第三話「鬼門陰陽司術学院」
「はい、すちょっぷ」
集団が止まっても
舟から下りて、子供たちはあれから十数分と学院内を歩いた。薬学研究所、学生会館、教員寮、湯屋。前を通るたびに先輩は説明してくれたが、阿土たちはその名前どころか辿ってきた道さえ覚えられなかった。出発からはや二時間、子供たちはお互いに重い、痛い、疲れた、眠い、この四つ以外の言葉を忘れたように呟いていた。
いつの間にか、阿土たちは五つの大きな建物が、広場を取り囲むように建っている場所の出入り口にいた。五つの建物はどれも小さな小学校ほどの大きさ、高さで、それぞれいくつかの部屋からは灯りが漏れていた。
引率者のうちの一人が、名簿を見ながら最小限の声を掛ける。
「それでは、皆さんお疲れさまでした。寮に到着したので、各自割り当てられた部屋に入り、今日は就寝です。まず、各引率者が
間髪入れず、呼び出しが始まる。引率者五人がそれぞれ遠く離れたところから呼び始めたため、子供たちは半信半疑になりながら一人、二人と集まっていく。たまに、呼ばれた名前を聞いて子供たちがざわめくこともあった。
「黒川阿土」
阿土も例外ではなかった。聞き逃さなかった他の子たちは「黒川?」「え、あの黒川かな」「あの子? 土組なんだね」と口々に言い合っている。どういう視線なのか全く見当がつかない阿土はあまりいい気がせず、首をすぼめて手荷物で顔を隠す。
「早乙女竜」
引率者が次に呼んだのは、竜だった。二人は驚きよりも先に嬉しさを感じて抱き合った。
「良かったー! 良かったよ一緒で。あぁ、このまま部屋割りも一緒だったらいいねぇ」
引率者から静かに! という注意を受けてしまう。竜も上着で顔を隠した。阿土は、竜の名も呼ばれた時に周りがざわついていたことに気づいていた。
ふと、横を見た瞬間、阿土は「げっ」と言いそうになった。そこには、バス内で阿土に向かって怒鳴ってきた(叫んできた)女の子が居たのだ。無駄に姿勢が良い。
「阿土、顔に思いっきり出てる」
「同じ寮……ってことだよね?」
「残念ながら、クラスも一緒だよ」
「——ウソだッ……!」
関わらないようにしよう。そう固く心に誓う。
呼び出しが終わった。阿土たちのところには十六人の子供たちが集まった。引率者の人が言うには、後から合流する子もいるらしい。阿土たちは、広場を囲む五つの建物のうち、一番奥、真ん中の寮・土寮に向かった。
寮は三階建て。中央にある玄関はすりガラスの二重戸。「お前たちの先輩が寝てるから静かにな。騒ぐなよ」と言ったわりに、引率者は戸を手荒に開けて入った。入って最初の一印象は「臭い」だった。汗というか、悪く発酵したというか。案の定、その元凶は天井までつき上がった靴箱である。
「下あたりの空いてるところにとりあえず靴入れといて。右手が女子、左手が男子だ」
次々と入れられていくスニーカーから上の段には全て、草履が並んでいる。
玄関正面の奥には階段があり、その手前に屏風のような仕切りが縦に置かれている。玄関からあがると、仕切りの前にあった二つの行燈と廊下の片側の照明がひとりでについた。そして女子はその後右の廊下に、男子は左の廊下に分けられる。
「さっきと同じく男子は廊下の左、女子は廊下の右がそれぞれ君たちの部屋だ。お向かいは就寝中の先輩方の部屋だから間違えるなよ。部屋割りは、各自の名前の札が掛かってる。今日はここまで、すぐに就寝するように。悪いが風呂は明日。朝になったら起こしにくるからな」
捲し立てるように説明し終わったに引率者は「じゃ、良い夢みろよ」と言い、そのまま帰って行った。
たしかに廊下の片側には襖が五つあった。不自然に隣との距離が近い襖同士が、並んでいる。そして襖と襖の角柱に三つずつ名前が刻まれた札が掛かっている。
