怖がりな“私”が赴任先の学校で出会ったのは不気味な人形でした

 全体を通してダイナミックな展開こそありませんが、等身大の経験に基づく話だからこそ揺さぶられるものがありました。

 幼い頃から怪談の類が苦手である「私」が図書室の司書として赴任した先で出会った人形マリーちゃん。その不気味さに怯えながらも、「私」は子供たちに対してよき「先生」であり続けようとする日々が続きます。

 話が大きく動いたのは五話目であり、レビュー投稿者がいちばん感動した場面でもあります。学校で飼っていたメダカが亡くなってしまい悲しむ子供と墓を作ろうとする「私」。墓の作り方を知らない子供に変わり、かつて学校の飼育係だった頃の朧気な記憶を懸命に手繰って弔いを手伝おうとする姿勢に心打たれました。

 投稿者もかつて生き物を飼っていて、またその死を看取ったという経験。これをきっかけに「私」が先生として、先を生きるものとしての自覚をもって子供たちとマリーちゃんに接するようになるという成長。
 どれも感動した点に相違ないですが、中でも投稿者がひときわ印象に残ったのは、「私」がかつて同じように生き物を弔ったことをその時まで忘れていたこと。そしてともに祈る子供を見て「この子も私と同じように今日の出来事忘れたりするのだろうか」と思いを馳せていた部分です。

 端的に言ってしまうと「思い出は褪せること」に切なくなったのです。泣くほど悲しいことであっても忘却を免れることはないのだと無常さに胸が痛みました。けれど子供の弔う気持ちを無下にしたくない、曲がりなりにも先生としてありたいという願う「私」は、それでも確かに在りし日の記憶を微かに思い出していたのです。
 墓標とは死者を悼むものでありながら、生者が亡くなった者の存在を心に蘇らせるための標でもあるのだと思いました。そう考えると「私」がこの子供にした行いはとても意義あるものだと感じられ、その後の恐怖心を克服した「私」がよりいっそう頼もしく思えました。

 長くなり過ぎたのでこの辺りで筆を置こうと思います。読んでいない方は是非読んでみてください。

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