第一話「怪奇とはじまり」

 いつもの朝。階段を下りてリビングまで行くと、つけられたテレビから今朝も少し大げさなニュースが垂れ流されていた。今日は喪が明けて初めて学校に行かなければならない日だ。阿土あづちはここ数日、泣き過ぎが祟ったのか熱まで出して父に看病された。今も正直気分は良くないとはいえ学校を休むほどでもなかった。リビングの姿見を覗くと、くせっ毛に混じって寝癖がついているのに気が付き、手櫛で梳かしたが直らない。まだ寝ぼけているからか鏡が一瞬ぐわんと歪んだように見えた。

「おはよう、阿土」

 振り返ると身支度を整えた父が、すぐ横のキッチンから朝食を持ってきた。

「あ、おはよ」

「今日は体調、良さそうだな——」

「うん。今日学校、行くよ」

 二人の間に漂う空気のせいで下手な会話をしてしまった。心配性の父に対する反抗期が見え始めているせいもあるが、なによりここ数日、母についての質問をした時の答えがあまり納得するようなものではなかったことも相まっていた。

 朝食を食べ終わると先に父が出勤していき、阿土はその後に家を出た。傘を差すまでもないような雪が真っ白な空からそっと落ちている。

 しばらく歩いてすぐの角を曲がった先に、道の横幅いっぱいに線が引いてあるのを見つけた。この前まで無かったものだ。通るついでによく観察してみると、濃くはっきり太い線がやけにくっきり引いてある。雪の上に引いてあるのかと思いきや、踏んでも乱れない、雪が上に積もらない。何かそういう黒い光が上から当たっているのか。しかしあたりを見回しても家々の外壁が並んでいるだけで光源らしきものが見当たらないうえに、線を踏んだ靴に線が映らない。

 阿土は首を傾げながらもその線の上を跨いで通った。瞬間、鳥肌が立つような悪寒が走ったのだった。

「あっちゃーん! おはよー」

 友達がいつものところで待っていてくれた。思わず笑みがこぼれて駆け寄る。

「あっちゃん、ニュース見た? 大統領さん変わったんだって。なんかね、カッコイイ漢字だったんだけど読めないんだ全然。あっ、あとね、ほら、ほんけん? 出身のサッカー選手居たじゃん? 海外チームに移籍したんだって」

 友達はせきが切れたように沢山の話を浴びせてきた。いつもニュースから学校での噂まで話のネタが尽きない、そんな癖が騒がしいけれど嫌いではなかった。

「ごめん、ここ最近全然ニュース見てなかったんだ」

「そっかあ。あ、そうそう、今日はね、理科の時間自習なんだよ」

「まじ? あーあ、実験やりたかったなぁ」

「それなぁ」

 歩き始めようとしたところで、友達の後ろに見える向こうの階段に誰かが座っているように見え、二度見するとそこには誰もいなかった。

(なんか、変だな)

阿土は溜息とも取れないような息を小さく吐いて学校に向かった。


「ねぇねぇ」

「なに? あっちゃん」

「あの人って、新しい見守りボランティアの人?」

 学校が見えるあたりまで来て、校門の前に初老の男性が立っているのが見えた。穏やかな笑顔で学校に入ってゆく子供たちを見送っている。

「どの人?」

「校門前に立ってる男の人」

 阿土は指を差してより分かりやすく説明した。が、

「居る? 男の人?」

 友達は目を凝らしながら聞き返してきた。阿土たちはもう校門がしっかり見える距離にいる。そして近づいてきて分かったことが一つ。男性の前を通る児童たちは挨拶を返すことはおろか、素通りしているのである。

「……なんでもない。見間違ったのかも」

「そぉ? 変なのぉ」

 友達が平然と笑っているのをよそに、阿土は様子見も兼ねて黙ってその前を通ってみることにした。阿土はなるべく男性の方を見ないようにしながら校門をくぐる。友達の話を聞き流しながら、玄関で一度振り返ってみて阿土は後悔した。

 男性は体も阿土の方に向け、笑顔のままじっと阿土を見ていたのだ。


 教室に行くと、クラスの皆が阿土の机に溜まったプリントの整理を手伝ってくれた。クラスの皆は、ひとクラスしかない上に人数は二十人も居ない。

「はい、みなさーん、おはようございまーす!」

 朝の会の時間になって、点呼を取りに担任が顔を出した。阿土は担任を見て面食らってしまった。担任の肩に猫が乗っていたのだ。鼻のあたりに黒い斑点があるその猫には見覚えがあった。担任の愛猫だった猫だ。よく写真を見せてもらったこともあったが、去年の秋に虹の橋を渡ったのだという話を聞いていた。

