3 


 霧に誘われるように、佳代子は咲き乱れる花をながめながら、ゆっくりと進んでいく。


 あれ、季節はいつだったっけ? チューリップが咲き、ヒマワリが咲き、コスモスが咲き、ポインセチアが咲いている。春も夏も秋も冬も、一緒くたに咲いている。


 やがて佳代子はバラ園に辿たどり着いた。大輪小輪、色も様々なバラと、かぐわしい香りに包まれる。


『やぁ。やっとここに来たね』

 頭の中に直接、話しかけられたように感じた。声がした方を見ると、あの美容師だ。すぐ後ろには助手もいる。でも、違う、二人とも別の人だ。あの美容師と助手だけど、別の人だ。だってここは、だもの。


「あなたは誰?」

『ボクは渡鳥ペレグリン。世界のどこにでも行ける。キミを連れて行ってあげるよ』

美容師の別人が言い、それを助手の別人が受けて語る。

『ペレグリンはハヤブサ。ハヤブサは世界を巡る。世界を巡る太陽神ホルス

「ホルス……」

『キミの本当の願いはなぁに?』

ホルスが美しい微笑を見せて佳代子に問う。


 私の願いは何だろう? 私は何を望んでいるのだろう? 疲れ切ってしまって、何かを願う事も、求める事も忘れてしまった。


『迷い人は、やはり迷い人だね、隼人』

 助手の別人の声がボンヤリ聞こえる。

『迷い込んだのは霧のせいだよ、バンちゃん。街に発生した霧と、庭を満たす霧が同化して、境界を曖昧にしてしまった。だから迷い込んだんだよ』

『どちらにしろ迷っているね』

『そうだね。道が見えずに迷っているね』


 そうか、ホルスの名はハヤト、助手の名はバン。夢の中でもちゃんと名前があるのね。うつろな意識の中で佳代子が思う。

「名前が欲しいわ」

『名前? 今の名前は嫌い?』

「いいえ、嫌いじゃない。変えたいとも思わない。でも、【なまえ】が欲しいと思ったの」


 霧が流れているのが見えた。風が吹いているわけでもないのになぜ? 佳代子が思う。

(それに……この霧はわたしの頬を撫でている)


 ハヤトを見ると、佳代子にニッコリと笑顔を見せた。

『お望みの場所は、あなたのすぐ近くに。いつもあなたを励ましてくれるその場所に、店を出たら電話することです。あなたの願いが何なのか、必ずあなたは知ることになる』


 ハヤトの傍らに、ドアの前で見たティーテーブルとチェアが現れた。


『ハーブティーをどうぞ』

 バンがポットを持ち、カップにお茶をそそいでいる。

『本日はカモミールティーでございます』

バンが口元を動かすことなく言った。


 気が付くと佳代子は座ってカップを手にしている。

『いい香り……』

差し込んだ陽光が暖かく、まぶしく……


(差し込んだ?)

 目の前のガーゼが外されて、目の前に助手が見えた。周囲は闇の壁に閉ざされた空間、スポットライトのように照らされて、傾斜屋根の窓からも陽が射している。


 助手が佳代子の髪をタオルで包み、

「おつかれさまです。椅子を起こしますね」

と言うと、頭の後ろが支えられ、背もたれが上がってくる。背もたれが上がり切ると、目の前には鏡があり、自分の姿が佳代子に見える。佳代子の横には美容師が映っている。

「どのようにカットいたしましょう?」

美容師が言う。


 わたしはこの人の名前を知っている。でも、なんという名前だったっけ? 鏡に映る美容師の顔を眺めながら佳代子は思う。

「わたしに似合う髪型をと、お願いしてもいいですか?」

「かしこまりました」

美容師が優しい頬笑みを浮かべうなずく。


(そうだ、わたし、夢を見ていた。いつの間にか眠ってしまった。でも、どんな夢だったか思い出せない)

