雪の少女
花時雨
第1話 寒風の広場
十二月の街中の広場の中央に背の高い鈴懸の樹が立っている。その枝に懸命にしがみついていた数十枚の葉は、一週間前の強い風の日にとうとう全て吹き落されてしまった。夏には憩いの木陰を大きく広げているその樹は、今は今日も吹いている北風を遮ることも出来ずに心細げに枝を揺らしているだけである。
その男は、広場の片隅の冷え切ったベンチに座り込み、襟を立てたチェスターコートのポケットに手を深く突っ込んで、その樹をぼうっと見上げていた。風に吹かれた大きな枯葉が次から次へと足元に纏わり付いてカサカサと音を立てても気が付く様子もない。コートの濃灰色も首に巻いたカシミヤのソリッドマフラーの鼠色も、裾からのぞく仕立ての良さそうなスーツの
「まるで私達のようですな」
いきなり掛かった声に男が横を見ると、隣にみすぼらしい格好をした老人が座っていた。いつ洗ったのかわからない白髪交じりの頭は脂でべたつき、沢山の深い皺が刻まれた顔には、伸び放題の眉毛の下で落ち窪んだ目、こけた頬と顎は伸び放題のこれも白いものが目立つ髭が覆っている。ぼけた青色の作業着はあちらこちらの綻びの繕いも不十分で、マフラー代わりに首に巻かれたタオルには汚れが目立っている。骨ばった手には、色褪せた赤い引き綱が持たれており、その先には老人と同じように薄汚れた老犬がいた。
この街には住処を持たない自由人は殆どいない。どこかから流れてきたのかもしれない。
だが、男には老人の格好などどうでも良かった。そもそも老人がいつ隣に座ったのかも気付かなかったのだ。ただ、老犬が、冬にしては薄い毛の間からあばら骨が浮き出た痩せた体を、少しでも風を避けようというのだろう、老人の足元に寄り添わせて蹲っているのには哀れを催したのか、悲しそうな顔をした。
男が問い掛けるように老人の顔を見ると、老人は口の端を上げた。どうやら笑ったらしい。
「貴方は?」
男が問うと、老人は身動ぎした老犬の頭を撫でて「ルディ、じっと待っていろ」と命じてから男に答えた。
「これは失敬。私はあちこちを回っている者でしてな。少し疲れたもので。ここ、いいですかな?」
いいも何も、もう腰を落ち着けていて動くつもりは無さそうだ。やけに馴れ馴れしいじいさんだが、自由人とはそういうものかもしれない。
男は肩を軽く竦めて返事をした。
「いいですよ。どうせ私はもう待ち合わせの時間ですので」
「人待ちでしたか。それにしては、随分と真剣に樹を眺めておられましたな」
「そういうつもりはありませんでしたが」
「そうですかな。いや、実に寒々しい。幹は太り、枝は多くとも、その身に纏う葉はなく、共に立つ連れ合いも無い。淋しいものだ。まるで我々、都会に住む者のようだ。普段は豊かに装い華やかに身を飾っていても、ひとたび我に返ればその心は寒々しく孤独だ」
そう言うと老人は同意を求めるように男の顔を見た。
「そうかも知れませんね。ですが、貴方には連れがいるようですが」
そう答えて男は目を老人の足元の犬に落とした。老犬は我関せずとばかりに身を丸めて蹲っている。
「いや、そういうわけでもありません。こいつも野良で自由の身の上でしてな。いつからかは憶えていませんが、なんとなく私の足元をうろうろしているので一緒にいるだけです」
「ですが、その綱は?」
「何かとうるさい世の中でしょう? 人目のある所では、保健所に通報されかねません。一時のこととはいえ、無理やり引き裂かれては、寝覚めが良くありませんわな」
老人は色褪せた曳き綱のほつれをむしって投げ捨ててみせた。男が眉を顰めると、老人はいきなり顔を上げて男を見た。
「あなたはどうですかな? 連れ合いがいないと言う訳ではないでしょう」
老人の視線が男の左手に落ちる。男は思わず薬指の指輪を右手で隠した。男がむっとした様子を見せると、老人は片眉と右手を上げ、小さく頭を下げた。
「これは不躾で失礼。ですが、こんな冬の日に、寒さからかばい合うべき伴侶との待ち合わせ場所にふさわしいとは思えませんが」
確かにそうかもしれない。寒風が吹いていても。広場を行き交う人は多い。楽しそうにはしゃぐ子供を連れた家族もいれば、身を寄せ合うカップルの姿も目立つ。一人きりなのは男と老人だけ、誰かと待ち合わせているのはこの男だけのようである。