 阿土は確信する。これは「霊感」だ。

 理由やきっかけを探すよりも、阿土はその日一日変に思うようなものにはあまり反応しないようにするほうに努めようと決意した。今日は卒業間近ということで、作文を書いたり皆が教室に置いている物の整理をしたりするのが主らしい。しかし、担任の猫が自分のプリントの上に居座ったときや、校門の男性の霊が視界に入る度気せずにはいられなかった。周りから不審がられるのではないかと冷や冷やしながらも、段々と、どういうのが人間でどういったものが幽霊なのか、判別できるようにもなった。


 問題は下校だ。友達と普通に帰ろうと思っていたのだが、ふいに後ろを振り返ると幽霊の男性の霊が校門を離れて阿土に付いて来ていて、心臓が止まりそうになった。友達が一人、また一人と別れていく度に段々と近づいて来ており、加えて終始笑顔なのが不気味さを際立出せる。最後の友達と別れてから早歩きで家に急いだ。それでも幽霊はぴったり自分に付いてきているのが振り返らなくても分かる。今朝の黒い線を越えるころには走っていた。

 急に気配が感じられなくなり、恐る恐る振り返るとそこに幽霊はいなかった。ある所でぴったりと気配が止まっている。先ほど曲がった角から覗いてみると、やはり幽霊は黒い線のあるあたりで佇んでいた。線がある場所からこちら側に来ようとせず、悲しげに、足元に視線を落としていたのだ。

 阿土は角でそれを窺っていたが、我に返ると今が好機とばかりに家に走った。

ポストからはみ出している大きい封筒を引き抜いて周囲を確かめながら家に入り、そのままどさっとソファに倒れ込んだ。自分の心臓の音が際立って大きく聞こえる。何も考えないように深呼吸をし、封筒を目の前の机に置こうとしたその時、封筒の文字に目が行った。

「いん…よう、庁?」

 封筒の差出人のところには「陰陽庁本部記部省調査遜師調査部」と書いてあった。更には宛名に「黒川阿土くろかわあづち様」と書かれている。思わず封筒を投げて悪戯か詐欺を疑った。しかし恨みを買うような覚えは無く、ましてや阿土は授業以外でパソコンやスマホを触ったこともないため全く心当たりがない。もはや阿土の頭は混乱を極めている。父に相談するしかない。試しに封筒を揉んでみて入っているのが紙だけだと分かると、ハサミで切って中を確かめてみた。紙は三枚しか入っておらず、一番目の紙には「鬼門陰陽司術学院入学許可証」と書いてあった。二枚目にはよくわからない模様が円形に描かれていて、三番目の紙には「購入教材一覧」と書かれていた。「購入」という文字を見て不信感が一気に募った。

 父が帰ってきた。廊下で出迎えた時、くっきりと隈が浮かんでいる顔を見て封筒を出すのを躊躇とまどい、リビングまで駆け足で戻ってランドセルの中に入れようとした。しかし封筒はランドセルの幅よりも大きく、かと言って机の上に出すわけにもいかず、傍らにあったクッションの下に入れた。

「どうかしたのか?」

「いいや? 何も」

「嘘つけ。目が思いっ切り泳いでるぞ。なんだそれ。見せてみろ」

「い、いやぁ」

 父に問い詰められて、あっさり根負けして封筒を見せた。父は封筒の文字を見ただけで明らかに表情が変わった。眉間に皺を寄せて三枚の紙を一枚ずつ確かめると、次の瞬間、予期せぬ言葉を漏らした。

「そうか。……良かったな、阿土」

 阿土は夕飯のために出していた食器を危うく落としそうになった。父に聞き返そうとしたその時、けたたましくインターホンが鳴った。父がモニターを見てボタンを押し、「はいはい、今開けますから」と言って玄関に行ってしまった。阿土が改めてモニターを見ても全く知らない人が映っていて、益々不安になった。

 家に入って来たのはスーツを着た三十代くらいの男性で、曇った眼鏡をかけている。男は阿土を見て、

「おや、これはこれは。改めておめでとうございます」

 と全く表情を動かさないまま祝辞を述べる。阿土は二の句が継げない。その目に見えた態度に男は「息子さんに言っていないのですか?」と父に問うと「さっき封筒が来たんですよ」と素っ気なく返した。男は内ポケットから小さな入れ物を取り出し、中から名刺を取り出して阿土に差し出した。

陰陽庁おんみょうちょう鬼門きもん支部しぶ記部省きぶしょう調査局ちょうさきょく遜師そんし調査部ちょうさぶの神山です。陰陽庁っていうのは、君のお母さんの黒川くろかわ零奈れなさんが働いていた場所のことだよ」

