

「それがいけないんだ。懸命になればなるほど、どうしてもデータを冷静に読めなくなるからね。少し良さそうな結果が出たら、それが実験誤差の範囲内でも、『効いた』と思い込んでしまう。実験誤差ってね、世間が思っているより結構大きいんだ。毒にも薬にもならない物質でも、時には効果があるように見える結果が出てしまう。それで開発候補品を選び間違えて突っ走ってしまうと、時間も、資金も、大量に無駄にすることになるから、会社にとっては死活問題になりかねないんだ」

「でも、自分の子供の病気を治すために必死に研究して薬をつくるって、聞いたことがあるわ」

「あるだろうね。でも、本当に稀な例だよ。一般の人は成功した話しか聞かないから。実は、うまくいかないことが殆どさ」

「でも……」

「とにかく、うちの会社はそういう方針なんだ。その方針を決めた時には適用例が現実に出るとは会社も思っていなかったみたいだ。難病は患者さんの数がとても少ないからね。僕も方針は知っていたんだけど、会社には報告せずに黙って続けていたんだ。所長と室長には、気持ちはわかると言われたよ。残念だったな、とも。でも方針は方針だから。そのチームだけじゃなく、研究の現場からも外された。しばらく頭を冷やして、冷静を取り戻せって。今は調査を担当してるんだ」

「そうだったの……」

「今思えば、やっぱり冷静じゃなかったんだ。現実を認めたくなかっただけかもしれない。あの子と君から逃げ出したかったからかもしれない。君の言う通りだよ。僕は弱虫だったんだ。目の前のあの子と向き合えなかったんだ」


 語り終えると、夫は妻にまた深々と頭を下げた。


「本当に済まなかった。君にも、あの子にも」


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「そろそろ行きなさい」

「うん。行ってくる」


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 夫の思いがけない話と謝罪に妻が返事をできずにいると、夫は頭を上げて寂しそうに顔をゆがめた。また自嘲したのだろう。


「許してもらえるとは思っていないから」


 そう言うと、右手を妻の方に出した。妻は何も言えないままにコートのポケットに左手を入れ、何かを握った。だが、出せずにいる。

 男が淋しげな声で促した。


「さあ。すぐにサインして送り返すから。ここで始めたことだから、ここで終わりにする。そう決めてこの場所を選んだんだろう?」

「ええ」


 妻が躊躇いながら出した手には封筒が握られている。その中に入っているものは夫も知っている。離婚届だ。おずおずと差し出されたそれを、夫が受け取ろうとした時だった。


 横から息せき切った声が飛び込んで来た。


「おとうさん、おかあさん、お待たせっ!」

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