第二話「鬼門の道」

 バスの傍に立つ引率者らしい人に近づいていくと、相手は愛想よく手を振って迎えてくれた。「お名前は?」「黒川阿土くろかわあづちです」阿土はリュックから例の封筒を取り出す。「ああ、はい、確かに。ありがとうございます」引率者は阿土の手荷物を軽々と持つや素早く丁寧にバスのトランクに入れた。「どうぞ座っていてください」阿土はリュックだけを背負いなおして、バスの中に入る。

 中ではカーテンが全て閉まっていた。電灯が古いせいか曇っていてバス内全体が薄暗い。赤い座席も色褪せ、わかりやすく古い匂いがする。そしてほとんどの席が同じ年ごろの子たちで埋まっている。嬉しいことに、子供たちは皆私服だ。

阿土は運良く、そばに空いている席を見つけたためすぐに座ろうとした。だがしかし、その隣には女の子が座っていたのだ。びっくりするほど美人な女の子が目を瞑ってそこに居るのである。それでも相席する相手を見てから席を変えるのはあまりいい気がしない。加えて黙って立っているとそのうち変な目を向けられるかもしれない。

 女の子は整えられた髪に綺麗なかんざしを差していて、両目の真下にそれぞれ小さな黒子を持っているのが印象的だ。それに気づくと、一層可憐に感じる。

意を決し、小声で「失礼します」と言ってから腰掛けた。

すると女の子は大きな目を見開くなり、こう言い放つ。

「あなた、ここに座る気なの!?」

 冷や水を浴びせられたかのような衝撃に、阿土は思わず立ち上がり、飛び退いた。同時に、狼狽する阿土は、この騒動でほとんど全ての子の注目の的となってしまっていた。

しどろもどろに、とりあえず謝る。

「ご、ごめんなさい。席取っていたとは、知らなくて」

 そう大きな声で言わなくてもいいじゃないかと若干苛立ちを覚えながら、女の子のほうをあまり見ないようにしてその場から進んで離れたものの、心臓が激しく脈打ち、頭が真っ白になった。急に、誰かの隣に座るのが怖くなってきてしまう。

 ふいに、誰かが手招きする様子が、棒立ちしたままの阿土の視界に入る。奥の空席を、隣から生えた手が「ここ」とばかりに指をさしている。恐る恐るそこまで歩いて行くと指された座席の右隣に、大粒の黒豆かと勘違いしそうな眉毛の男の子が苦笑して、座っていた。

「ここ、いいよ座って」

 男の子は小声でそう言ってくれた。阿土は会釈してそっと座った。

「ごめん、ありがとう」

「大丈夫だよ。……大変だったね」

「うん。ほんと、こっちの気持ちも考えて欲しいよ」

「まぁ……慣れてないんじゃないかな。びっくりしたんだと思うよ」

「慣れてないって?」

「まあ……、その、、と相席?」

 阿土は適当に相槌を打ちつつ、じゃああの子は友達を待ってるわけじゃないのかな、と思いながら女の子のいる方を覗いた。

「君って、祖人の出身?」

 男の子がそっと耳打ちしてきた。阿土はそじん、という言葉の意味を遅れて思い出す。

「うーん、一応、お母さんが陰陽師……だったんだけど、家は普通だったよ」

 男の子はが悪そうに、自分が抱きかかえていた上着を畳み直した。

「そっか。じゃあ分からないこともたくさんだね。あ、僕は陰陽師の家の出身なんだ。もし分かんないことがあれば小さなことでも、なんでも聞いてね。……できるかぎり答えるよ」