 今にも溶けそうなくらい疲れ切った声でそう説明する。唐突に母の名前が出てきて阿土は仰天した。父はネクタイを緩めながらさらに言う。

「母さんはな、“陰陽師おんみょうじ”っていう仕事をしてたんだ。……陰陽師っていうのは“霊力”という特別な力を持った人間だけが就く特別な仕事なんだ」

 「おんみょうじ」という言葉は聞き覚えがあった。阿土は妖怪好きの同級生の話で、昔いた「妖怪」という化け物を倒す魔法使いみたいな人たちだと言っていたのを思い出したのだ。

すると、神山は何を察したかこう補足した。

「だけどね、現代っ子が思っている「妖怪を倒す」みたいなことはしないよ。それはこちらの世界とは縁のない人たちの野蛮な考え方さ。陰陽師は昔からこの日本という国を裏で支えてきた人たちのことだ。マンガだのアニメだの、そういうやつに出てくるただの退治屋だと思わないでほしいね。理解ができましたか?」

 全体的に、特に最後の言葉がしゃくに障ったが押し寄せる情報のなかで阿土はなんとなく分かってきた。しかしまだ分からないことは山ほどある。阿土はその中でも最も聞きたい疑問を引き出す。

「じゃあ、なんでお母さんは死んだんですか?」

 後ろの父を含め、神山はわずかに目を見開いた。しばらく神山は困ったようにこめかみを掻き、横で父は神山の出方を見ているようだ。口をへの字にして目を合わせずに、やがて神山は答えた。

「分からないんだな、それが」

 阿土の強張った手が緩んだ。

「分かっていないのさ、不明なんだ。君の母は陰陽師の中でも強いお方だったし、かなり慕われていた。それでも亡くなられたから、いま陰陽庁は大騒ぎなのさ」

 すかさず神山は「あっ」と何か閃く。

「そうだ、君はこれから陰陽師の育成学校に通うことが決まっている。君の意思に関係なく、陰陽師の世界に足を踏み入れる。だから自分で探してみればいいんじゃないか? まぁ、が分からないって言ってる以上不可能だけどね」

 阿土は愕然として自分を指さして神山と父を交互に見た。父が腕組みをして答える。

「お前に、霊力が出来たからな」

「——霊力? なんで?」

「君みたいに突発的に発現する子も少なからずいるのさ。大抵の理由は大きく感情が揺さぶられた時とか、ね。そして霊力を持っている人間は全員“学院”に通うことになっている」

 「大きく感情が揺さぶられた時」とは、紛れもなく母・零奈の死のことである。

「ぼくも陰陽師にならなきゃいけないってこと、ですか?」

「まぁ……、そういうことだね」

 神山は何か言いかけたもののそれを飲み込み、動き出したかと思えば机の上に置いてあった封筒を手に取ってダイニングテーブルの上に一枚取り出した。それは二枚目の、模様が描かれた紙である。

「ここ最近は私たちのことを詐欺師だのと変に怪しむ親が多くて……。やはりこちらの世界を少しでも知っている家庭があるととても助かる」

「そんな態度だから、役人だと思われないんじゃないのか」

 そう言ったのは父だ。先ほどから何となく虫の居所が悪そうな、朝の時とは違う様子だった。神山はしばらく父を見つめ、妙な間が空いた。「詐欺師ならもっと前向きでしょうよ」神山は紙を机の上に置き、阿土にほら来て、とばかりに手招きする。

「君はこれから陰陽司術おんみょうしじゅつ学院がくいんという学校に入学するわけだけども、その前に力を測っておかなければならない。そら、ここに手を置いてくれ」

 言われた通り、紙の上に左手を置くと突然紙から水の雫のような、あるいは砕けた硝子のようなものが手を避けながらすり抜けて宙に舞った。手を紙から離さないようにと神山が手を押さえつける。その間にも欠片は集まって手の甲の上に大きな結晶として集まった。大きさを説明するならば教室で見かけるような地球儀ほど、あるいはそれよりひとまわり大きいくらいだ。そしてその透明な塊の中心が黄色く光りはじめたかと思うと塊全体が淡く発光するように広がって輝いた。阿土は思わず見惚れる。

「君の五行は土だね」

「え? 土?」

「そう。まぁ、属性みたいなものかな。必ず覚えておいて。霊力量は、母親と同じくらい、っと」

 神山は懐から細長い紙を取り出して何かを書き留め、終えると紙を細く折っていって最終的に五角形に折り込んだ。

「あとは教材や道具等、制服の購入をしてください。教材類はあちらに行ってからの購入でも構いませんが、制服は予め用意して入学に備えてください」

 神山は父にそう説明しながら、五角形の紙をポケットに入れ、阿土の手の下の紙を引っこ抜いてご親切にも封筒に入れ直した。神山は自身が持っていた鞄からもう一枚、また別の束になった書類を出して封筒に加え、二人に向き直る。

