「どうかしたの、百笑どうめきくん?」


 ぼんやりと考え事をしていると、後ろから優しい声をかけられた。

 まだ荷物も少なく、散乱する私物も埃もほとんど無い八畳間。

 新しい、俺の部屋にて。

 俺は振り返りながら、とりあえず、ばつの悪そうな顔を相手――柚香ゆずかに向けてみる。


「悪い。せっかく来てくれたのに、放置しちまって」

「それは大丈夫よ。今更、間が保たなくて気まずくなる間柄でもないじゃない」

「そっか。捨てたもんじゃねえな、腐れ縁ってのも」

「あら、元よりわたしは、捨てる気なんてないのだけれど?」


 すると戻ってきたのは、どこか本気を滲ませた言葉だった。


「捨てる気なんて無いから――良ければ、聞かせて。いま、何を考えていたのか」

「……別に、大したことじゃねえよ」


 そんな柚香の圧を受けてしまえば、俺も大人しく口を割らざるを得ない。


「知らない環境でもいざ身を置いたら、案外すぐ慣れるモンなんだな、なんて。そんなことを考えてただけだ」


 この街に来てから、明日で早くも一ヶ月が経つ。

 引越しに、新しい職場や住環境への順応。あるいは生活用品を買い揃えたり、近所で気に入りそうな店を探したり……。そんなことをやっているうち、あっという間に時間は流れ、いつの間にか、自分がここに居ることへの納得も覚えてしまっていた。

 前の街を離れがたいと思っていたことが、嘘だったかのように。

 しかしそれも、「ただ生活に慣れたから」だけではないことも理解していた。

 そのくらい、あの街では最後の最後まで、色々な出来事を経験したんだ――。


「ふぅん」


 が、回顧しかけたところで、柚香の意外そうな反応が割り込んできた。


「てっきりわたしは、ミレちゃんのことを考えてると思っていたのに」


 ミレじゃなくてソラだった……という話は、事の顛末含めて既に彼女にも伝えたはずだが、さりとて名付け親に何度もそのことを言うのも若干気まずい。

 名前の訂正は一旦控え、俺は素直にコメントを返すことにした。


「アイツのことはもう、考えるとか考えないとか、そういうレベルの話じゃないからな」


 元の飼い主が見つかって。その家にしっかりとアイツを返せて。

 何もかもが、一件落着して……俺にとっても、悔いの無い決着がついたんだから。

 解決のきっかけが偶然だったとはいえ、全て丸く収まったいまになって追想することなど何も――ああ、いや。

 そこまで考えかけて、俺は一つ、思い出したことがあった。

 この件で、柚香に直接会ったときに訊ねたいことがあったんだ、と。


「なあ、柚香。一つだけ、良いか?」

「なあに? わたしに、答えられることなら」


 お前さ、と。俺は少しだけ声のトーンを落とし、言ってみる。


青葉家あのひとたちがミレを探してたこと、結構早い段階で知ってただろ」



          *



 ほんの少しだけ、柚香はその目を見開いた。

 だが、すぐにまた表情を緩め、それまでと変わらないトーンで言葉を発してくる。


「どうして、そう思ったの?」

「中学生の女の子がいたって話は、したよな。その子、スマホ持ってたんだよ。イマドキの子でSNSをやってない方が考えづらいし、やってんならそこで情報発信しない方がもっと考えづらい」


 愛猫がいなくなるなんて非常事態ならば、なおさら。


「そうかしら? 親に制限されているとか、興味が無いとか、やらない理由は幾らでも作れそうだけれど」

「それに」


 それに、と、反駁しようとする柚香に構わず、俺は続ける。


「家に行った時、母親が言ってた。『娘のSNSで情報発信をしてもらった』って」


 あの時はかなり緊張していたというか、半ば上の空だったからすぐ気付けなかったが……しばらく経ってからようやく、その事実と違和感に気付いた。

 本人たちが自ら迷い猫探しを発信していた。その詳細こそ終ぞ知らないが、情報収集を手伝ってくれた柚香がそれに気付かないことなど、どうしてあり得るだろうか。

 彼女に限って、調査を怠っていたという線もまず考えられない。であるならば、


「ミレを探してる人がいるのを認識しながら、お前は俺に伝えなかった……違うか?」


「――あの日、伝えるつもりだったのよ」


 と。

 ほんの数秒置いてから、柚香は静かに口を開いた。


「あなたが元の飼い主さんたちと偶然出会った、あの夜のうちに。って、いまはもう、言い訳にしかならないけれど」

「……俺に黙ってた理由を、訊いてもいいか?」


「三つ」俺の追及に短く告げたのち、柚香は右手の指を順番に立てていく。


「一つ目は、その飼い主が健全かどうか、深掘りする時間が欲しかったから。自分から逃げ出すような猫ちゃんだもの、虐待されている可能性が無いわけじゃ無かったし」

「別に、会った時だって怪我してる感じじゃなかっただろ」

「暴力じゃなくても、ご飯を食べさせてあげないとか、やりようは幾らでもあるわ。だからこそ、二つ目――百笑くんなら、タイムリミットぎりぎりまでその子を任せられると信じて、黙っていたの」


