最終話 ふたりのかえるみち

 メッセージは読まれない。

 電話はコールのみ。


 先輩が部室の明かりも鍵もそのままに出ていくことは今までなかった。

 十二月の短い陽はすでに沈みかけているが、普段ならまだ部活の最中。おまじないをかけに何処かに行ったのだろうか。

 すぐに部室を飛び出した。


 屋上にはいない。

 校舎三階端のトイレにも、第二図書室の一番奥の棚にも。

 校庭の隅に離れて立つ桜の木の下にもいない。

 戻ってきたひとりきりの部室に焦りが募る。校外にある無数の選択肢を回っていてはキリがない。


 わらにもすがる思いでファイルを開くと、ひとつの言葉が目についた。

『赤い紐のおまじない』

 運命の人と結ばれているという赤い糸にまつわる、失くしものがみつかるおまじない。材料や触媒がしまわれた棚から見つけた身長ほどの赤い紐に七つの結び目を作り、天井から垂らす。


 昏黄くらきとわが、見つかりますように。


 暖房の風に揺れる赤い紐へと念を込める。後は帰ってくるのを待つだけだ。

 秒針の音だけが響く。


 一秒。


 二秒。


 三秒が経って。


 力任せに紐を引っ張る。天井に貼り付けていたテープを引き連れて紐はだらりと部室の机に横たわった。

 こんな時におまじないを頼ろうとした自分に怒りが湧く。

 放課後に誰よりも近くにいたのは俺なのに、どうして先輩の行き先すら分からない?


 握り締められた拳を開く。手の中にあるのは結び目がついただけの赤い紐。

 これが俺の運命の赤い糸なら、どこにも繋がっていやしない。馬鹿馬鹿しい感傷が頭に浮かぶ。


 赤い、糸──!

 秋に交わした先輩との会話が鮮明に甦る。

 再び部室を飛び出した俺は、学校の裏山へと急いだ。



 夜の闇が落ちた裏山は鬱蒼うっそうとしていて、まばらに光る街灯がかえって不気味さを引き立てている。

 赤絲橋あかいとばしは数メートル下にある道路をまたぐためだけの木造のアーチ橋。昔は朱塗りの古風な外観からカップルに人気だったが、新道ができた今ではお化け橋と呼ばれるほどに荒れ果てている。


 旧道の薄暗い街灯の下には比較的新しいフェンスがあって。その奥に小さな人影がぼんやり見えた。


「とわ先輩! 待ってください」


 肩を大きく跳ねさせた先輩が振り返る。

 黒いタイツの膝は破け血が滲んでいた。道の途中か、それともフェンスを乗り越えたときか。


「……真夜君か。止めないでくれよ? これを渡りきればきっと、彼はボクを好きになってくれるはずなんだから」


 指をかけた冷たい金網の向こうで、先輩は芝居がかったような熱に浮かされたような声とともに背を見せる。

 しかし橋へと進む足は重い。

 橋はとうに腐りきっていて、ところどころ抜け落ちている。すくむのも当たり前だ。

 それでも一歩ずつ踏みしめていく先輩を追いフェンスを登る。耳障りな金属音に先輩の歩みが早くなった。天辺てっぺんから飛び降りて走る。先輩はもう両足とも橋の上。止まらないきしみに鼓動が早くなる。


「来ないで!」


 背を向けたままの悲痛な叫びが俺の足を橋のたもとで止める。


「どうして……どうしてボクを止めに来たの。キミがおまじないを続けようって、言ったんだよ」


 声が揺らいでいる。怒り。恐怖。悲しみ。どれかなのか、全てなのかは分からない。

 けれども、あらわにされた強い感情に俺の脚も震えた。


 やっぱり、片想いの彼のことを忘れましょう。

 そんな言葉を口から出していいわけがなかった。

 もう取り返しなんて、つくはずがない。


 その間にもまた一歩足が進む。


「俺は──」


 怖い。

 先輩が好きな彼に嫉妬したなんて言ったら。

 ふたりで過ごしてきた放課後も、先輩の隣を歩く夕暮れも、何もかもが壊れてしまう。

 だけど、先輩を救うためなら構わない。

 この状況を変えてくれるかも知れない方法をひとつしか考えられなかった。


「俺は、とわ先輩が好きなんです!」


 橋が軋む音が止まる。

 先輩が俺の声を聞いてくれている。


「それなのに先輩が好きな人に嫉妬して、叶わない恋を続けようとさせたんです!自分勝手で本当にごめんなさい!」


「……キミには、片想いしているひとがいたはずだろう」


 冷たい風が吹き抜けた。

 闇を背に崩れかけた橋の上で振り向く姿は、まるで深い未練を残してこの世を去った者にすら見える。


 それでも俺は打ち明けるしかない。

 自分の足元を顧みてなんかいられない。


「きっともう二度と会えない、小学生の頃の初恋なんです。俺が好きだと告白してくれたのに、引っ越してしまう彼女を幸せにできる自信がなくて断ってしまいました。あの時は両想いだったんでしょうけど。今では、片想いです」