 ふふ、と笑った男の子のあどけない感じから、とりあえず悪い人ではなさそうだし、そうさせてもらおうと思った。これからしばらくの間、この子を頼みの綱にすることにした。

 阿土の左隣に別の子がやってきて補助席を出して座った頃に、バス内で雑音混じりの音が鳴り響く。

——全員揃いましたので出発します。シートベルトを締めてください——

 アナウンスに従って子供たちがシートベルトを締めると同時に、バスは咳をするようにエンジンをかけた。そうして数十名の子供たちを抱えてのろのろと駅を後にする。


 バスは駅を通り抜け、橋を渡り、街灯の明るい道路をぐんぐん進んでいく。

車内でお互い手持ち無沙汰になって黙っていた空気の膜を、もじもじしていた男の子が「あ」と言って破った。

「そうだ、僕の名前、言ってなかったよね、ごめん。僕はりょう。好きに呼んでいいよ」

「わかった。竜って呼ぶね。ぼくの名前は黒川阿土。よろし——」

「えっ⁉」

阿土の名前を聞いた瞬間に、竜と名乗った男の子は車内に大きく響くほど驚嘆した。咄嗟とっさに口を押さえたが、阿土たちはまたもや注目の的となってしまった。  前方の方から「何かありましたか?」と声が掛かり、竜は「いいえ、すみません。何でもありません」と言い、阿土の左隣の子の様子を確認した。左隣の子は男の子で、寝ているようだった。

 ほとぼりが冷めた頃、竜は「ごめん、ごめんね」と膝に乗せていた上着に顔をうずめて平謝りに謝った。

「いや、別にそんな謝らなくても。……どうかしたの?」

 阿土がそう聞くと竜は言い淀みながら頭を捻った。竜は小声に加えて早口に聞き返す。

「さっき、君……阿土のお母さん、たしか陰陽師って言ってたよね?」

阿土は訝しげにも頷く。竜は阿土の耳にもっと近づいて聞いてくる。

「もし……あの、もしかして、その……君のお母さんって、黒川零奈様?」

 えっ、と言いそうになったの堪えると、阿土は口が変に開いた顔のまま、ぎこちなく頭を上下に動かすことになってしまう。まさかここで母の名が出てくるなんて。

「君のお母さん、陰陽界おんみょうかいでは有名な人なんだよ。四天王にまでなった凄い陰陽師だったんだ。だからごめん、それでびっくりしちゃった」

「いや、ぼくも今凄く驚いてるんだけど……。それ初めて知ったから」

「あ、そうなの? 説明しようか。……でもどう言おう。うーんとね、四天王って陰陽師の中でも一番強い四人のことなんだ。『一番』って言うと変だな、『最も』か。まぁ、つまりとてつもなく強くて凄い人、みたいな感じだよ」

 いま阿土の頭に思い起こされるのは、ソファに寝転がりながら棒アイスを頬張ったり、息子のゲームに熱中して家事を忘れたりする、あまりにかけ離れた母の姿だ。

(拝啓父さんへ、母さんは思いの外とんでもない人だったらしい)

 この短期間に理解が追い付かないことが多すぎて、もう何もかも素直に受け入れなければならないと思い始めていた。じゃないと持たない。

 同時に、阿土は懸念を抱く。陰陽師の界隈の話にあまりにも疎すぎる。母に関しての話も基本的な情報に違いなく、このままいくと変に誤解を生む時がいつか来るかもしれないと思ったのだ。

「竜って陰陽師の世界のこと色々詳しかったりする?」

「え? ああ、陰陽界のことだよね? まぁ人並みには」

 ね、と阿土は心中苦笑した。

「陰陽師とかについてって学校で習うと思う?」

「ああ、たぶん大丈夫だと思うよ。最初は本当に基礎の基礎からやるよ。祖人の出身の人って結構多いからね」

「じゃあさ、その前にかなり基本的なこととかを色々知りたいんだけど、教えてもらってもいいかな?」

「いいよ。いくらかは答えられると思う」

 車内は静かなまま、二人はひそひそと予習と復習を行うのだった。


「へぇ……。やっぱ妖怪っているんだ」

「そうそう。それで、そのお相手が陰陽師なんだ」

 竜が教えてくれたのは陰陽界における基本的な知識の一つだった。阿土たちが通う陰陽司術おんみょうしじゅつ学院がくいんがある幽世かくりよについてだ。幽世とは前に、日本列島と全く同じ形で存在する異界と説明があった。しかし竜が言うには全く同じではないうえに、地形が所々異なっているとのことだった。