 確かに、会ったその日は少し元気が無かったし、飯を与えたらがっつくように貪り食っていた。俺はその情報をさらっと伝えただけのつもりでいたが、柚香はその断片だけでここまで見通して、その上で俺を信頼してくれていたという。


「そんなに信用されるようなことしたか、俺」

「……その発言は、心外ね。学生の頃からずっと、わたしの信頼度と好感度をあげまくっていたくせに」


 何故かこの流れでお叱りを受けてしまった。

 本当に、大したことをしてきた自覚は無いんだが。

 そんな俺の様子を目にした柚香が、小さく溜息を吐く。そしてその息の尾を引きながら「三つ目はね」と呟いた。右手の三本の指を、綺麗に立てて、


「ミレちゃんに、あなたを元気にして欲しかったから」

「…………俺、に?」

「意外、なんて顔しないでよ。また上下関係を拗らせて、仕事を休んで、会社を辞めて、気力が減っていくを――たとえ間接的にでも『助けてあげたい』って思うのは、何も、不思議なことじゃないでしょう?」


 柚香はそう、切なげに微笑みかけてくるのだった。

 ほんの僅かに、その瞳を潤ませて。


「……逆にそれで俺が、アイツとの別れをめちゃくちゃに惜しんで塞ぎこみでもしたら、どうするつもりだったんだよ」


 だが俺は、そんな彼女のコウイにも、ぶっきらぼうに返すことしかできない。

 しかし柚香は気を悪くした様子も無く、むしろ嬉しそうに、したり顔を向けてきた。


「その時は、わたしが慰めて再起させてあげるつもりだったけれど?」

「そこまで来たらもう、腐れ縁で済ませられるホスピタリティじゃねえだろ」

「そんななあなあの関係、いざとなれば別にどうなったっていいもの」

「数分前に自分で言ったことをソッコーで蔑ろにすんなよ……」

「でも」


 と、やや引き気味の俺に構わず、柚香は言葉を被せてくる。

 上半身をわずかに傾け、敢えて上目遣いをしてくるようなポーズを取って、


「結果、百笑くんはミレちゃんに救われた。違う?」


 そんな確信めいた問いを、自信たっぷりに投げかけてくる。

 これには俺も、僅かに躊躇うような演技をしながらも「まあな」と答えるしかなかった。だがそのまま終わるのもしゃくだったので、彼女を戒めることも忘れない。


「けど、今回みたいなことはもうすんなよ。ミレがいなくなってる間、あの家の人たちはずっと不安だったんだ……あんな思いは、故意に誰かに与えて良いもんじゃない」


 思い出すのは、最後にアイツと行った、彼岸花の綺麗な公園での出来事。

 大切な人が急にいなくなる苦しさは、誰も味わわないのが一番だ――それが縁の出来た相手なら、尚更。


「……そう、ね。良かれと思って図ったことだけれど、結果的に、酷いことをしてしまったわ。あなたにも、ミレちゃんとそのご家族にも」


 柚香も、俺の指摘で省みるべきことが分かってくれたようだった。先の意地悪そうな表情はなりを潜め、反省するように僅かに項垂れてみせてくる。

 ――だから、俺はそんな柚香へ、こう言葉を続けるのだった。

 じゃあ、と切り出して。その言葉を待ってましたと言わんばかりに――実際その言葉を待っていたから、間髪入れずに、



「じゃあ今度、二人で遊びに行こうぜ。ミレ……いや、ソラんちに」



 そんな提案を、告げる。



          *



『もし、ソラや皆さんが良ければ、なんですが……また、会いに来てもいいですか』


 一ヶ月前。

 別れの場にするはずだった青葉あおば家で、俺はそんなことを口走っていたのだった。

 青葉家の皆さんは――ソラさえも――しばらくは、目を丸くしていた。

 が、やがて娘さんが噴き出したのを皮切りに、皆で大笑い。ソラさえもご機嫌そうな鳴き声をあげ、俺の手をすり抜けて周りをぐるぐる走り出す始末だった。


『私は、賛成。ソラもこんなに懐いてるんだもん、また会える方が嬉しいよね』


 そして、娘さん――姫愛ひめちゃんがそう推してくれたことで、ご両親も同意してくれて。あれよあれよという間に、ご家族三人の連絡先をもらい、「ソラトモ」なるチャットグループにまで招待してもらい……提案した俺が逆に気後れしてしまうほど、あっさりと再訪を快諾してもらえたのだった。