「入学式は四月四日ですが、四月三日の夜十時までに必ず盛岡駅西口バスターミナル五番線乗り場あたりに来てください。午後八時頃には送迎バスが来ているはずです。この封筒を持ってそれに乗るように。十時半ごろに出発いたしますから、必ず遅れないようにしてください。詳細は書類にも書いてあります。一応その旨が書かれた書類も入れておきましたが……、間に合わなかったり、来なかったりした場合は入学式までに我々役人が無理やり連れていくことになりますからね」

 神山は加えて「そういえば家の付近に地縛霊がいましたので、道中祓っておきました。ご心配なく」と言って、すぐにさっさと帰って行った。

 父は阿土に背を向けて、黙って立っていた。阿土も黙っている。

家鳴やなりがリビング中に響いたのを契機に、阿土はぶっきらぼうにこう言った。

「知ってたんでしょ、全部」

 深く息を吐く音が聞こえた。父がおもむろに上着を脱いだ動作にも阿土はわずかに身構える。そこには普段テストの点などで怒る時よりも緊張感があったからだ。父は眉間を揉んでもう一度息を吐く。こちらを向いたが、目を合わせなかった。

「全部とはあっちの世界・陰陽界の話のことだろう。……知っていた、全てではないが」

 怒りの感情は湧いてこなかった。父が母のことについて何も言わなかった理由が分かって、腑に落ちたからだろう。

「明日でいいからさ、話してよ。今日は……今はご飯食べようよ」

「——ああ」

 その日はやけに静かに、あっけなく終わったのだった。


 翌日、休日ということもあって時間はたっぷりとあった。遅く起きて来た父に簡単な朝ごはんを作ってやり、父の食事が終わるまでソファに腰を下ろして、ぼんやりとテレビを眺めていた。父がコーヒーを淹れて来たあたりで、阿土はテレビを切った。

「テレビ、付けててもいいんだぞ」

「ううん。そろそろ話が聞きたいんだ。父さんはぼくに説教するとき、真面目に話を聞いてほしいからテレビを消すでしょ? それと同じだよ」

 父はゆっくりと近づいて、ソファに座った。阿土も座り直す。一人分間が空いたまま、両者は前だけを向いていた。

 外で鳥が鳴く声が聞こえる。父はやっと口を開いた。

「おれは、もともと陰陽師の家系の生まれだったんだ」

 阿土の父は名を黒川くろかわひろと言うが、それは本名ではなく母の苗字に新姓し、さらに改名をしたものだった。元は生家でつけられた別の名前があって、父が陰陽師になっていればその名前のままだったのだ。ところがこの男は霊力を生まれつき持っていなかったうえに、その後一切発現しなかった。陰陽界ではそういう人間の事を祖人そじんと呼び、阿土や霊奈のような霊力を持った者たちのことを遜師そんしというらしい。一族と唯一違う祖人の父は家族親類から蔑まれながら普通の道を進んだ。しかし、そして何の因果か、恋人となった女性は遜師だった。黒川零奈である。零奈は当時陰陽界で研究職をしており、調査のために各地を転々としていたのだ。その後結婚して阿土が生まれ、零奈は陰陽師に職を変え、今に至る。父はこれ以上のことは分からないのだという。

「おれはお前に謝らなければならない。すまなかった」

 父はいつの間にかマグカップを目の前の座卓に置いて、背をもたせ掛けていた。

「いいよ、別に。多分ぼくも、霊力? が出来るまで信じなかったと思うし」

「いや、黙っていたことも申し訳ないと思っているが、おれは昨日冷たく当たってしまっていたと、思ってな」

 思い返すと、たしかに昨日は素っ気ない気もしたものの阿土はあまり気にしていなかった。父は苦虫を嚙み潰したように顔を歪める。

「あまり考えたくなかったんだ。陰陽師……とかについて。それに、おれは昨日の夜、もしかしたらお前に嫉妬していたんじゃないかと思ったんだ。だから、」

 父は息子に自分の顔を向けて頭を下げた。

「ごめんな」

「もう、いいってば」

 阿土にはどうすることもできず、そうとしか返事ができない。それよりも阿土は、父も人間である以上嫉妬もするのだなと思っていた。両親のことをどこか完全無欠と無意識にでも考えていた自分自身に少し驚いている。