 大きな理由が一つ。幽世には妖怪が存在するからだ。

 幽世は江戸時代に妖怪を現世から隔離した異界で、江戸時代以降に人間によって開拓された土地は反映されておらず、加えて妖怪同士の争いで地形が大きく変わっている場所も多くあるのだという。

 妖怪たちは現世うつしよが落ち着くまで人間と別で生きることを選んだ。そして陰陽師たちの役割とは、現世にいる人間たちの様子を教えたり、現世に強行突破しようとする妖怪を阻止したりすることなのだ。

「人間のこと憎んでる妖怪もいるからね。結構危険なことも多いんだ」

 それだけではなく、他にも陰陽師の仕事は多岐にわたる。妖怪たちは人間の芸術が好きなのだ。書道、絵、音楽、和歌、遊戯などの相手をするのも役目の一つである。また、現世の方で起きた怪奇事件や心霊現象を解決に導くこともお役目なのだ。

「だから学院ではいろんな進路を選べるんだ。その分学ぶことも多いけどね」

「竜は、今んところ何になりたいとかあるの?」

 竜は考えているようにも悩んでいるようにも見える顔で少し間をあけて、答えてくれる。「僕ね、薬師くすしになりたいんだ。お薬作る人。そういう家系だっていうのもあるけど、陰陽師の人たちのいろんな傷とか病気とか、呪いを直せる薬を作る人になりたいんだ」

 竜の顔が僅かに紅潮している。

「陰陽師にもお医者さんとかあるんだね」

「そう、普通の傷とかじゃないことが多いからね」

 お医者とか、めっちゃ頭いいじゃんと阿土は思う。同時に、一口に陰陽師でもたくさん職業が分かれていることに関心を抱いた。案外、なりたい職業があるかもしれない。

 竜は「えと、えと」と言葉を続ける。

「あと学院に着くまでに教えておきたいこといっぱいあるけど……、一体何から説明したものか——」

 正直、作者である私でもそう思う。竜は癖なのか、自身の小ぶりな鼻をつまんでうんうんと唸り始めた。阿土も何から聞いたものか、そもそも何を聞けばいいのか、暗中模索である。

 阿土は絞り出した質問をそのまま口に出した。

「んん——、んじゃあさ、あの……このバスってどこに向かってるの? どうやって幽世に行くのさ?」

 もしかしたら分からないのでは、という不安を一瞬で払拭するように竜は相槌を打って「そうだ、それもそうだね」と説明しようとした。

その時バスが、今まで以上にけたたましい音を伴い、回転数を上げて、急な坂道を登り始めた。竜は気にせず続ける。

「幽世に行く入口があるんだ。全国に四つあるんだよ。その内の一つが盛岡にあって、そこまで向かってるんだ、今」

 阿土が竜の膝の前を横切ってカーテンをめくると、灯りがまばらに光っているだけで、あとは真っ黒な斜面が目の前に広がっていた。

「山?」

「そう。来るのは初めてだけど。町中にあると見つかっちゃうからね」

 坂の上り下りを繰り返して、バスはついに舗装されてもいない道を進んでいくようになった。

 阿土は急に怖くなる。外は真っ暗な上に人気もなく、下手をすれば熊が出るかもしれない。その横で竜はほくほくと笑みを浮かべて、上着を着たて、手荷物を確認する。

——もうすぐ到着します。忘れ物が無いように手荷物あれば確認しておいてください。——

 ぎりぎり聞き取れる車内放送が流れた。子供たちは一斉に上着を着たりお菓子を片づけたりし始め、竜もまたいそいそと上着を着て、手荷物を確認する。阿土は特に準備することがないが、一応周りを確認すると左隣の補助席に座っていた男の子がまだ寝たままだった。

「着くんだって。起きて」

 声を掛けても反応がない。肩を軽く叩いてみたところ身をよじった。再度言葉をかけると、「ん」と言って起き上がって阿土の方に顔が向く。彼の、目にかかった前髪の奥で眼光が鋭く見据えていた。

 バスが止まった。引率者に先導されて、一人ひとり降りていく。


 暗闇に飛び出すと、さすが夜の山と言うべきか、冷気がひゅっと一気に身をさらった。阿土はほぼ反射で「さむッ」と縮こまった。降りていた竜は「あ、そう? そうでもないかな」と呟いた。