 次は年末にでもと、そんな約束まで取り交わして。


「……そんなことが、あったの」


 実は柚香には、そのことは今日まで内緒にしていたのである。知らせなかったのは、単純にからかわれたくなかっただけだが、


「すまん。お前に隠し事すんな、みたいに言っといて、俺も黙ってたことがあったんだ」

「わたしに怒る権利なんて無いし、別に気にもしていないけれど……へぇ、そうなの。あの百笑くんが、ねえ」


 案の定、それまで若干しゅんとしていた筈の柚香が、再び「にやあ」と笑い出す。

 活き活きと、狡賢そうに。

 まるで、猫が格好の獲物を見つけた時のように。


 一瞬、「やっぱ言うんじゃなかったな」という考えが脳裏に過ったが、後悔先に立たず。大人しく俺は、その場で両手をあげるホールドアップすることにした。


「ぶっちゃけ、自分で自分の発言に驚いたよ。これで綺麗さっぱりおさらば、後顧の憂いなく引越せる、なんて思ってたのに」

「ミレちゃん、もとい、ソラちゃんと見つめ合って、無意識の本音が出ちゃったのね」

「結局、あんだけ強がってたのに、未練たらたらだったっつーことだよ、俺も」


 耳の下あたりが熱くなっている感覚さえあったが、流石にこればかりは悟られるワケにいかない。どうにか不貞腐れた風の自虐演技で誤魔化せないかと思っていると、柚香がニヤニヤ顔のまま、けれどもどこか上機嫌そうに身体を揺らし始める。


「あら、悪いことじゃないでしょう?」

「……なんだよ、不気味だな。『いやでも未練が残るように』とか言ってたクセに」

「その言い方は我ながら、ちょっといじわるだったかも。わたしはこう言いたかったのよ」


 不意に、柚香が立ち上がった。

 ワンピースのスカート部分を手でほろうような仕草をしてから、僅かに膝を曲げ……つまり、チェアに腰掛けている俺と目線を合わせ、


「未練っていうのはいわば、思い出と、縁。百笑くんが、ソラちゃんとの思い出と縁を忘れませんように――そう思って、名付けてあげたのよ」


 今度はより至近距離で、したり顔を再び見せてきたのだった。


「……いやいやいや。絶対後付けだろ、いまのは」

「えぇー。酷いわ、百笑くん。初めから全部わたしの計画通りだったっていうのに」

「そん中の一部はガチで反省してほしい悪だくみだったけどな」

「むー。わたしにも非があるから強く言い返せないけど、未練のくだりは引き下がりたくない!」

「えぇー、お前そんな負けん気キャラじゃねえだろ……」


 ぎゃあぎゃあ、わあわあと、しばらく二人で言い争う。とはいっても、子供同士の喧嘩、あるいは仲の良い猫同士のじゃれ合いのようなもんだが。

 そうしていると、突然、机の上に置いていた俺の携帯が通知音を奏でた。画面が点き、SNS経由の連絡が来たことを知らせてくる。

 相手は、俺や柚香の高校の先輩だった。――すっかり柚香と話し込んでいて忘れるところだったが、今日はその先輩たちや同輩と、我が家で集まる予定だったんだ。

 何を思ったのか、柚香だけやたら早くやって来ていたのだが……と、その柚香もまた、応酬を中断して俺のスマホに視線を落としていた。

 だが、彼女が気になったのは、どうも先輩からの通知では無かったらしい。


「いいわね、その壁紙」


 注目したのは、待受け画面のようだった。

 ソラとの最後の日に、白い彼岸花と並んでアイツを撮った時の写真だった。

 こんなところでも俺の未練が……などと一瞬焦る俺だったが、しかし柚香はもう、からかうようなことはしてこない。すごく良い、素敵じゃない、と何度か呟きつつ、


「まさに、百笑くんとソラちゃんのこれからにピッタリな写真ね」

「俺たちの、これからに?」

「花言葉よ」


 そう言って柚香は、再び俺と目を合わせてくる。



「赤い彼岸花の花言葉は、『独立』や『悲しい思い出』。けれど、これが白い彼岸花になると――『また逢う日まで』って、そんなメッセージになるの」



 ね、あなたたにぴったりでしょう? なんて。

 まるで、我がことのように盛り上がる柚香。


「……いいや。アイツはともかく、俺にはてんで似合わねえよ」


 だから俺は、そう返してやるんだ。

 会社と別れて。街と別れて。

 そんな俺に『また逢う日まで』なんて、不似合い以外の何物でもない、と。

 ……だが、まあ。


「似合わなくても……それを共有できる唯一の相手がソラなのは、悪くないかもな」


 ぶっきらぼうに答えると、また、至近距離で柚香の目と口が半月弓のようになっていく。

 この直後、また俺はやんややんやと言われることになるのだろう。柚香をソラんちに連れて行くの、やっぱやめてやろうかな……と、俺はスマホの向こうのソラに、心の中で泣きごとを向けるのだった。


 画面の向こうからか、外の北の方からか。

 ンナァー、と、彼女の否定なきごえが聞こえた気がした。




〈完〉

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