——漆島菖蒲 黒川阿土 早乙女竜——
見事に二人の名前が掛かっている。竜が札の前で目を瞑り、合掌する。
「最っっ高。今年いっぱいの運を使い果たした気がするよ」
「大袈裟な」
「ここの部屋の二人ってお前ら?」
急に背後から声が掛かり、阿土と竜はビクッとして振り向いた。一瞬で、
「あっ」
前髪の子、と阿土は思った。立っていたのは、バスで左隣の補助席で寝ていた男の子だ。やはり鋭くこちらを見据えている。
「ねぇ、聞いてんだけど」
「え……あ、うん。ぼくが黒川阿土」
竜は名札とその男の子を交互に見た。
「君、もしかしてこの『
「ふーん、よく読めたね」
菖蒲という子は二人の間をぶつかるように抜けて先に部屋に入っていく。
「名前間違えたらぶっ飛ばすから」
二人はお互いに目で同じことを訴えた。
(やばいやつ来た)
外から見た割に部屋は広い。ここも術かなにか仕掛けがあって広くできているのだ。三人には広すぎる十六畳。一番奥は硝子格子が嵌っていて、月光が指す中庭のような偽物の外が現れている。調度品としては衝立や衣桁、箪笥はあるが、阿土たちが見る限りそこに机や椅子はなかった。入ってすぐの左側にある押し入れがすでに開いていて、中には布団が入っていた。
「じゃあ、まず、布団でも敷くか」
阿土は荷物を降ろして袖を捲った。竜は阿土に付き一緒に布団を引っ張り出そうとしている一方で、菖蒲という男の子は自分の荷物を解いている。そして荷物を確認し終わると、室内を歩き回り、行燈や箪笥を触り始めた。
菖蒲は手元の、照明器具を眺めまわしているようだ。しかしそれにはスイッチがない。中に蝋燭や油皿があるわけでもない。
「それ、霊力を流して灯りをつけるんだよ」
このような説明が出来るのは竜だけだ。布団を二人で三人分、敷き終わったところだ。
「つけようか?」
「別に」
菖蒲は明らかにむっとしてその行燈から手を離した。そして改めて室内を詮索する。
次に、菖蒲は違い棚のある壁に向かって行った。違い棚の下には、右側に引き出しが付いた古い文机が三つ重ねて嵌め込まれていて、机の、足を入れる隙間にそれぞれ竹籠がはめ込まれている。おもむろに竹籠を引き出すと、中に無地の浴衣が畳んであった。
阿土がそこに近づいて覗き込む。
「なにそれ、部屋着?」
「……知らね」
「ねぇ、竜、これ何?」
「それ? ああ、それ寝間着だよ、パジャマ。三人分——あるっぽいね」
竜が残りの竹籠からもう二つ取り出す。
「甚平みたいになってるね。脇の紐で結ぶもよし、ちゃんと帯をしめるもよしって感じだ。着て寝る?」
菖蒲は浴衣を持ったまま歩き出した。歩いて行った方向は、戸側の布団で、枕元に持っていたものを放り投げて、寝転がる。
竜の「あ……もう、寝る感じ?」という声は、彼の背中を跳ね返って部屋に消えた。残された二人は肩を竦める。もう足も肩も背中も痛い。残る二人はさっさと浴衣に着替えて、寝ることにした。
母の姿があった。確かに母なのだが、顔がはっきりしない。阿土は母を呼んでいたが、彼女はそこを動こうとしない。
いつの間にか、辺りは真っ黒になっている。もう一度母を見る。
彼女が居たところには、何か恐ろしいものがいる。人間じゃない。鋭い目つきでこちらを睨んでいるが、形は分からない。しかし、あることを直感する。
あれは妖怪だ。
すぐ逃げなくては。鉄を叩くような音が薄っすらと聞こえて焦燥にかられる。藻掻いて振った腕が跳ね返された感覚がした後に、耳元で「痛ぇよ!」と怒声が聞こえた。
起床の鐘の音で先に起きていた竜は、まだ寝ている二人に少し呆れていた。阿土と菖蒲は鐘の音で起きず、むしろ急にうなされ始めた阿土の左腕が隣の寝坊助に直撃しても、菖蒲も菖蒲で、まさかの寝言で言い返してそのまま寝返りを打ったところを見ていたのだ。