「うそ。寒いよ、まじで寒い」

「実家よりマシだって思っちゃう。僕地元北海道なんだ」

「北海道!?」

(岩手出身じゃないんだ)

 ではここにいる子供たちは全国から来たのだろうか。そうこう思っているうちに前の集団が誘導により進み始めていて、二人は慌てて小走りで付いて行く。

 まだ目が慣れないまま、足元の木の根に引っ掛からないよう気を付けて進む。ふと阿土が向かう先を見ると、前方に和風な屋敷の廃墟が佇んでいた。佇んでいるというより、手前の朽ちかけた数寄屋門すきやもんがおどろおどろしく口を開けて、人を飲み込むのを待っているようだ。

「え、ちょっと待って、こんな暗いなか廃墟に行こうとしてない? いや無理無理、怖いんだけどッ」

 柄にもなく竜の腕にしがみつく。夜の山に加えて廃墟に入るなど人生で一度すら体験しまい。一方で竜は「大丈夫だよ」と、随分と余裕そうに阿土の背中を叩いて歩く速さを緩めない。

「あれ幻だから、カモフラージュってやつ。普通に人が住んでいそうなぴかぴかなお屋敷がこんな山奥に建ってたら目立つでしょ? まま、進もう進もう」

 竜の言っている意味を理解できないまま、半ば引っ張られるように歩いてとうとう門の前まで来てしまった。門は何かしら衝撃を与えれば崩れてきそうで、枯れたツタ植物が髪の毛のように垂れてなびいている。

 思わず目をぎゅっと瞑ってくぐりぬけ、再度目を開くと、

「うそ……」

 目の前には立派な屋敷が平然とそこに建っていた。屋敷の障子から、縁側や庭に明かりが漏れていて普通に人が住んでいそうな雰囲気である。後ろの門はすっかり綺麗になっていて、最後尾の引率者が、どこから現れたのかもう一人の大人と一緒に閉めているところだった。見渡すと広い庭に立派な塀まであり、植えられている植物も手入れが行き届いている。

 集団は庭を横断するようにある石畳をなぞって、まだ先に進んでいく。

「ここ、現世こっちで活動する陰陽師の駐屯所みたいなところなんだ。中にいるよ、陰陽師の人」

 唖然とする阿土をよそに竜はさっさと説明して歩いていく。手を引かれるまま、付いて行くしかなかった。

 すると急に、前の集団がつっかえた。庭の奥に先ほどの門よりも小さい扉が塀に付いていて、そこを抜けると、石畳と階段が整備されていた。道の両端に並んだ石灯籠のその先には京都の神社仏閣などで見るような円形のお堂があった。軒先に釣灯籠がぶら下がって、人が五十人ほど入れそうな大きなお堂だ。

「——もしかして、」

「入口だよ! ここから行けるんだ。早く行きたいねぇ」

 竜は飛び上がった。中には魔法の扉でもあるのだろうか、それとも魔法陣みたいなものが床に描かれているのだろうか、と阿土はその横で静かに心躍らせる。

 引率していた大人二人がもう一度人数確認してから、子供たちをお堂のなかに一人ひとり入れていく。竜の次に、阿土もお堂のなかに足を踏み入れる。意外なことに、景色が変わるわけでもなく中は普通で明かりもなく、床は何の変哲もない三和土たたきだ。おまけに子供たちは全員そこにいる。

「正直扉の向こうは異世界かと思ってた……」

「がっかりした?」

「がっかりした」

「まあまあ、これから楽しみにしててよ。もうすぐさ」

 お堂の入り口が閉じられた。その後すぐに引率者が、閉じた扉に片手を置いてなにかブツブツと喋った瞬間、

——ゴゴゴゴゴゴッ……!

