明日のユーグレナ

狼子 由

第1話 

 玄関扉を開けたが誰もいない。確かにチャイムが鳴ったと思ったのに。

 おかしいな、と首を傾げつつ視線を下げた途端、作り笑顔とぶつかった。


 濃い色のワンピースを着たいたいけな少女――小学生高学年というところか。

 少女は、表札に向けていた視線を俺へと移し、計算されつくした角度で小首を傾げた。


「こんにちは、黒崎さん。突然ですが、わたしと一緒に管理社会を運営してみませんか?」

「間に合ってます」


 話の内容を理解したわけじゃない。舌足らずな声で紡がれる完璧なセールス口調が胡散臭かっただけだ。

 即答して閉めようとしたが、時すでに遅し。

 割り込んできたタイツの太腿が、扉の動きを阻んだ。


「いたっ」


 わざとらしい悲鳴と共に、少女は伝線したタイツを見せつけてくる。

 タイツの下では柔らかそうな肌が擦れ、血が滲んでいた。


「困りました……こんな格好では人前にも出られません」

「いや、それくらいたいした――」

「お兄さん、一人暮らしですよね? こんな姿にされてしまって、わたしが今、悲鳴をあげたらどうなってしまうんでしょう?」

「悲鳴って……」

「きゃー、襲われるー?」

「あばばばばばっだっ……静かに!」

「では、傷の手当てをしたいので、お邪魔しますね」


 ――俺の負けだった。


■◇■◇■◇■


 そんな経緯で、タイツをはき替えた少女と向き合って、コーヒーを飲んでいる。

 せめてもの嫌がらせでコーヒーはブラックのままだ。だが、粉多めのドス黒い泥のようなインスタントを、少女は顔色一つ変えずに飲み干した。


「ところで実はわたし、こういうものでして」


 マグカップから顔を上げ、すっと名刺をすべらせてきた。


「……ディストピア製作委員会、主任事務取扱代理担当ユーグレナ?」

「親しみを込め、ゆんゆんとお呼びください」


 笑顔ばかりでなくなにもかも嘘くさい。

 そんなミドリムシみたいな偽名の、バレないはずがあるもんか。

 思わずじろりと睨みつけたが、ユーグレナ――死んでもゆんゆんなんて呼ぶもんか――の表情は変わらなかった。


「わたしたちは今、管理社会を作っているところでして」

「管理会社?」

「いいえ、管理・社・会。いわゆるディストピアです。実験の一環で」

「なんだそれ……勝手に作ればいいだろ」


 じりじりと前のめりになるユーグレナに対し、思わず俺は背をそらした。

 そらした分だけユーグレナが割り込んでくるので、結局のところ互いの距離は変わらないが。


「作るのはいいんですよ。でも、作りっぱなしなんて無責任じゃありません?」

「は?」

「作った社会を運営してくださる方を募集していまして」


 どうです、あなた――なんて甘ったるい声に誘われたところで、普段の俺なら頷きはしなかったはずだ。

 だが、残念なことに今日の俺は普段とは違っていた。

 ちょうど昨日、これまで働いていた会社に辞表をぶん投げてきたところ。

 晴れ晴れして気が大きくなっているのもあるし、明日からの生活に――いや、正しく言えば生活費に不安があった。


「それって、もちろんお金がもらえるんだよな?」

「そうですね、毎月の固定額に加え、滞りなく運営していただくと歩合給が加算されまして、まあ……」


 ポシェットの中から、大きめの電卓が滑り出る。


「年俸は概算これくらいでしょうか」


 薄桃色の指先で、パチパチと音を立てはじき出されたその金額は、俺の首を縦に動かすのに十分な桁だった。


■◇■◇■◇■


 連れてこられたのは、空想の未来都市みたいな場所だった。

 空中に浮かぶ透明のチューブはどうやら電車の線路のようなもので、たくさんの乗客をスムーズに運ぶべるし、電線も電柱も見当たらない道路は地中を通して燃料供給をしているのだという。

 材質もわからない建材の、つるりとした高層ビルが立ち並び、その隙間を埋めるように緑地がちらりとのぞく。

 高層ビル群の中でも最も高い一角に陣取って、俺たちはその都市を見下ろしていた。


「さあ、黒崎さん。ここがあなたのオフィス兼自室になります。寝室はそちら、トイレとお風呂はこっち。食事は……申し訳ありませんが、他の皆さんと同じものを食べていただきます。室内にキッチンはありません。共同食堂の脇のキッチンを使ってください」


 ここまでの道のりで、自動車、新幹線、電車、そしてまた自動車と何度も乗りついできた。途中から目隠しをされていたこともあり、ここが何県何市にあたるのかはまったくわからない。

 わかっているのは、ここが管理社会――の、大掛かりな実験施設の一つであるということ。

 そして、賃金は日払いで請求することができるてことだけだ!


「いやあ、助かったよ。貯金もなくて、ほんとに明日からどうしようかと思ってたから」

「存じております。その状態でも退職してしまえるほど勇気のある方をわたしたちは求めていましたので」


 頷くユーグレナの笑顔は、相変わらず判で押したようだった。

 聞けば、彼女自身もこの都市で実験に参加しているらしいが、都市内の仕事の一環で外部からの勧誘を任されているのだとか。

 どうやら訪問販売じみた、各戸を順番に手あたり次第回っていた訳ではなく、ある程度調べてから俺を狙って来たのだと、ここまで繰り返されたやりとりで薄々気付いてはいた。が、突っ込んだところでいつも、のらりくらりとかわされるのだ。


 なぜ俺なのか――その疑問に、今の答えはヒントをくれた。


 再び、周囲を見まわす。

 ガラス張りの最上階オフィス。そこから見下ろす、清潔この上ない都市の光景は、無機質だが整頓されていて心地よい。


 想像していたよりずいぶん広い。

 見渡せる範囲だけでも、道路には、規則正しく行き来をしている歩行者たちがいて、その人数と都市全体の広さから概算すると、住民は数千人をくだらないのではないか。


「なるほどな……この都市を運営するってのは、骨が折れそうだが」

「はい、わたしもすべてを黒崎さんにお願いしようとは思っていません。共同作業で、それぞれの分野を最適に管理していただこうと思っておりまして」

「共同作業?」

「黒崎さんには、『食』の管理をお任せしようかと」


 傾げた小首のあざとさのまま、ユーグレナは微笑みを浮かべた。


「まさか、この人口規模の料理をぜんぶ一人でやる訳じゃないだろうな?」

「それは無理ですね。市民の中から料理人として働くものを数名供出します。あなたと違って調理については素人ばかりなので、頼めるのは定型の仕事だけでしょうが」

「それは」


 細められた目の奥にどんな感情があるのか、俺にはどうしてもわからない。

 辞表を叩きつけた職場は、とあるレストランで、昨日まで俺はそこのチーフシェフだったのだ。

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