恋まじないにかからぬ君は

綺嬋

第一話 せつなのおもいで

「ハズレだったねえ」


河川敷の土手に伸びる一本道の上で、昏黄くらきとわ先輩が振り返る。


「『天野川あまのがわの水切り石』のおまじない」


 すべてを見透かしたようにも寂しそうにも聞こえる飄々ひょうひょうとした声。

 目の下で切り揃えられた重い前髪が表情を隠す顔。

 まだ秋だというのにブレザーとスカートの上には黒いロングコートを羽織る。それを橙色の空にひるがえす姿はまるで小さな魔女。


 高校入学直後にとわ先輩一人のまじない研究部に入ってから半年。

 恋愛、学業、健康、日常のあれこれ。叶えたい願いを持つ生徒と一緒に様々なおまじないを調べてきた。


 今回は『天野川で拾った石に好きなひとの名前を書いて、対岸までの水切りを成功させると恋が成就する』というもの。片想いの相手がいる男子生徒に試してもらったが、彼は水切りに成功した興奮そのままに告白して。

『お友達から』の言葉すらない玉砕をしてしまった。


真夜まや君が思い悩むことじゃないよ。告白は彼自身で決めたことさ」


「とわ先輩めちゃくちゃ水切りに熱中してましたから、そりゃあ思い悩みもしないでしょうね……」


 顔のなかで唯一感情がうかがえる唇を緩ませた先輩に、俺はわざとらしく肩を落とした。


「でも楽しかったじゃないか。キミだって随分と真剣に投げていただろう?」


「あれ? そんなつもりなかったんですけど」


 後ろ頭に手をあて笑いごまかす。ポケットに突っ込んだもう片方の手が触れたのは投げずじまいになってしまった石。

 練習の甲斐も空しく、俺の想いは対岸まで届かなかった。


 先輩は小柄な身体をめいっぱい使ってアンダースローの動きをなぞる。振りかぶった指に変化を見つけた俺は、伸びた手首をそっと掴んだ。


「またケガしてるじゃないですか」


 俺は背負っていたバッグから新品の水のボトルと真新しいタオルを取り出して、怪我をしていた左薬指をきれいにする。手早く絆創膏を巻かれた先輩は、角度を変えては繰り返し眺めていた。


