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 疲れた顔をしている。毎日毎日、同じことの繰り返し、何の変化もない。与えられた仕事をこなし、身に覚えのないミスを叱責しっせきされ、味気のない食事を取り、ただ泥のように眠るだけ。なんでこんな生き方になってしまったのだろう。


 昨日は心の支えを失った。唯一のなぐさめがわたしの物ではないのだと知った。わたしに生きる意味はあるのだろうか?


 社会人になった時は、新生活に心を時めかし、自分の可能性に夢を見てた。でも、もう、どんな夢を見ていたかさえ思い出せない。


 鏡に映る自分の顔はどことなく老けたように見える。老けた、違う、疲れているだけ。髪もなんだか草臥くたびれている。


 どうするか聞かれ、思わずカラーと言ったけれど、思い切ってカットも頼もうか? そう考えた時、案内をしてくれた男が戻ってきた。


「施術のご用意をさせていただきます」

 黒いタオルを襟元えりもとに巻かれる。

「あの……カラーだけでなく ――」

「申し訳ございません、お客様。ご要望は全て美容師がうけたまわりますので」

佳代子の言葉をさえぎって、男は黒い上っ張りを、腕を通すようにと広げてくる。


 そうね、直接美容師さんに言った方がいい。男は佳代子の身支度を進めると、光が届くギリギリの端に下がり、控えるように立った。


「いらっしゃいませ」

 不意に聞こえた声に佳代子が驚く。

「本日はいかがいたしましょう?」

いつの間にか、鏡の中の佳代子の後ろに立つ人がいる。肩に届くストレートの黒髪、前髪は真っ直ぐに切りそろえられている。服装は案内をしてくれた男と同じだ。


(綺麗な人……)

 うっかりすると見惚みとれてしまいそうだ。でも、そう、右の目はイエロー、左は……灰色? 知らなければ振り向いて、じっと見て確認するという不躾ぶしつけなことをしてしまったかもしれない。


「カラーをお願いしたのですが、カットも追加できますか?」

「もちろんです。カットとカラリングですね」

鏡の中でオッドアイが微笑む。そしてブラシを取り出して、佳代子の髪にあてる。

「ブラッシングいたします」

ブラシを髪にすべらせながら、美容師が問う。

「お色はどのようにいたしましょう」


 せめて髪の色くらい明るくしたい。でもあまり明るすぎるのは嫌。無理して明るくしていると思われたくない。

「少し明るくしてください」

「かしこまりました」


 ブラシは柔らかく、優しく髪を滑る。心地よさに目を閉じたくなるが、閉じたら眠ってしまいそうだ。


 丁寧ていねいなブラッシングが続く中、案内をしてくれた男 ―― 多分助手だ、が小さな容器を持って美容師の横に立った。美容師は小さな溜息ためいきくと、ブラシを助手に渡し、容器を助手から受け取った。


「お色をってまいります」

 え? いつの間にか美容師の手には手袋がかぶせられている。染料を手に付けないためだろうけれど、めるところを見ていない。ブラッシングの前からしていたのかしら? 手袋は、あの看板と同じ黄色だ。


(あら……温かい)

 カラリングの染料は、いつも最初はヒヤリとする。塗られていくうちに感じなくなるけれど、常温だから頭皮に触れれば冷たく感じる。


 どうやらこの美容室では温めてくれているようだ。他では感じたことのない心地よさを感じる。温めてあるだけでこんなに違うのね。佳代子はまた、目を閉じたくなる。それほど心地よい。


 そう言えば、カラーの確認をしなかった。よく、色見本を見せてくれて、これくらいの色にと指定したりするけれど、ここではそれがなかった。美容師さん、センスにも自信がおありなのね。心の中で佳代子は微笑んだ。


 オッドアイだけど、まるでモデルか何かみたいな容姿のこの美容師は、技術とセンスが申告通りなら相当の売れっ子美容師になるだろうに。オッドアイだと雇ってくれる美容院がなかったのかしら? そんな事はなさそうなんだけど。


 それともこの人自身が拒んだのかしら? オッドアイがコンプレックスなのかもしれない。容姿に難あり、って言っていたっけ……


「美容師さん?」

「……はい、なにか?」


「こちらのお店、お席は一つだけのようですが、美容師さんはお一人?」

「さようでございます。1日1名様、ご予約限定でお請けさせていただいております。本日はご予約いただいておりませんでしたが、たまたま空いておりました。これもご縁かとお客様をお通ししたのです」


「そうだったのね」


 美容師は無口と言っていた。人と接するのが苦手なのかも。だから1日1名。それがやっとなのかもしれない。でも、それで経営は成り立つの?


 佳代子はこの美容室の庭を思い出す。いくら郊外とは言え首都圏でこの規模の土地が安いはずがない。もともとお金持ちなのかもね……


 染料を塗り終わったようで、美容師は佳代子の髪をラップで包み込んでいる。ガラガラと音がして、グルリと回るヒーターが後ろの方から進んでくる。助手が押してきたのだろう。


「少し温めさせていただきながら、お時間を置かせていただきます。リラックスしてお過ごしください」

 美容師が佳代子の視界から消えた。


 美容師は男なのか女なのか、どっちだろうと考えながら、どっちでもいいや、と佳代子は思う。声は男のようだけど、あの程度なら低めの女声と思えなくもない。見た目だけでは判断のつかない事は世の中、沢山あるものだし、きっと大抵の事はどうでもいい事だ。


 そう、もう、何もかもどうでもいい ――


「お薬を流させていただきます」

 急な声にハッとする。既にヒーターは片づけられて、鏡に映るのは自分と助手の男だけだ。


「椅子を倒します」

 えっ? ここで? と思った時にはどんどん背もたれが倒れていく。頭の後ろを支えられ、されるがままにしているうちに椅子が止まり、首筋に硬いものが当たる。その硬い物も温かい。顔にガーゼが被せられ、視界がさえぎられる。


「お流しいたします」

声は助手ではなく、美容師の声だった。頭を包むように腕を回されたとき、何かフワッとした感触がして、美容師は女性なのかもしれないと佳代子は思った。


(気持ちいい……)

 シャワーが止まり、ポンプを押す音がして、何かいい香りが漂ってくる。すぐにシャンプーが始められる。


「いい香りですね」

「当店のオリジナルです。庭のハーブ園のハーブを使っております」

 会計の時、シャンプーの値段を聞いてみよう。買える値段なら、欲しいと思った。香りに包まれるだけでも疲れが取れていく気がする。


 シャンプーが洗い流され

「軽いマッサージの後、トリートメントいたします」

と、美容師が言う。

「トリートメントは頼んでいませんよ?」

「当店の標準メニューでございます ――トリートメント剤を付けたあと、しばらくミストで温めてまいります」


 すると、蒸しタオルが首の後ろに差し込まれた。これもまた何とも気持ちいい。ミストの発生も始められたのだろう、顔に被せられたガーゼの隙間を通って、霧が立ち込めるようだ。


 何分そうしていただろう。霧の立ち込める花畑を佳代子は歩いていた。あぁ、わたし、夢を見ているんだわ、佳代子がそう思った時、遠くで

「やっと眠ったね」

「しっ! まだ夢の入り口だ。静かに」

助手と美容師の声がかすかに聞こえた。


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