青葉ソラ。


 それが、の本当の名前だそうだ。

 まあ、少なくとも「百笑どうめきミレ」よりはずっとアイツらしい名前だ――などというのはさておき。

 そんなミレ、もといソラは、あの晩のうちに元の家へ帰ることになった。一方俺はというと、曲がりなりにも愛猫を軟禁していた咎をご家族から責められる……かと思いきや、


『本当にありがとうございます。もうなんとお礼差し上げればよいのか』

『ありがとう、お兄さん。この子をずっと、守っててくれたんだよね』


 などと、コンビニの真ん前で、しきりに感謝されっぱなしだった。

 感謝され過ぎて、かえってきまりが悪いくらいだった。

 だが、流石に向こうもその場で「はいお別れです」とはしづらかったらしい。

 後日改めて、ご自宅――青葉家に招いてくれることになったのだった。

 後日。というか、その出来事から二日後にあたる、土曜日。

 引越しの、前日のことだった。



 その家は少し離れたところにあった。

 例のコンビニからは、歩けば三十分近くかかる場所だ。

 レンガ造りの一軒家。新築特有の匂いと、まだ物の少ない内装が特徴的だった。

 リビングに通され、俺は改めて、青葉家の皆様から――あの時会った娘さんと、そのご両親から事の顛末を聞かされたのである。


「元々はよく、外で遊びたがる子だったの」

「ですが、私たちは先月、こちらに越してきたばかりで」

「我々も慣れない土地で、この子をむやみに外へ出すわけにもいかない。なまじ人好きな猫ですから、まずは彼女より先に、自分たちがご近所さんと仲良くなっておかなければ、と……。しかし、それで家から出さないでおいたのが、間違いでした」


 ある時、三人が出かけようと玄関扉を開けた瞬間、ソラが一目散に飛び出した。後を追いかけようとするも、あっという間に姿が見えなくなってしまったという。

 ……道理で、外出のたびにアピールしてきたり、言うことも聞かずに車から出たりするわけだ。冗談半分で話していた予想が、まさかの大当たりだったとは。

 ともあれそうして、彼女が青葉家を飛び出した翌日。

 外界を満喫しまくったのか、ボロボロになった風体でコンビニに入るところをたまたま俺が目撃し――無責任にも二週間にわたってさらってしまった、というわけだ。


「私たちも、ご近所の人たちに相談したり、娘のSNSで情報発信をしたりしていたのですが……あなたが世話をしていてくださったのは、本当に不幸中の幸いでした」


 事情を聞けば聞くほど、罪悪感が増してしまう。

 あの日ソラと出会った直後に、すぐ警察に連絡を入れていたら。そもそも、見かけた時点で俺が構わず、コンビニの店員にでも任せていたら。この人たちが余計に気を揉むことも、無かったんじゃないのか。


 ――あの彼岸花の中、一瞬いなくなっただけでも、血の気が引く想いだったのに。


 二週間も家族が行方知れずになるなんて、想像するだけでぞっとしない。


「……こちらから飼い主を探そうともせず、申し訳ありませんでした」


 だから俺は、せめてもの贖罪にと、その場で深く頭を下げる。

 座ったままだからどうにも格好がつかないが、そこで娘さんが声をかけてくれた。

 謝らないで、と。


「さっき、お母さんも言った通りだよ。お兄さんのお陰で、ソラは危険な目に合わず、のびのび過ごせたんだから。それに」


 そう、彼女は続けて、


「ソラも素敵な人に匿ってもらえて、本当に楽しかったみたいだし」


 我がことのように微笑んで、俺の足元に視線を向けてきたのだった。


 、俺の足元に。


「……ミレ」


 その背中を優しくさすりながら、正しくない方の彼女の名を呼ぶ。


「なんだかんだで最後の二週間、俺は楽しかったよ。お前も、楽しかったか?」

「ナァ――」


 問うとすかさず、そんな反応が返ってきたから、思わず笑ってしまった。

 たった半月足らずでも一緒に過ごせば、猫の言葉も、なんとなく分かっちまうもんなんだな。

 もっとも、その理解がこれ以上深まることは、もう無いんだが。


『未練なんか残さず、ちゃんとこの街から離れてやるよ』

「……ああ。これで正真正銘、未練も無くなるな」


 いつかそう嘯いた自分の言葉を思い出しながら、小さくそう呟く。

 不意に、彼女が顔を上げ、俺と目を合わせてきた。そのままじっと見つめてきたかと思うと、今後はおもむろに俺の膝上にまでのぼってきやがった。


「お、おい。そろそろ俺も帰るんだ、もうくっつくなって」


 どかそうと両脇を掴んで持ち上げるも、今日はいつも以上に胴が伸び、なかなか離すことができない。むしろ傍から見れば、「たかいたかーい」と遊び始めたようにも見えるポーズを取ってしまった。

 青葉家の人たちも、そんな俺達の滑稽な様子を見て遂に笑い出してしまう。

 恥ずかしいやら、気まずいやら。せめて別れくらいは、爽やかにさせてくれよ――なんて、思わずソラに悪態の一つでもいてやろうと口を開きかけた、その直後だった。


 俺の頭に一つの可能性と、俺の心に一つの我儘が、生まれて。


「なあ、ミレ……じゃなくて、ソラ。それから、青葉家の皆さんも」


 開きかけた口から、気付けばこんな戯れを、口走ってしまっていたのである。


「もし、ソラや皆さんが良ければ、なんですが――」

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