「まぁ、昨日遅かったからね」
一連の事件をそう片づけると、竜は布団を体に巻き付けたまま部屋の隅にあった火鉢の中を覗き、中にあった豆炭を回収した。灰を均したあとに、豆炭を灰の上に積み上げるようにして戻し、
「あつきひを」
と言った後で一番上の豆炭にはぁーっと息を吹きかけた。少し強めに吹いてしまったため、うわべの灰がわずかに舞い上がって、竜は「ペペッ」とせき込んだ。息がかかった豆炭は徐々に白くなっていき、やがて赤く染まると下へ下へとそれが移っていった。窓を少し開けてからふと気が付く。
「しまった、これからお風呂いくんだっけ」
目を擦る竜の背中を、二つの双眼が覗いている。少し開いた押し入れの間から二人、今度は目の前の阿土と菖蒲に視線を移し、襖がそのまますっと閉まった。
「「ウッ」」
次の瞬間、阿土、菖蒲両名に打撃とともに米一袋の如き何かがのしかかった。背後からのうめき声に竜が振り返ると、寝ている二人それぞれに振袖姿の女の子二人が乗り上げて笑いあっている。
「起きろー! 起きろー! それほらさっさと起きろ!」
「せっかく直々に起こしに来てやったんだ。そら早く起きよ」
女の子たちは容赦なく足元の二人を蹴っては叩く。竜はあまりの勢いに腰が引けるも「あの、ちょっと」と声を掛けると、女の子二人は同時に、ぎょろっとこっちを向いた。
「なにさ、早乙女の」
「ほう、早乙女の末弟か」
似た顔の二人は竜に走り寄ってそれぞれ竜の頬を引っ張った。
「おいこれが竜姫の甥か?」
「ずいぶんとまあ、へっぴり腰な」
「あややややや、やめれくらさい~」
彼女たちは勿論最初から押し入れに居たわけではない。自由自在、神出鬼没が二人・座敷童の本分だからだ。彼女たちこの学院に住みつき、寮以外にも学院内ならばどこにでも現れて悪戯もすれば学生の手伝いもする。ただし見返り付きで。口調がどことなく荒っぽく、大きな三つ編みを背中に一本垂らしている子が
するとまた急に部屋の戸が開いて、
「おーい起きろおま……お、乱と牡丹か」
昨日の引率者が座敷童たちに言う。
「お菓子一個ずつあげっから、向こうの女子部屋全員声かけてきてくんねぇか?」
「おい、そこまで安上がりじゃないぞ」
「頼み事するのならそれ相応の態度というものがあるでしょう?」
「あ、うん、わかった。五百円以内で好きなもの買うので一年女子を起こしてきてください」
「よしやろう」
「承った」
駆け出した二人に入口の男は道を空けたが、彼女たちはその手前で曲がり、押し入れの中に入っていった。覗いてみても、既に二人はいない。彼は「俺ぁ別に金使うとこねぇから大丈夫だ。いいんだよ」と言うが、一体誰に言っているのか。
「それよりほれ、寝坊助二人組、すぐ寮の前集合だ。制服と部屋の名札持って来い」
引率者が他の部屋に行った辺りで、ようやく起き上がった阿土が菖蒲に
「さっきぼくの上に乗ってた?」
と聞いたが、菖蒲は否を主張するように阿土の足を自分の足で除けた。
三人が寮の外へ出ると、朝日が夜更かしの目に眩しく、広場に鎮座した大樹の枝先が揺れている。冷たい朝の匂いがして、鳥や他小動物のような声が聞こえる清々しい空気だった。通りには黒い制服に身を包んだ学生が歩いていたり、広場の椅子に腰かけていたりしていて、中には目が合うと挨拶してくれる先輩もいた。
「あ~、さぶい」
阿土が制服を抱きかかえながら足踏みする。その間に続々と他の一年男子や女子たちが集まり始めた。女子は制服を頭から被り、顔まで隠しながら出てくる子が何人か居て、男子は個性的な寝癖そのままだ。引率者が最後に三人の男子を放り出すとすぐに、風呂場への案内を始めた。
お風呂に向かう途中で、
「あ、そうだ、俺君たちの組の副担だからよろしく」
と引率者もとい副担任が欠伸をした。