 なんと、大きな石臼を挽くように壁が左に回り始めた。阿土たちを含めた子供たちは振り返ったり、ふらついたりする。

「うわわわッ、なにこれスゴ!」

 手を置いたままの引率者はそのまま押し歩いていく。

回ってきた壁にまた別の扉があった。つまり阿土たちが入って来た入口とは別に後ろにも扉があったのだ。もっと分かりやすく例えるなら、前後両方にドアがあるスルー型エレベーターのように。

 半回転して、その扉がガコッとはまり、阿土たちの目の前に止まった。

 その扉が軋みながらゆっくりと開かれた。

 しかし扉の向こうは、先ほどと同じ石畳と燈籠と階段がそのまま有った。

「さぁほら着いたぞ。ささ、出て出て」

 あっけにとられる子供たちを二人の引率者が催促する。

不承不承、全員お堂から出るのであった。


 阿土たちが少しずつ違いを感じ始めたのは、引率者に付いて、もと来た山道を戻るように歩いているときだった。お堂のすぐ外に全く同じ屋敷はあったのだが、屋敷の敷地内といい、山中といい、灯りの数が異様に多く感じられた。山全体が明るい。

「あそこ、人がいる」

 数人の大人が手燭てしょくを持って雑談しながら、上の斜面を歩いて行くのが見えた。

「さっき言ってた陰陽師の人なのかな」

「陰陽師だけど、あの人たちはたぶん陰陽庁の役人さんたちだよ」

 竜の言葉に「なんかまた知らないワードが出て来た」と言わんばかりに口をへの字に曲げる。ふと、すぐに顔が戻る。

「どっかでそれ聞いたことがある気がする」

「それはそうだよ。入学許可書とか家に来たお役人さんは、陰陽庁からだからさ」

「うーん、もっと説明欲しい」

「そうだな……、陰陽庁っていうのはれっきとした日本政府の組織なんだよ。非公表だけど。だからあのひとたちは国家公務員みたいな存在なんだ」

「裏の組織、みたいな、ってこと?」

「そんな感じ。日本の陰陽師とか怪奇・心霊現象を取り締まってる。で、警察庁とかにも本部とか支部があるでしょ? 岩手県警察とか北海道警察とか。幽世には本部のほかに三つ支部があって、ここにはそのうちの一つで陰陽庁鬼門支部があるんだ」

「なにそのキモンって?」

「えっとねぇ——」

 竜がさらに説明をしようとしたその時に、前方の方を先導していた引率者が

「もうかなり歩いていると思っている者もいるだろうが、まだしばらく、いやかなり歩くし、そのあとは舟下りだ。体調が悪くなったらすぐに言えよ」

 と、声を掛けた。いつの間にか、山道を抜けて開けた場所に出ていたようだ。続く道はいささか均されていて、嫌に不気味な石像や火が灯っていない石灯籠が草原に佇んでいる。

 引率者が持っていた手提げ提灯がいつの間にか青く光っている。

 長い往路でも、話し相手がいれば苦ではないと思っていた子供たちも、その後さすがにニ十分ほど歩いたのはこたえたようだ。


 川の乗船場に着いた頃には、阿土たちの多くの子の足は悲鳴をあげていた。とはいえ、舟で川を下れば学院はもうすぐなのである。

 川辺に着いていた五隻の大きな和舟に子供たちは分かれて乗り、乗船場で待機していた三人と、合流した二人全員それぞれが一つの舟の操舵手となって漕ぎ出た。

 川幅はそれほど広くはない。この大舟がぎりぎり通ることに感心するほどだ。

 やっと休めた阿土には、頬にあたる微風が心地良く感じる。

「なんの音?」

 阿土は顔をあげ、四方に耳を傾けた。舵が水をかきわける音の中とは別に、不規則な音がすることに気が付いたのだ。竜は「何?」と聞き返す。

「なんかこう、『ウー』みたいな、高いサイレンみたいな音がする。か細いんだけど」

「ああ——」

 竜は首を伸ばして遠く向こう、星空の端を覆い隠す大きな影を眺めて言う。

「これ狼の遠吠えだよ、きっと」

「お、オオカミ? ってもしかして、絶滅したとかいうオオカミだったりする?」

 竜がゆっくり頷く。

「そう。さっき言ったけど、江戸時代、幽世は現世から分かれたときに、動物たちも一部を幽世に移されたんだ。というより、移さないといけなかったんだけど。だから、現世では絶滅した動物もここではまだ生きてたりするんだよ」