 父は「そうか」と呟いて、すぐに気持ちを切り替える。

「——じゃあ入学準備、やるか。……たしか制服が袴なんだ。着方も教えてやる。あとは、ああ、書類も目を通さなきゃいけないな」

 そして父と阿土は入学の詳細が書かれた書類の束を確認した。通う学校の場所、説明、制服などの購入方法などが記載されている。着々と読んでいた際に二人が驚いたのは学校についての内容だった。以下、このように書いてある。

  この度は鬼門きもん陰陽司術おんみょうしじゅつ学院がくいんへのご入学誠におめでとうございます。ここでは御校の説明をいたします。鬼門陰陽司術学院は、北海道・東北地方に建立された陰陽師等への育成・教育機関にございます。御校は*幽世かくりよの鬼門地方に建っており、十三歳から七年間、学生は職員と共に全寮制で生活しております。(後略)


*現在の日本を現世とする考え方をご存じでしょうか。私たちが生きている現世があり、それとはまた別に幽世、常世が存在します。幽世は一般であの世を指すという俗語がございますが、そうではなく、同じ日本列島の形をした異界が存在しており、その異界のことを我々は「幽世」と呼称しております。


 阿土は何度も読み返した。

「異界、って……」

「つまり人工的に作られた異世界、ということだな」

「い、異世界ぃ?」

 その後、書類には通学、学院内施設、生活ぶり、教育課程、教員名簿などが書かれていて、阿土は次々と出てくる未知の単語の数々に参っていたが父は真剣に、しっかりと見ていった。不思議なことに、一年間の行事予定表や授業内容などの説明があまりされていないということが分かった。また、最後の頁の下の部分には「ご関係のない方へお見せすることはご遠慮ください。場合によってはその方々への記憶消去措置をとる場合がございます」とも書いてあった。どうやら魔法だとかそういうのは、ファンタジーと同じく世間一般にバレないようになっているようだ。

 阿土は学校が異界にあることと、薄々感じていた親元を離れて生活しなければならないことに衝撃を受けていた。初めての、全く新しい環境に馴染めるかが気がかりだが、それと同時に、なにか母のことについてもっと知ることが出来るかもしれないと少しわくわくしてもいた。神山に死因を知るのは不可能と言われたが、それ以外の、母の働きや母の事を知っている人にも会ってみたい。

 結局父が入学準備を進めた。制服は代金を払って近日中に届くようにし、教材等は購入を済ませておいて、幽世の、学院に着いてから受け取れるようにしてくれたのだった。


 数日後、制服が届いた。学ランを彷彿とさせるほど真っ黒な制服だ。袴に、その上に着るであろうチョッキのような上衣があって、それも含めて全て真っ黒だった。父の手ほどきで入学までに袴の着方を覚えた。何度も着たものの、着られている感はどうしても直らなかった。父が言うには「初めての制服に付き物」らしい。

 移動当日は私服だった。学院行きのバスに乗る時は私服なのか制服なのか二人でずっと悩みながら移動する羽目になったが、書類にそういったことが書いてないこと、黒い袴を履いた子が盛岡駅付近で見られなかったことを理由に私服で乗る決断をした。

日がとっぷりと暮れ、駅西口のほうにある大きな二つのビルが真っ暗になった頃にバスターミナルに行くとマイクロバスが二台停まっていた。少し錆びついているものの、至って普通のバスだ。

 盛岡駅の「さんさこみち」と書かれた西出入口で父は阿土に別れを告げた。

「じゃあ、ちゃんと元気に過ごせよ」

「うん」

「夜更かしするなよ、不摂生な生活をするな」

「分かったって! 今日ずっとそれじゃん」

「周りと仲良くやれよ」

「やれるよ、それぐらい」

 父は途端に真面目な顔をして、阿土の耳元に近づいてささやいた。

「あとな、もし、おれの親族を名乗るような人が居てもできる限り相手にするな。自分は黒川の息子だと言うんだ。そして、無理にお母さんのことを追及しなくてもいい。仇を取ろうなんて考えなくていい。学業に全うするんだ」

 阿土はすぐには返事をしなかった。父が「いいな?」と念を押したことに、建前上頷いただけだ。流石に父もその返事には半信半疑だろうが、そのまま息子の背を押した。

「よし、じゃあ……また夏に帰ってきたあたりに、話をたくさん聞かせてくれ。手紙を書いてもいいけどな」

「さあね。——うん、じゃあ……、いってきます」

 少し歯切れの悪い別れ方だった。それでも阿土は歩き出すと、なるべく振り返らないようにしてバスに向かって行った。

(でも今、父さんなんか……言ってたような?)

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