阿土

桂馬みけ

序章 「おかえり」

その日、玄関に靴が一つ増えているのを見て、阿土あづちの胸に喜びが弾けた。ランドセルを放り投げてマフラーを引きはがし、廊下を走ってリビングへ続くドアを思い切り開けると、目の前にあるキッチンに立つ人が目に映った。

「お母さん!」

「あッ、おかえり! ずいぶんと騒がしいと思ったら、我が家の暴れん坊が帰ってきたのね」

 母は阿土に駆け寄ってぎゅっと抱きしめた。阿土も母の匂いに包まれながら抱き返した。

「帰ってくるなら早く言ってよー!」

「えへへ。さて問題、なぜ私が帰ってきたのでしょう?」

「ぼくの誕生日だから」

「あったり~」

 母はこの家がある岩手県には立ち寄ることがあるらしいのだが、普段は全国津々浦々を仕事の関係で巡っているらしかった。いつも離れ離れのため、久しぶりに会うのはいくつになっても嬉しかった。父に怒られることが多いためか、母はテストの点を褒めてくれたり、友達の話をいつまでも聞いてくれたりとたっぷり甘やかしてくれるように感じる。去年は阿土の誕生日に帰って来られず母に当たったが、今年は約束を果たしてくれたのだ。

「さ、手洗いうがいしておいで。もうすぐお父さん帰ってくるでしょ? 今日はうんと凄いごちそうにするからね!」

 遅れて帰ってきた父も母の帰宅を知らなかったのか、母の顔を見るなり「連絡してくれればよかったのに」とはにかんだ。母はいつも唐突に帰ってくるため、阿土も父も驚く。そういう時は決まって「驚く顔が見たかった」と笑うのだった。

 夕食は阿土が好きなものから母の得意料理まで、たくさんの種類の料理が食卓を覆って豪華に見えた。しかしそれよりも、三人揃っての食事がとても嬉しかった。父は買ってきたケーキを一度見せて「食べ終わったらな」と言って冷蔵庫にしまった。

いただきます、と手を合わせてから我先にと料理に箸をつける阿土を、母は眺めていた。

「誕生日おめでとう。やぁっと十二歳か。でも、あっという間だったなぁ」

「そうだよ、お母さん。みんなぼくより十二歳になるの早いし。しかもあと二か月したら中学生になるんだよ。それに、四月生まれは今度はもう十三歳だよ」

「仕方がないだろう、阿土は早生まれなんだから。逆に考えれば、みんなよりも若いと思うけどな。父さんは」

「でも、今は年下って言われるの」

 阿土が頬を膨らませると母は声を上げて笑いながらその頬を突いた。阿土は唐揚げやシシャモなどに手を付けていたが、母は那須や胡瓜の漬物、お浸し、里芋の煮っ転がしなどを少ない玄米で食べていることに父が気づいたようだった。

「それで足りるのかい?」

「先に食べてきちゃったの。どうせお腹空くかなと思ってたんだけど、思ったよりお腹空かなくて」

「ああ、そう。じゃあケーキは?」

「阿土が食べたいならあげるけど、食べなかったら明日食べるわ」

「明日ってことは、何日かいるのかい?」

「三日くらいは休み貰ってるから、まあ、明後日の朝には出発かなって感じ」

母の休みは不定期だ。お盆や正月休みなどは無いらしく、突然帰ってきては一日しか居られないという時も珍しくはない。時間が無くても帰ってきてくれるのだと考えてからは、とても有難くて、その時間を大切にしたいと思うようになっていた。仕事は何をやっているのかと聞くと、父も母も揃って「難しい仕事」と言い、いつか教えてあげるとしか言われないのだった。

「ねぇ、今日はお母さんと一緒に寝ない? お布団部屋に持っていくからさ、ね?」

 母が内緒話のように阿土に言った。阿土がもちろんとばかり頷くと、父が

「えー、父さんも入れて三人川の字で寝ようよ」

 と、苦笑いした。母は阿土を抱きしめて

「明日三人で寝ようよ。今日は久々に独り占めしたいの」

 と、父に上目遣いでお願いした。抱きしめられながら、一体この人はいくつのつもりなんだろうと思った。母はもう四十路である。しかしこの機は逃すまい。

「ぼくもお母さん独り占めにしたーい」

「しょうがないなぁ」

 父は頭を掻いて苦笑いした。


結局阿土は母のケーキも食べ、風呂から上がっても母とずっと話していた。宿題をしながら喋っていると父が「集中しろ」と言ってきたため、今までにない速さで宿題を済ませた。父は呆れ顔だった。