「へぇ! そうなんだ。すごいね。ニホンオオカミ、ちょっと見てみたいな」

 阿土もはるか先の山々を眺める。その横顔を一瞥した竜が、浮かない顔をしていることに気づかないまま舟は進む。

 舟上が話し声で少し賑やかになってきた。皆少しずつ打ち解け合ってきたようだ。中にはすでに寝ている者もいる。

 すると操舵手になった若い男が、

「お前ら、こっから静かにしろよ~。もうすぐ居住地域だからな。それでもうるせぇやつは舟から突き落とすぞ」

 と、爽やかに笑いながらえげつないことを言ってきた。実際にこの後、前の舟で騒ぎ出した男子二人が容赦なく川へ突き落されていた。二人は川沿いをずぶ濡れのまま舟を追いかけた。聞くと、最後の舟が拾ったらしい。

 居住地区だと言われてから、確かに川の両側にしっかりと舗装された道と家が姿を現し始めた。家は江戸時代が舞台の時代ドラマに出てくるような木造の家屋だ。道には等間隔に灯りが灯っているが、家々に灯りと人影はない。

 橋も架けられていた。もちろん木橋である。舟が余裕でくぐれる高さの橋は、操舵手もかがんで通れたが、あまりにも低すぎる橋は操舵手が橋の上を飛び抜けて舟を進めた。その技に子供たちは歓声をあげた。

 そして最後の大きな木橋を通り抜けると目の前に城壁と、水路を塞ぐ水門が現れる。阿土たちが下っていた川は、お堀に繋がっていたのだ。門の傍の僅かな足場に建っていた人が、持っていた鉤付きの棒で多少不手際に門を開ける。そこに五隻の舟が通っていく。そして門は閉じられた。

「着いたぜ~。俺たちの学校、鬼門陰陽司術学院に到着だ」

 阿土たちの舟の操舵手がそう言って、子供たちは舟から身を乗り出してよくよく周りを見渡す。とはいえ、左側は高い土手で、右側には二軒の建物がお尻を向けて建っている。

「酔ったやつはいねぇかぁ? もうすぐで降りるからな。荷物固めろよ~」

「あの、『俺たちの』ってことはお兄さんって、ここの学生なんですか? 私たちの先輩?」

 一人の子が律儀に手を上げて操舵手に聞く。よく聞いてくれたとばかりにその青年は、

「そうそう。これ現世でいう『あるばいと』ってやつだ。人手が足りないから手伝ってるわけ。まぁ、舟の扱いは慣れてる方だから安心してくれよな」

 とまた笑う。先輩と分かったとたんに子供たちから質問が飛ぶようになった。それをあしらいつつ先輩はもう一つ木橋を抜け、前の舟と同じように右側の岸に舟を停めた。

 ついに到着した。阿土たちがこれから七年間過ごす学校に。

 阿土が荷物を抱えて降り、立ち上がって振り返る。その阿土の目に映っているのは、また高い土手だけだったが、その先には、黒くそびえ立つ学び舎が学院全体を見守るように鎮座しているのだった。そしてその眼下へと広がっているのは、沢山の教育施設。

 つまり鬼門陰陽司術学院とは、城郭を模した広大な土地と、学ぶに十分な機能を十二分に持ち、周りには大きな街が広がる学都だったのだ。幽世に住む近隣の住民たちは、学院は昔から「学ぶ砦」とも呼ばれている。

 そんな学院に、足を踏み入れた阿土たちには、多くの学友たちとの学生生活が待ちに待っている。


「——漆島菖蒲、及川万桜、木内三、黒川阿土、早乙女竜……」

 同時刻、行燈一つの部屋で一人、窓辺で名簿を読み上げる人物がいる。

「藤宮睦、星侠子、緑川澪——、うーん……」

 春の夜の匂いが吹き、頬に当たっては流れていく。その人は一通り読み上げても手元の紙をじっと見つめている。

「新任のわりにとんでもない組を任されたもんだな」

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