 鏡の中の美容師は、器用にハサミとコームを使い、佳代子の髪を切っていく。時折、小首をかしげける仕種がなんだか小鳥みたいで可愛い。そんな事、思っちゃ失礼かしら、そう思いつつ、つい笑みを浮かべてしまう。


「どうかなさいましたか?」

「いいえ、なにも。こちらにお願いしてよかった、と思って」

「それはようございました。いらした時よりお顔の色もよろしいようで。少しはお疲れが取れましたか?」

「えぇ、とても」

「ハーブのお陰でございましょうね」

「美容師さん、よかったらお名前を教えてくださいません?」


 すると鏡のなかに助手が現れた。美容師に何か耳打ちして、後ろに下がった。

「お客様、申し訳ございません。少々、お待ちください」

と、美容師は鏡の中から姿を消した。


 後方から声がする。今度予約が空いているのは何日先だ、と美容師の声がし、それに助手が答えている。判りましたと助手がいい、美容師が鏡の中に戻ってきた。


 今度はハサミではなくドライヤーを手にしている。

「乾かしてまいります」

温かい風が吹き、またもうっとりと心地よい。

「もう眠っては駄目ですよ」

美容師がクスリと笑った。ハッとして美容師を見ると、ドライヤーが終わっていて、美容師の姿もない。その代わり助手がいて、上っ張りを外しにかかっている。パラパラと、髪の切れ端が床に落ちる。襟に巻かれたタオルを外されている間、佳代子は鏡に映る自分を眺めた。


「後ろのほうはこのようになっております」

 美容師の声がして、鏡のなかで、鏡を持った美容師を佳代子が見る。合わせ鏡には佳代子の後頭部が映っている。


 髪の長さはたいして変わっていない。色もそれほど変わらない。だけど、軽やかで、程よく華やいで、まるでカモミールの香りのように爽やかに仕上がっている。


「えぇ、素敵だわ。こんなに素敵にしていただけるなんて」

「本来のお客様を引き出せるよう、工夫いたしました。気に入っていただけて、ようございました」

「あの……代金はいかほど?」


 美容師が首を傾げる。あ、この仕種、知ってる。小鳥みたいだ。佳代子はそう思った。何度もそう思った気がする。

「お会計はドアのところでおたずねください。本日はありがとうございました」


 鏡の中から美容師が消えた。あっ? と周囲を見渡すと、急に照度が下がったようで、出口のほうしか見えない。そこに立った助手が

「こちらでございます」

と、佳代子に言った。


 佳代子は椅子から立ち上がる。そして足元に、さっき落ちたばかりの髪の切れ端がない事に気が付く。シャンプー台もどこにも見えない。でも、どうでもいいや、と思った。そんな細かなことを気にしていたらキリがない、そう思った


 出口の周囲は明るかった。スポットライトが部屋の中央からこちらに移動したように感じる。佳代子は助手が手にした自分の上着に袖を通し、バッグを受け取った。

「お会計ですが、最初にご説明差し上げたとおりです。よろしいでしょうか?」

「はい」


 助手は会計皿を両手で持って佳代子に言った。

「もし、お気に召さなければ、お支払いいただかなくても差しつかえございません」

「いいえ、いいえ、ちょっと待ってね」

慌てて佳代子はバッグから財布を取り出し、いつも美容院で支払う料金より多めの金額を会計皿に置いた。それでも少ないと思っているのに

「お釣りはいかがいたしますか?」

と、問われ、いりません、と首を振った。

「ありがとうございます」

そう言った助手の手から会計皿が消えている。


「公道に出たら左にお行きください。すぐ駅につくでしょう」

 ドアを開けながら助手が言った。何か聞き忘れたような気がしたけれど、それが何かを思い出せないまま佳代子はドアの外に出た。

「ありがとうございます」

助手の声を後ろに聞いて煉瓦れんが敷きのアプローチを進む。霧はうっすらと、少しは薄くなってきたようだ。


 公道に出ると、左に曲がった。

(あ……)