「先輩、何かに夢中になるとすぐに周りが見えなくなるんですから。本当に子どもですよね」


「ふふ、子どもは嫌いかい?」


 薄い胸の前で腕を組む。たたずまいと口角をわずかに上げた唇は、さっきまでの子どものような振る舞いが嘘のように大人っぽくて。

 眩しくないのに鮮やかな、夕陽ゆうひみたいなひとだ。


「……いいえ、嫌いじゃないですけど」

 だから、困っている。


「それならよかったよ」


 先輩は踵を返す。隣に並んだところで、俺は日ごとに膨らんできた疑問を聞いてみることにした。

 ポケットの中で石を握り締めながら。


「とわ先輩。ひとつ、いいですか?」


「ん。なんだい真夜君」


「どうして俺と先輩は恋愛にまつわるおまじないに一回たりとも成功しないんでしょうね」


「キミが思うよりずっと前からボクも考えているよ。何故だろうねえ。こうも身近にあるのに、届かないのはさ」


 らしくない自嘲じちょうの笑み。俺にはそれが、ただ願いが叶わないことを嘆いたのではないように感じた。


 おまじないの大半は効果のない偽物だが本物も確かに存在している。半年の部活を通して何度もこの目で見てきた。

『おまじないは魔法ではない。不可能を実現するのではなく、元々手の届くものを近づけてくれるくらいなんだよ』

 かつて教えてくれた先輩の持論を思い出す。


「……とわ先輩と俺の願いは、手の届かないものってことなんですかね」


 言い終えて考えれば、先輩の願いが何かを入部以来知らないままだ。

 突然、先輩の足がもつれる。まるで俺の言葉に躓いたようだった。


「──っと、危ないですよ先輩。前髪そろそろ切ったらどうですか?」

 華奢きゃしゃな身体を両腕で抱き止める。

 長い前髪のせいで明らかに転びやすい先輩。穴を開けがちだったタイツと膝を守るのも慣れたが、今でも念のため水や絆創膏を常備している。


「ダメだよ。不用意に目を合わせたら魂を奪われてしまうかも知れない」


 身をよじって抜け出した先輩は膨らませた頬をすぐにしぼませて「でも」と不安そうな声音で切り出した。


「……真夜君は、ボクが前髪を切った方がいいと思う?」


「俺は好きですよ、その髪型。当たり前のように見えているものが見えない分からなさがスパイスというか、奥ゆかしい魅力というか──」


「そんなところでいいよ。悪くないならいいんだ」


 ありのままを伝えたが引かれなくてよかった。そわそわと指先で前髪をいじっていた先輩は、ふと我に帰ったように腕を下ろす。


「ところでさ。さっき真夜君はボクらの願いが手の届かないところにあるのか聞いたけど」


 言いかけて川向こうの西へと視線を移す。街並みのシルエットに消える太陽を見送る先輩は、どんな眼差しをしているのだろうか。

 薄くあけた口からは感情が読み取れなかった。


「キミだけは、そんなこと言わないでよ。寂しいじゃないか」


「ごめんなさい。とわ先輩は自分の願いを叶える道の途中で、たくさんの人の力になってきましたもんね。次が先輩の番になるように俺もおまじないの調査頑張りますから!」


 精一杯の笑顔をつくって見せると先輩は口をへの字にした。前髪のすぐ下にある頬はほのかに色づいていたが、目が見えないと怒っているのか泣きそうなのかも分からない。

 何を言えばいいか迷っているうちに先輩はやれやれとかぶりを振る。


「すまない。ボクもちょっと弱気になっていたよ、今のは忘れてくれ」

「ところで、とわ先輩の願いって──」


 小さな唇に人差し指を添える。子どもを静める大人のようでいて、大人から隠れる子どものような蠱惑的こわくてきな仕草が俺の言葉をせき止めた。


「キミには内緒だよ。言わないほうがきっと、叶うんだからさ」

「じゃあ入部の時に先輩に聞かれた俺は一体?」


 微笑みを残して先輩は再び歩き始める。後ろ手を組んで首を大きくひねっても、長い前髪は顔の上半分を明かさない。


「しかしこうも成就しないとなると。いっそ学校の裏山にある赤絲橋あかいとばしでも渡ってみようかな。渡り切ると片想いしている相手から告白されるっていう話は最近でも聞くんだよ」


「ダメです。老朽化で立入禁止ですし、そもそもアレはヤンキーの武勇伝に尾ひれがついただけですって。とわ先輩に危険な真似は断じてさせられません」


「……キミがそこまで言うのなら、仕方ないなあ」


 止められたのにどこか満足そうな先輩を不思議に思いつつ、俺達はそれぞれの家路についた。ようやく取り出したポケットの中の石には油性ペンで『東雲しののめせつな』と書いてある。


 一緒に過ごした期間は一年足らず。もう五年前になる小学生の時のことだ。とわ先輩とは真逆の女の子。ぱっちりした瞳とその目にぴったりな明るい性格が可愛い、朝陽あさひみたいなひとだった。

 隣にいるだけであたたかくて、理由なんてなしに好きになっていて。

 そしてせつなも、俺を好きになってくれていた。

 だけど。


『ごめん。俺はせつなとは付き合えないよ』


『どうしてなの……? マヤはわたしのこと、嫌い?』


『ううん。嫌いじゃ、ない……けど』


 目立たない俺に対して友達が多く、さらに他校に通うひとつ上の六年生。そんな対照的なひとと付き合うなんて想像すらできなかった。

 しかも告白されたのは、せつなが父の仕事の都合で引っ越す直前のこと。連絡手段のない俺が遠く離れたせつなを幸せにできる自信がなかった。

 本当に好きだから、せつなには幸せになって欲しかった。


 でも、告白の返事にそんなことは言えなくて。

 言葉を続けられずうつむくだけの視界に、せつなは鼻をすすってからしゃがんで現れた。

 俺の足首に緩く結ばれるのは一本のミサンガ。


『マヤが、マヤを大切にしてくれるひとにめぐり会えますように!』


 満面の笑顔から流した涙は今でも俺の心のなかで乾かない。


『さよなら、マヤ! ずっと、ずーっと大好きだよ!』


 ミサンガが切れたのは偶然にも高校に入学した日。

 せつなを好きなままでいた俺は切れたミサンガが彼女と再会させてることを密かに期待した。

 しかし願いが叶うことはなく。


 淡い希望を抱いて戸を叩いたのはまじない研究部。

 先輩に入部理由を聞かれた俺は『ずっと片想いしているひとがいる』と適当に話をつけた。


 鉄壁の前髪で隠されたミステリアスな顔と、人より小柄で華奢なアンバランスな容姿。

 子どもみたいな振る舞いのなかでふと見せる大人の仕草。

 昏黄くらきとわという存在は、気づいた時には俺にとってあまりに大きくなっていた。


 せつなにまた会いたいと願って、まじない研究部に入ったにもかかわらず。


 それでも俺はせつなへの想いを手放さなかった。

 せつなの好意と勇気を踏みにじったことへの罰として。

 せつなを好きだからこそ別れを選んだ俺の意地として。





『天野川の水切り石』のおまじないから二ヶ月が過ぎた頃。

 西陽にしびに染まったいつも通りの静かな部室。

 いつも通り俺達に効果のなかったおまじないの調査結果をパソコンでまとめる、いつもの作業のさなか。

 いつも通りに資料を眺めていた先輩が。

 いつもとは違い、ばたと音を立てて分厚いファイルを閉じた。


「ねえ、真夜君」


「ん、何か急用でも思い出しました?」


 ゆるゆると首を振る。長い前髪が下を向く顔すべてを包み隠した。


「ボクは。ボクの願いを諦めようと思うんだ」

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