「小野寺っていうが、まあそんな会うことないだろ、覚えなくていいぞ」
この猫背で中肉中背が急に副担任と言われると、少し拍子抜けしてしまう。
まだ瞼が重い阿土は、熱いお湯をぶっかけられた瞬間に完全に覚醒した。
「あつッ⁉ お湯、ちょ、熱い熱い!」
蛇口を持っていた竜の手を払って止める。阿土の背中はもう真っ赤。
「いつまでも寝てるから」
「うぅ、ごめん。いつもならパッと起きられるのに」
「ついでにとなりの漆島くんにも同じことやったげて」
右を見ると菖蒲も風呂椅子に腰かけたまま動かなくなっている。捻りを遠慮なく回すと真上のシャワーヘッドから時間差でお湯が出て、阿土と同じような反応を見せた。
奥の湯舟も結構熱く、足から段々と入っていった。入ることを諦めた他の一部の男子は、隣の壁の上部に開いた空間から女風呂が云々という話で盛り上がっている。初の裸の付き合いに、阿土は菖蒲をつつく。
「菖蒲くん? ってさ、なんか、機嫌でも悪いの?」
それ本人に直接聞くことじゃないよ、と竜は傍で思う。
「別に。俺の勝手だろ」
若干菖蒲が遠のいた。
「まぁ、それならいいんだけどさ」
林檎のようなほっぺで阿土は微笑んだ。菖蒲はまた眉間に皺を寄せてすぐに湯舟から上がり、縁を歩いて、少し離れた風呂のへりに腰掛けた。竜が俯いて大きく息を吐くと水面に波紋が広がっていった。
「あの子、僕たちが嫌いなのか、天邪鬼なのか」
「あまのじゃく?」
「僕上手くやっていける気がしないよ」
「そうかな? まだ初日だよ? そのうち仲良くなるよ」
小学校の少人数クラスでの長い対人関係により、阿土はこういった手合いに慣れていた。
「ねぇ、君が黒川君でしょ? 零奈様の息子の」
今まで女子風呂がやいのやいのと言っていた子の一部が、湯舟に入って来た。
「ぼくってそんなに有名なの?」
「そりゃそうだよ! ……もしかして祖人の家庭だったの?」
「あ、うん、まぁ」
「やっぱり! 家族は居るって聞いてたけど、どの御家も捕まえたって言わなかったもん」
その後も
「すげぇんだよ、黒川様はさ! 陣術だけで四天王行くなんて前代未聞だよ」
「祖人の出身だったしね。血筋とか家系とかにうるさいあっちの陰陽師たち全部はねのけてったのかっこよすぎる~」
「本買ったよ! 黒川様が書いたやつ。見たことある? 持ってきてるけど貸そうか?」
「えぇ……あ、はあ。なるほど……、うん」
阿土はいつの間にか浴槽の角に追い詰められていて、顔を時たま隠しながら竜に助けを求めた。竜の補助付きで上手くかわし(時々近くに居た菖蒲を適当に巻き込みながら)、副担任が「時間だぞ~、あがれ~」と言ったのを契機に我先にと湯船から飛び出した。
風呂からあがると他の子たちは絡んでこなくなった。蒸し返す脱衣所で皆、袴や上の着物、帯をひっくり返し、他に助けを求めながら着始めたからである。阿土も練習の甲斐も虚しく、阿土も結局竜に見てもらい、傍で菖蒲も盗み見しながら無事乗り切った。
その後また寮に戻り、二階にある狭い食堂で朝食をとって、午前は自分たちの部屋で待機となった。
昼食を挟んで午後、新入生たちは学院内を移動して「
「会に先立ちまして、新入生の皆さん——」
学生全員が正座させられてすぐに小野寺が声を張るので、新入生たちは遂にかと、固唾を飲む。
「正座じゃもたないという人は今のうちに胡坐にしても結構です」
そっちかよ、と油断していると間髪入れず、
「では、平成三十年度、鬼門陰陽司術学院第四一〇回、入学式を行います」
と続き、結局皆床に足を崩せないまま始まってしまった。
「ではまず、当校学院長からのご祝辞」
そう言われて、教師陣の中から現れた人物は比較的若く見える女性だった。端麗な顔立ちにより、古風とも独創的ともとれる髪型でも違和感を生まなかった。彼女は会館の後ろ側と、教師陣、新入生たちにお辞儀をし、そこに仁王立ちになって微笑んだ。