自分の部屋には自分専用のベッドがあったが、その夜は母の布団に潜り込んだ。母の長い髪についたヘアオイルの匂いがして、しばらく黙って腕の中にうずくまっていた。

「ねぇお母さん。お母さん何の仕事してるの?」

「またその話?」

 母は阿土の頭を撫でながら若干うんざりしたように聞き返した。

「そろそろ教えてくれたっていいでしょ? もう小学生じゃないし」

「卒業式はまだでしょ?」

「そういうことじゃなくて、もう子供じゃないって言いたいの」

 阿土は母の胸元に頭をぐりぐりと押し込んだ。母は笑ってそれを抱きしめる。

「いつか分かるってば」

「お母さんもしかして怪しい仕事してるの?」

「さぁね~」

「答えになってない」

「時がくれば分かるわ。絶対にね」

「……絶対?」

そう聞き返したあたりから、母の体温や布団の暖かですぐに睡魔が襲ってきて、阿土はいつのまにか眠りに落ちて行ってしまったのだった。


午前二時頃。

「あなた」

 揺さぶられて、父は目を覚ました。暗闇の中で妻が覗き込んでいた。呻きながらよく見ると、妻は寝間着姿ではなくいつものパンツにジャンバー、リュックサックといつでも出られるような恰好をしているではないか。

「ごめんなさい。急用で戻らなければなくなってしまったの。今から出るわ。本当に、ごめんなさい」

 小さな声で、申し訳なさそうに謝った。妻の仕事上、よくあることなのだが普通の夫婦ならば「あの子や家族よりそんなに仕事が大事か」と本人に向かって言う人も居るかもしれない。しかし夫は違った。

「……わかった。阿土には言っておく。気をつけてな」

 妻は静かに頷いて、素早く一階へ降りて行った。すぐに裏口の戸が閉まる音がした。

 翌日、朝から夜まで阿土はずっとへそを曲げた。


 二日後、阿土はまだ母が帰って来るのではないかという希望を持って速足で帰路に着いた。沿岸といえども北国であることに変わりなくさすがに寒い。降ってくるサラサラの雪をたまに振り払いながら、家の前まで歩いてくると、足跡があることに気がついた。

 大人の足跡だった。玄関まで伸びていて、どうやら家に入ったようだ。阿土は急いで鍵を開けると、そこには父の靴が転がっていた。

「ええ、はい、……失礼いたします」

 リビングのドアが開いていて、電話をする父の声が聞こえた。静かにそこに向かうと、父がスーツ姿で受話器を置くところだった。「お父さん?」父はわずかに俯いて、息子に振り返ったが唇を噛み締め、しばらく言葉を発さなかった。

「阿土、明日……盛岡に行くぞ」

「盛岡に? でも、学校は?」

 すると父は膝をついて阿土を自分のもとに引き寄せた。そして息子の手を握る。

「阿土。……母さんが、死んだんだ」

 父の言葉が静かな部屋に余韻を残して消えていった。理解が追いつかなかったというよりも、実感が無かった。「母さんの葬儀がある。明日の朝にでも準備して、昼前に出るぞ」父の節榑立ふしくれだった手と言葉が震えていて、耳に膜が張ったような、心臓がギュッと締まったような感覚が阿土を襲った。

 翌日盛岡に向かった。電車を乗り継いで片道三時間。ずっと感覚が麻痺しているようで、泣くどころか気分が沈むこともなかった。いつの間にか葬儀場に着いていた。葬儀場には和装の喪服を着た大勢の人が来ていて、父に聞くと「母さんの職場の人だ」と言った。

 葬式が始まる前に会場に通されると、色とりどりの花畑の中心に大きな写真があった。満面の笑みを浮かべる母の遺影である。横には「黒川零奈くろかわれな」と、母の名前が大きく書いてあるのも見えた。前に置かれた遺骨らしき綺麗な箱と、線香の匂いがすでに漂っていた。写真を見て、四日前の母が自分を抱きしめた時を思い出した瞬間に阿土は急に嗚咽を漏らして大粒の涙を頬から落とし、その場に座り込んでしまった。すぐに父が自分を抱き上げたことに気が付く。そして用意された待合室で阿土と父は葬式に出ず二人で泣いた。阿土は大泣きで、父はすすり泣きで。二人の感情を絞るように母の声や思い出が一気に駆け抜け、そうして時間はあっという間に過ぎていった。

 葬式が終わったらしく葬儀屋の人が来て父と話をした後、帰り際に待合室のドアがぎこちなくノックされた。父がドアを開けると、喪服を着た男性が立っていた。長い髪をぴっちりと綺麗に整え、目皺が目立つ少しダンディな中肉中背の男性だった。彼は阿土を一瞥してから父に向き直った。「生前、零奈殿に世話になった者です」父は男性と挨拶を交わした後、阿土に車の鍵を渡して「先に乗っていなさい。すぐに行く」と急かした。阿土はまだ頭がボーっとしていて、覚束ない足取りで車に戻ったのだった。

 その後、母の遺骨はお寺に納骨し、二人は帰路に着いた。必要最低限以外の話を全くせず、数日上の生気が抜けたように過ごした。

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