第3話
俺の仕事はあくまで管理なので、個室に引っ込んでいても構わない。
だが、最近は市民の反応を見るために、食堂へ出てその席で食事をとることも多い。
他人に紛れて、文字通り、味もそっけもない肉片――だった固形を咀嚼していると、背後から声をかけられた。
「黒崎さん」
数日ぶりに見るユーグレナは、相変わらずの笑顔である。
「いかがですか、食の管理は。うまくいっていますか?」
「……まあ、これ食っても別に死にたくはならんだろ。食いたくもないけど」
そのあたりが次の課題である。食わなければ人は死ぬので、多少は食いたくなるようにしてやらねばならない。
生物の本能を思えば、生きるために食うことはその行為自体が既に幸福と感じられるようにできている――はずなのだが、俺を含め現在の人類はその辺の本能を失いかけているらしい。
旨くなければ、特に食いたいとは思えない、ということだ。
無言で固焼き糧食をつついていると、ユーグレナは黙って俺の隣の椅子を引いた。
腰かけた少女をちらりと見ると、以前通りの笑顔――の、はずが、微妙に曇っているように見える。
「わたしは」
一言呟いて、そこで言葉が止まった。
ひきつった唇が困ったように震えている。
「あなたは、美味しいものを届けようとすると思っていたのですが……」
「ディストピアなんだろ、味が必要あるか? そもそも前提として、献立に凝った工夫をできるような食材が、ここにはない」
「それはそうですが……食材は、すぐには難しくても、要望をいただければ種類を増やすこともできますし」
「つまり、もっと旨いものを作れってことか? 俺の管理にご不満かよ」
黙ってしまったユーグレナを置いて、俺は席を立った。
■◇■◇■◇■
それとなく周囲に確認すれば、彼女についてはすぐに判明した。
よくも悪くも有名人なのだ。最年少でこの実験に参加した少女は。
ユーグレナは、管理されることこそが幸福――そういう世界を求めて、この実験に参加しているらしい。
ふざけた偽名だと思っていたが、どうやら本名らしいということも。
聞けば、単純な話だった。
愛情も与えてくれない親が、他のものを与えてくれる訳もない。
誰にもなにも与えられなかった彼女は、なにもかもを自分で管理した。
金銭を稼ぎ、こまごまとしたものを用意し、食事を作る――そういった、普通なら子どもはやらないなにもかもを、だ。
当然、子どもがそんなものをすべて取り仕切るなんてのは苦労の連続で――だから、すべての人類は誰かに管理された方が幸福なのでは、と考えた。
滞りのない管理下でこそ、幸せになれるのではないか、なんて。
なるほどな、とは思った。
思ったが、別に、俺がユーグレナに優しくしてやる筋合いはない。
俺は、今だって給料通り滞りなく運営している。
レストランで働いていたときの俺は、確かに食の幸福なんて形のないものを目指すこともあった。
だが、なあ。そんなんじゃ食っていけない。
――そうなんだろ? だから、俺たちの幸福ってのはさ……
■◇■◇■◇■
食堂に来た彼女はまず、室内に漂うカラメルの香ばしいにおいに目を見開いた。
「……黒崎さん、これは」
「いや、まああれだ。労働意欲を高める実験もした方がいいって言われてな。まずは、参考にさせてもらった」
「参考、とは……」
「お前……甘いの、好きなんだって?」
今日の夕食にはプリンが、明日はクッキーが、明後日にはなんとショートケーキがつく。
俺から説明を聞いたユーグレナの頬が一瞬、花びらのように薄赤く染まった。すぐに、さっと顔を伏せてしまったが。
「……わたしの好物ばかり並んでいいのでしょうか」
「別にあんたの好物だから入れたわけじゃない。今まで甘味をセーブしてたからな。あんた以外でもそういうのが好きなヤツにはモチベーションアップになるだろ。そういうのをほら、データ取って研究するのが管理ってヤツだろうが」
伏せた頭の下から、ありがとうございます、とか細い声が聞こえた。
今までの、営業向けに作られた声じゃない。年相応の少女の頼りない声が。
俺は目をそらし、彼女の前を足早に立ち去った。娘のような年の子に優しくして、それで好意を買うなんてまっぴらごめんだ。
だが、この調子ならいつか、彼女の素の笑顔を見る日も来るかもしれない。
■◇■◇■◇■
――ユーグレナが死んだのは、その夜のことだ。
甘いものなど好きでもないとある男が、彼女の望みだけが叶うなどおかしいとからんでいったのだと言う。
軽く押しただけだったのに、羽のように軽い彼女の身体は高層ビルからまっすぐに落下し、地上で鮮やかな赤い花を咲かせた。
実験のことを伏せ、その事件は、不注意による事故として処理された。
俺はそのニュースではじめて、ユーグレナの苗字を知った。
聞いた傍からすぐ忘れてしまったが。
■◇■◇■◇■
夕食の準備を――もう献立も決まっていて、俺自身が手を入れなくてもいい段階にもかかわらず、準備を進めていく。
今夜のメインはステーキだ。肉を焼くだけの料理。だが、油をひいて炒めたにんにくで香りをつけ、塩コショウをまぶしておけば、素人が少々焼き加減を間違えてもうまく食べられる。
肉を柔らかくするため、早めに保冷庫から出して、肉を叩いてやるとなおいい。
どん、と手元のこん棒を、台上の肉に打ち付けた。
どん、どん、と肉を叩くたび台が揺れる。
揺れる台の上を、ユーグレナの顔がちらついているような気がする。
馬鹿馬鹿しい。通りすがりの少女だ。俺のせいで死んだだなんて、俺は思ってもいない。あの子がかわいそうだなんて。好物ひとつ好きに食べれないで、なにが理想の社会だなんて。
どん、どん、どん。
なんのために俺は食事を作るんだろう。
決まってる、自分の食事のためだ。
作らなきゃ食えない。金を稼ぐ方法を、俺はこれしか知らない。
食うために稼ぐ、食うために作る、食うために――
――誰のための料理だ、これは。
俺は、こん棒を宙に放り出した。
ごとん、と大きな音が響いたが、怒鳴り込んでくるような相手もいない。
キッチンの奥で、今夜のスープがぐつぐつと煮えている。
いつか冗談半分で手に入れた毒薬が、今、俺の手の中にある。
独特のアーモンド臭がきついしろものだが、おかしげな食事に慣れたこの都市の奴らは、疑いもせずに食べるだろう。
出されたものを、ただ消化してエネルギーに変えるためだけに、奴らはここに集まってくる。
誰もかれも、明日生きるためだけに、口を開けやがる。
……そうさ、俺もだ。
俺だって、生きるためだけに生きて来たのさ。
なんだか笑い出したいような気持ちで、俺は瓶のふたを開けた。
明日のユーグレナ 狼子 由 @wolf_in_the_bookshelves
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