「まずは当学院への入学おめでとう。君たちが来るのをとっても楽しみにしていたよ」
軽やかな雰囲気に阿土は好印象を持った。……気のせいか、何故かもうどこかから寝息が聞こえる。
「私がこの学院の学院長、
「はい、以上です」と手を叩いた。皆、学院長の話が終わったことに一瞬理解が追い付かなかったようだ。
「学院長先生、ご挨拶の程有難う御座いました。祝辞につきましては、陰陽庁陰陽頭様、鬼門支部陰陽副頭様、四天王様方一同、八将神様方一同、日華頭様、月華頭様、また他より、本校の新しい陰陽生たちに文をいただいております」
はぁ……? と思ったのも束の間、阿土はまさか、と息を呑んだが、小野寺が「校舎一階にて掲示しておりますので、皆さんぜひ拝見するようにしてください」で終わった。
「では次に、担任副担任の発表に移ります」
小野寺が次にそう言った。校歌とかないのだろうか? そのまま進行は続く。
「今年度入学者九十九名は木組二四名、火組二一名、土組十九名、金組二十名、水組十六名に分けられております。それではこれから、各組の担任及び副担任を発表致しますので、呼ばれました先生方は担当組の前まで移動してください。
木組担任・鴨川有佐 副担任・青井雅昭
火組担任・イーサン・ヴェルバルド 副担任・谷地那乃歌
土組担任・森蔭久遠 副担任・小野寺准斗
金組担任・荒川ちよ 副担任・久慈啄木鳥
水組担任・峰彼方 副担任・真島陽」
先生方は二人ずつ目の前にやってくる。よくありがちだが、外国人の名前に注目がいってしまい、多くの子供たちは自分の担任の名前を覚え損ねてしまった。阿土がいま分かるのは、目の前にやってきた担任が女性の教師だということである。彼女は背が高く、日光に照らされたくせ毛の黒髪を、両の肩にかけているのが目印になる。
新入生たちは一度校舎へ向かうのだそうで、彼女も「起立!」と張りのある声を発し、阿土たち土組全員を立たたせて歩き出した。
「竜、先生なんて名前だっけ?」
「
「もりかげ先生、ね」
校舎に着くまで最後尾の小野寺とは対照的に、先頭の森蔭は、自身の生徒に一言も話しかけてはこなかった。
校舎も木造だった。老舗旅館のような、四階建て。学院の一年生から四年生までの学生はここで勉学に励む。来るまでの道のりにもう一つ、もう一回り小さい校舎があり、それは五年生から七年生の学び舎なのだ。校舎内は綺麗な中庭の左右に五つずつ教室が、またそのまわりにぐるっと廊下がある。入る時に初めて「靴はそこに入れる。綺麗に入れろよ」と、担任が喋った。阿土たち土組の教室は入って左側の、前からも後ろからも三つ目・真ん中の教室だ。
「おいこらそこ、縁を踏むな畳の」
担任は入ってくる生徒を注意しながら名簿を取り出す。教室は四十畳ほどで、目の前に黒板、向かって左側に庭が見える窓が並んでいる。
「せんせぇー、どこ座ればいいすか?」
「好きなとこ座りな」
突き放すような言葉遣いだが、口調はむしろ適当とも言えなくはない。生徒たちは三人一組の六つの机にそれぞれ座り始める。窓際、一番後ろはすぐ取られ、阿土、竜、菖蒲が座れる席を探している間に、もう空いているところは窓側一番前の三つの席のみとなった。結局そこに三人で座る。担任も座布団に座り、なお一層距離が近く感じられた。阿土は担任の顔を見た時、その釣った左目の下に三つ傷が走っていることに気が付いた。
「よし、全員揃ったな。あ、小野寺先生は適当なところに座っててください」
後ろで「あいあい、あ~どっこいしょーいち」と聞こえる。
「聞き飽きてるかもしれないが、改めて、土組十九名入学おめでとう。オレはこの組を担当する森蔭だ。専門は体術だからこれからしょっちゅう会うぞ」