「そうかもしれませんね。ですが、ここを待ち合わせ場所に決めたのは、私ではありませんので」
「ほう。その上に待たせるとは。なかなか厳しい奥様ですな」
「いえ。まあ、理由あってのことでしょう。それに早く来てここにいたのは私がそうしたかったからなのです。この広場には、ちょっと思い出がありまして」
「そうなのですか。それは失礼しました」
老人は大きく肩を竦め、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえ、お気になさらず。実際、寒々しい場所、寒々しい眺めですから」
男は取り成すように言ったが、それが引き金を引いたかのように堰を切って喋りはじめた。
「あの鈴懸も、春に芽吹いた若葉が夏には青々と茂り、散り果てるなどあり得ないように思える。でも気が付くと秋には黄色く衰え、今は見ての通り。人生と同じでしょう。一所懸命に働き、暮し、築き上げたもの、手にしたものが、たった一つの思いも掛けないことで、砂で出来ていたように崩れ、この指の間から零れ落ちて行ってしまった。何も残さずに。いや、何も残らなければまだましだ。この足元の枯葉のように、茶色く崩れた跡形だけが記憶として心の隅の吹き溜まりに積み重なっていく。大切なもの、美しいものの跡形を埋めてしまう。一生が木枯らしの中ならば、何も期待しないものを。春風が、夏の陽が、いっそ無ければ良いものを。いや、あの子には、春風すら、」
男はそこまで言って我に返った。隣を見ると、老人は静かにただ耳を傾けていた。
男は深く長い溜息を吐いた。そして詫び言をした。
「つまらないことを捲し立てて済みません」
「いやいや。何かお辛いことがあったようですな。よろしければ伺いますが」
「いや、辛いことなど、誰にもあるでしょう」
「ですが、それもいつかは通り過ぎる。明日は誰にでもやって来るのでは?」
「有難うございます。ですが、明日の日が来ない者もいますよね。それどころか、芽吹いてすぐに枯れる葉もある」
「それは否定できませんな」
老人が静かに応えると、男はまた「ふぅ」と深く溜息をつき、公園の入り口に目をやりながら言った。
「待ち人が来たようですので、失礼します」
「詰まらぬ老人の言い掛かりに付き合ってくださってありがとうございました」
「いえ、良い退屈しのぎをさせていただきました」
男は立ち上がった。
そのまま立ち去りかけたが、足を止めてポケットをまさぐると振り返り、握ったその手を老人に向かって差し出した。
「失礼ですが、よろしければこれを」
老人が訝し気に見上げると、周囲から見えないように掌に包まれた紙幣が顔を覗かせていた。
「いやいや、落ちぶれてはいても、物乞いではありませんのでな。お気遣いは無用です」
老人が顔を横に振っても、男は手を引っ込めようとはしなかった。
「いえ、貴方にではなく。もしよろしければ、その犬に何か良いものを食べさせてやっていただけませんか」
「ほう、ルディに?」
「ええ、私も犬は嫌いではないので。犬に優しい街は、子供も老人も、そして大人達も幸せだと言うでしょう」
「確かにそうですな」
「心ばかりのクリスマスプレゼントだと、ルディ君に思っていただければ幸いです」
「わかりました。こいつに代わって礼を言います。ありがとう」
「どういたしまして」
老人が紙幣を受け取ると、男はどこか寂しそうな笑みを顔に浮かべ、「それでは」と挨拶の言葉を残すと老人と老犬に背を向けた。ふわり、ふわりと舞い落ち始めた雪の中、コートの襟を立てて広場の出入り口へ、今しがた入って来た女性の方へと歩いて行った。
老人はその背中を見送りながら「ふむ。優しい男ではあるのだな」と呟くと、物問いたげにもたげられたルディの頭を撫でて「もう少しだからな」と囁きかけた。そして誰もいなくなったはずの自分の隣に「お前さんも、もう少し待つんだよ」と話し掛けた。
そこには、一人の少女がいつの間にか腰掛けていた。
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