 たたずんでいた先輩がゆっくりと首を傾げていく。その意味は分からなかったが重々しい空気が変わった気がして、俺はさらに話を続ける。

 彼女が別れ際に結んでくれたミサンガが高校に入学して切れたけど、再会できなかったこと。

 その女の子に会うために、まじない研究部に入ったこと。


「気づいた時にはもう俺はとわ先輩のことが好きになっていました。でも、その女の子のことも今でも好きなんです。ダメな奴だってことは、自分でも分かっています」


 殴ってくれてもいい。

 なじってくれてもいい。

 先輩が戻ってきてくれるなら、どんな形でも結果でも構わない。

 今の俺は間違いなくひどい顔をしている。先輩に見せたくなかった、情けない泣き顔を。


 でも先輩は軽蔑も、怒りも見せなかった。


「そんな。それじゃあボクは、今まで……」


 先輩が胸に手をあてうめく。よろける足が、ギリギリで保たれていた脆い橋の均衡を崩す。


「真夜君。キミの片想いのひとは、もしかして」


 雷が落ちたような音がして声はかき消され。糸が切れたように力を失った身体が、視界の下へと消えていく。

「危ない──!」

 脳が決めるより早く心が感じるより早く。俺の足は地面を蹴っていた。



「……先輩! 大丈夫ですか!?」

「う、うん。ありがとう」


 辛うじて残った橋の根元に倒れた俺の右手が、下へと落ちた先輩の手首を握っている。

 地面に打った胸は呼吸がままならない。腕の何もかもが痛い。目がチカチカする。それでも先輩の無事を確かめるため身体が動く。

 覗き込んだ下にはアスファルトに折り重なる橋の残骸と、右腕だけでぶら下がり俺を見上げる先輩。

 前髪は左右に分かれていて、俺は初めてその顔を目の当たりにする。

 痛みにぼやけていた視界は明瞭になるのに、頭の中は真っ白になっていく。

 昏黄くらきとわの眼差しを、俺は既に知っていた。


「せつな」


 握っている手首の主は間違いなく、東雲しののめせつなだった。


「マヤ、久しぶりだね」


「うん。また会えるなんて、夢みたいだ」


 懐かしい声に、俺の口調も子どもの頃へと巻き戻る。しかし再会を喜ぶ間もなく、痛む腕が引き上げることを拒む。

 歯を食いしばると「ねえ」と優しく呼ばれた。


「手を離して。マヤまで落ちちゃうよ」

「大丈夫だよ。すぐに、引き上げるから」


 安心させようと声をかけても、身体は断崖に引き寄せられていく。堪えるために力を入れても苦痛へと変わってしまう。すり抜けそうになる手首に、何度も力を入れなおす。


「もういいの! マヤがわたしのことを好きでいてくれたってだけで、十分だよ!」


 切実な悲鳴。大きな瞳からあふれる涙。

 あの時は別れを選んでしまった。せつなの手を取ることができなかった。

 だけど、俺が助けたからこの手はここにある。

 一つずつ重ねていくことなら、俺にでもできる!


「マヤ! はやく――」

「俺は絶対に離さない!」


 五年分の後悔は、ここで終わりにするんだ。

 長い間言えずにいた想いを叫ぶ。


「俺もせつなのことが、ずっと、ずーっと、今でも大好きだ!!」


「……告白の返事、やっと聞かせてくれた」


 泣き顔に灯る満面の笑みは、瞼の裏に焼き付いていた別れの表情と同じ。

 そして今、ふたりのはじまりの顔に変えてみせる。


「マヤ、ありがとう。今度こそ両想いだね」


 消えかけていた力に再び火を点ける。

 身体を支配する痛みをねじ伏せ、右腕に全ての力をける。

 小さな身体を、暗闇の淵から救いあげる。


「必ずふたりで、一緒に帰ろう!」






「つまり俺は、俺自身に嫉妬してたってことですか?」


「その通りさ。真夜君は本当に可愛いね」


 唇をほころばせた先輩の肩が触れる。

 帰り道に先輩と初めて手を繋いだ。絡めた指から伝わる鼓動と熱が、こんなにも全身をあたためてくれるなんて知らなかった。


「面と向かって言われると、めちゃくちゃ恥ずかしいですね……」


 くすぐったい気持ちを紛らわしたくて、疑問を投げる。


「そもそも、どうして先輩は東雲しののめせつなって名乗っていたんですか?」


「真名を隠すおまじないだよ。高校からこっちに帰ってきててさ。キミと再会した時に明かそうとしたけど。片想いの相手がいるって聞いたら言えなくなっちゃったんだ」


「俺も、入部した時にちゃんと話せばよかったです」


「まさかボクらに恋のおまじないが掛からなかった理由が、出会った時点で互いを想いあっていたからだとはねえ」


 奇跡みたいな再会に気づけず、小さなすれ違いは半年をかけて大きくなり。あと一秒でも遅れていたら、取り返しのつかないことになっていた。

 とわ先輩とせつなを救えた実感で、思わず握る手に力が入る。先輩も握り返してくれることが心の底から嬉しい。


「ところで真夜君はさ」


 ふと、先輩が繋いでいた手を離す。一人分の距離をとって神妙に俺の方を向く。


「高校を一緒に過ごしてきたボクと」


 そこまで言って、前髪を分ける。目を見せると一瞬でまとう雰囲気が軽くなった。


「初恋の相手のわたし、どっちが好き?」


 東雲しののめせつなは朝陽あさひのようにまっすぐな輝き。

 昏黄くらきとわは夕陽ゆうひのように色を変える不思議な魅力。


 ふたりはひとりだけれど。

 俺にとってはどちらも、替えることのできない大切なもの。

 大きな瞳をまっすぐに見つめて、深く息を吸った。


「俺はとわ先輩とせつな、ふたりのことが大好きです! どちらかひとりなんて選びません」


 俺の言葉に前髪を摘まんだままの顔をきょとんとさせてから、夜を照らすほどの笑顔になる。


「あはは! マヤは欲張りさんだね! いいよ、それなら──」


 せつなは前髪から手を離してとわ先輩に戻る。

 俺との間に作った空白を一足に跳んで埋めると耳元へと背伸びして。

 熱い吐息と甘い響きだけが、俺の世界になる。


「キミはふたり分、ボクらを愛してくれるんだろうね?」

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恋まじないにかからぬ君は 綺嬋 @Qichan

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