森蔭はあとは何を言えばいいかねぇ、と独り言ちてすぐにまぁいいかと名簿をしっかり手に取った。
「じゃあ点呼をするぞ。名前呼ばれたら返事をするように。なるべく元気に、聞こえるように、だぞ」
もうそろそろ何人か名前を覚え始めている。例えばあの嫌な女の子は、
「
とか。あとはかなり訛っている男の子の名前はたしかジンで、日焼けしている子の名前はヒカゲだとか。小学校のときと違って、それぞれにもう名札が無いのは痛い。
点呼の時、ツガワという女の子だけは居るにも関わらず返事がなかった。いや、菖蒲も手を上げるだけで口をへの字に曲げたままだった。二人を指摘した担任だったが、しかしそのまま名簿を閉じた。
「まぁ、よろしい。これから……あぁそうだ、全員と仲良くしろとは言わないが話し合える程度にはなっておけよ。口も利きたくないほど犬猿の仲、なんかで今後命を落とされちゃ堪らんからな。それと、イジメや仲間外れはもっての他だ。ここは甘っちょろい現世の学校じゃない、理由によっては重い処罰が下る。オレもそういう話は大嫌いだ。そうことはよぉく覚えておいてほしい」
後半になるにつれ語気が強くなっていき、しかも元からとにかく声色が鋭くて、聞くたびに阿土と竜は鳥肌がたった。
「さて、と。また今から識楼っていう場所に行って“式神借与”っていう恒例行事があってまだ移動することになってる。めんどくさ、と思うかもしれんが、大事な祭事だ。順番までしばらくは教室で待つことになる。その間にこれを先に渡しておこう」
そして担任から一人一つずつに小さな布袋が配られた。中には長方形の白い土台の上に縦と横に二本、全部で四つの黒い線が綺麗に並んでいるピンズが入っていた。
「それは我が校、鬼門校の校章だ。常に上着の襟に付ればいいと思ってくれ。フリじゃないないが、絶対に失くすなよ? 失くしたら変わりを買わなきゃいけなくなるからな」
担任が左襟を指したところを見て、阿土は自分の校章を付けた。担任は「各自自由時間だ」と言ってから、皆喋り始めた。
「ねぇ竜、しきがみ何とかって何?」
阿土は何となく、目の前に居る担任には聞こえないくらいの声で聞いた。
「まず式神ってわかる?」
「……わかんない」
竜が阿土に、菖蒲も、と目で訴えたため、阿土は菖蒲の袖をぐっと引っ張って三人は寄り集まった。
「式神って言うのは、陰陽師なら必ず一体持ってる鬼神……まあ、使い魔、うーん、まあ特別な力を持つパートナーみたいな感じだよ。学院に入ったら授けられるんだ。これから死ぬまでずっと一緒で、自分のことを支えてくれるんだ」
阿土は相槌を打ち、菖蒲は黙って聞いている。
「今日、学院に居た先輩方の周りに、鳥とか猫とかいなかった?」
「いた! ウリ坊みたいなのもいた」
「それが式神だよ。普段は生物の形をしてるんだ。僕の姉さんたちにも、魚とか蟲の形した式神を持ってる」
「虫……ってことはゴキブリもありってこと?」
「あ……いやさすがにゴキブリは居ないと思うけど。式神は自分で選ぶわけじゃなくて自分に合った式神に選ばれるんだ。それがこれから行われる式神借与っていう儀式——
話が終わったとみるないなや、菖蒲は机に突っ伏して寝始めた。
「ねぇ竜。僕のお母さんにも、式神は居たんだよね?」
「うん」
「なんの式神だったの?」
「黒猫だよ、たしか。浮気に敏感で零奈様は他の猫を撫でられなかったんだって」
母の肩に乗る黒猫を想像して、阿土の口角は静かに上がった。
(僕も黒猫がいいな)
竜も察せるほど安直なことを考える阿土だったが、この後とんでもない事態に自身が晒されることを、まだ知らない。
阿土 桂馬みけ @6723881
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