第二話 とわのねがい

「俺が前に言ったこと、気にしてるんですか? ごめんなさい」


「いいや。真夜まや君のせいじゃないよ」


 力なく背を丸める姿とは裏腹なきっぱりとした声。ゆっくりと上げた前髪の下にはいつか見た嘲笑ちょうしょうに歪む唇があった。


「……どうせ言わなくたって叶わないんだ。キミには話しておこうと思う」


 先輩は立ち上がり俺に背を見せる。沈んでいく夕陽を望み、語り始めた。


「子どもの頃から好きなひとがいてね。優しくて、真面目で、笑顔が可愛くて。ボクをいつも助けてくれた。安っぽい言い方だけれど、彼を考えない日は今だって一日たりともないんだ」


 普段聞いている感情をはかれない声とは違う。内に秘めた熱が抑えきれず溢れるような、強くて甘く切ない響き。初めて耳にするその声が俺に向けられたものではないことに奥歯を噛み締める。


 先輩が自分で試すのは恋愛のおまじないばかりだったので好きなひとがいることに気づいてはいたけれど。

 面と向かって語られる痛みは、想像を遥かに上回った。


「もうずっと前に告白してフラれているんだ。理由は教えてくれなかった。それが彼なりの優しさだとボクは思っている。でも……だからこそ諦められなかった」


 先輩にこんなにも想われているのはどこの誰だろう。

 心の半分が欲する。彼の代わりになりたい。

 もう半分が戒める。せつなだけを想うんだ。


「でも、一度終わったボクに再び正面からアプローチする勇気は残っていなかった。傷ついて泣くのが怖くて仕方なかった。自分に自信が持てなくなってしまった。だからボクは顔を隠し自分を偽り。見えなくて曖昧で失敗しても誰のせいにもならないおまじないに縋るようになったんだ。まあ、おまじないのことは元々好きではあったんだけどね」


 先輩の言葉に、相槌すら打てなかった。

 今の先輩は彼によって形作られたんだ。

 ミステリアスなところも、おまじないが好きな夢みがちな少女らしさも。何もかもが片想いの彼に根ざしていることが、どうしようもなく妬ましい。


「随分後になってから彼が誰かに片想いしてるって知ったんだ。もしかしたらボクが告白した時から、そのひとのことが好きだったのかもね。それでもボクは彼を想い続けて色々なおまじないを試した。手の届く距離にいるんだから、あとは彼の気が変わってくれれば。だけど──」


 先輩が両手で触れた窓が白く曇っていく。鮮やかな夕陽がガラスの彼方に霞む。


「彼は……何のおまじないにもかからなかったんだ」


 先輩はこちらに向き直る。ガラスの冷たさに凍えた白い掌を見せて微笑んだ。


「きっと真夜君の言う通りボクの手には届かない存在だったんだ。気づかせてくれて、ありがとう」


 自分への感謝の言葉なのにとても無価値に感じてしまう。そんなありふれた声じゃなくて、彼に向けたのと同じ甘い響きが欲しかった。

 何も返せない俺を待つことなく先輩はファイルの一冊を棚から手に取る。


「……叶わない恋を忘れるおまじないは、効いてくれるといいな」


 好きなひとの名前を書いて川に流す。

 とある花を鉢植えで育てる。

 想い出の品を捨て呪文を唱える。

 めくられたページにまとめらているのは数多のおまじない。


 先輩はきっと彼への恋を忘れるまで何度だって続けるだろう。

 成就した暁には先輩はおまじないから離れるのかな。

 前髪を切って新しい昏黄くらきとわになるのかな。

 俺のことを、置いていくのかな。

 そんなの──


「ダメですよ。とわ先輩」


 俺が握った手首がびくりと跳ねる。


「真夜、君……?」


「次こそは成就するかも知れないんですから。諦めないで続けましょうよ。恋が叶うおまじないを」


 俺はせつなを忘れたくない。忘れちゃいけない。

 なのに、とわ先輩だけが好きなひとを忘れて解き放たれようだなんて。

 そんなの許せない。


「……キミは酷なことを言うねえ。今の真夜君の言葉は、ボクが幾度となく自分に言い聞かせてきたものだっていうのにさ」


 絞り出されたような声は笑いを含んでいるのに冷たくて。

 嫉妬の熱に浮かされていた頭が急激にめていく。


「それでも他でもないキミが言うんだ。いいよ、分かったよ。ボクの恋を叶えるためのおまじないを続けよう」


 先輩は右手首を掴む俺の手に、震える左手を重ねた。


「……痛いよ、真夜君」

「す、すみません! ちょっと頭を冷やしてきます」


 慌てて手を解いた俺は逃げるように部室を出た。




 なんてことを考えてんだ。

 せつなの告白を受けなかったのは俺に自信がなかったからだけじゃなくて。

 一番にせつなの幸せを願ったからだ。

 先輩のことを考えるなら彼への想いを過去のものにさせなくちゃいけない。

 おまじないをかけて辛い恋を忘れて。先輩が前を向けるならそれでいい。


 たとえそれで俺が置いていかれるとしても。


 鏡に映る、手洗い場で流した顔へと言い聞かせる。

 俺ではきっと彼にはかなわない。

 だって先輩にあんなにも想われているんだから。


 滴る雫が、水か涙か分からない。絶対に見せたくないひどい顔を乱暴に拭いて、乱れる息を深呼吸で押さえつける。


 思い返せば、先輩はいつも自分に好意を向けるおまじないを掛けようとしていた。先輩の持論で言えば、おまじないは手の届くものを近づけてくれるだけ。

 つまり、届かないものは叶いようがない。


 先輩は無意味なおまじないを積み重ねるごとに、自分の願いが手の届かないものだと突きつけられてきたんだ。

 俺はなんて心ないことを言ってしまったんだろう。

 許してもらえないとしても、ちゃんと謝らないと。


 部室のドアに手を掛ける。

「とわ先輩ごめんなさい。俺──」


 開けた部室に、しかし先輩の姿はなかった。

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