忘れていた、電話しなくちゃ。無断欠勤してしまった。


 急いでスマホを出して、勤務先の同僚に電話する。わたしが一番 頼りにしているあの人。いつもわたしをかばってくれる人。でも、昨日、私のミスに激怒した人。


 するとすぐに相手が出た。

「佳代子さん、良かった、連絡ついて」

「え?」

「無断欠勤なんて、佳代子さんがするはずないと思って、何度も電話したけど、出なくて。心配していたんです」

「わたしの事を心配?」

「昨日のこともあるし……」

「あ、あれは、わたしがいけなかったの。わたしのミスなの」

「いえ、僕も不注意でした。それにあんな言い方をしちゃいけなかった」


 ホントに使えない、昨日、わたしはそう言われたんだった。

「あんなこと、同僚に言うべき言葉じゃない。すごく反省しているんです。許してください」


 同僚……そうだ、わたしはこの人の『同僚』だ。


「あの時、佳代子さんの泣きそうな顔を見て、なんでこんなに大事だと思っている人を泣かせたんだ、って、そう思ったんです」


 大事な人……大事な仕事仲間、わたしにとって大事なこの人は『大事な人』だとわたしを思ってくれている。


「え、っと、なんとか言ってください。僕は、僕は……」

 もう一つ、わたしには名前はつきそうだ。『同僚』『大事な人』そしてもう一つは何だろう? 一番欲しかったものかもしれない。


「明日はちゃんと行きます」

 そう答える佳代子の声に、電話の向こうにいる人の顔はきっと明るくなっただろうと佳代子は思った。


 そう言えば、美容師さんの名前を教えてもらっていない、それにオリジナルシャンプーの販売はしているだろうか? あの香りを家でも楽しみたい ――


 電話を切った佳代子は慌てて来た道を引き返した。けれど、イングリッシュガーデンも、アプローチの入り口の看板も、佳代子には見つけられなかった。もう霧は晴れていた。




「バンちゃん、コーヒーれて」

「はい、はい、はい」

 美容室ペレグリンの入り口前の小広場のティーテーブルで隼人が騒ぐ。


「もう、疲れたっ! なんでこんな疲れる事、ボクにさせるんだよっ! バンちゃん、どういうつもりっ!?」

いや、僕に言われても……美容室をやりたいって言ったの隼人じゃん。


「それじゃ、もうやめる?」

僕の言葉にムッとした隼人がほほふくらませる。


「バンちゃん、ちゃんとお砂糖、五個入れてよね! ミルクはたっぷりだからね」

どうやら隼人はまだまだ美容師ごっこをめる気がないらしい。仕方ないから僕も付き合うことになる。


 確かに今日のお客は疲れた。あんな至近距離で目をのぞき込んだのに、一向いっこうに眠らなかった。吸血しない吸血鬼の僕、神通力が使えなくなったのかな?


 隼人がブラッシングしても眠らなかった。眠っていない人の頭の中に入り込むのは危険すぎる。精神を崩壊ほうかいさせかねない。染料を渡した時、イライラした隼人が、思わずため息をついたのには笑っちゃったけど。


 あのお客、迷いに迷い、眠る事にも迷っていた……そして『生きること』にすら迷っていた。それを感じたから隼人は、予約がなくても『いいから店に入れて』と言ったんだ。


「はい、角砂糖五個、ミルクポーション三個入り」

 隼人の前にカップを置いた。すると隼人は僕を引き寄せる。フワッとした感触がして、隼人が僕の耳元でそっとささやいた。


「うん、それは、そうだね……夕飯を食べてからにしよう」

そう答えると、隼人が嬉しそうに頬を膨らませる。


 隼人が僕になんと囁いたのか、それは隼人と僕、二人だけの秘密――



< 完 >

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迷い人は眠らない 寄賀あける @akeru_yoga

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