グエン・3
***
ニアーダ暦五三四年(帝国暦一八一年)二月
「では、本日はこれにてお開きということで」
グエンははっと目を見開いた。格子窓の隙間を縫って、夕暮れの光が鋭く室内に差し込んでいる。
文官や客人が次々に議事室から出て行く。鮮やかな青いヒオラを着た女性がグエンの目の前に立った。どこか猫に似た大きな眼が、じろりとグエンを睨む。
「居眠りしてたでしょう。あなたが呼びつけたくせに」
そうだった。国民の教育について意見交換の場を持ちたいと、
「ごめんよ、エナ」
眉間を揉みながら、グエンは素直に謝る。
「まあ、無理もないけど。今朝ユーゴーから帰ってきたばかりなんでしょう。そりゃあ疲れるよね」
第一王子たるグエンに気安い口を聞くこの女性は、エナ・ソアント・キューアン。
「バライシュの乱」の英雄シシーバと、ジュディミス王子の姉ナジカ姫の長女であり、グエンとは親戚関係にある。十二歳も年下だから、年の離れた妹のようなものだ。
エナは「親のない子をたくさん育てたい」と望んでいた父の遺志を継いで、母ナジカとともに孤児院を開き、子どもたちに教育を施している。
「それで、どうだった? ユーゴーは」
「とんでもなく大きな国だった。豊かだし、人も多いし、お城もうちとは比べものにならないほど立派で堅牢だ。その気になれば、うちなんか簡単に潰せるだろうな。それに……」
グエンは第三皇子ハーレイの姿を思い浮かべた。
たどたどしいニアーダ語で密かにアテュイスの消息を伝えてきた彼のほうが、酒に酔って暴れる兄上よりも立派な皇帝になりそうだ。そのほうがニアーダにとっても都合がいいかもしれない。
「それに?」
「いや」
アテュイスの消息は、聞かなかったことにするという約束だ。
「母上はお元気かい?」
「すこぶる元気よ。毎日子どもたちみんなのの様子を見て回ってる。まるで車椅子のほうが母に動かしてもらってるみたい」
「それは良かった」
グエンは微笑んだ後、しばし言葉を継ぎあぐねて視線を彷徨わせた。その脳裏に止めどなく蘇る記憶は、先ほど見た夢の続きだ。
「どうしたの? まだ眠たいの?」
エナが怪訝そうに首を傾げる。
グエンはあの夜、エナの父シシーバと言葉を交わしたのだ。
チュンナクが立ち去った後、客間の中では惨劇が繰り広げられていた。覆面の男たちが、銀髪の客人ひとりに一斉に襲いかかったのだ。
固く目をつぶっていても、激しい剣戟の音と繰り返される断末魔の悲鳴、鼻をつく血の臭いからは逃れられなかった。
さらに増援が現れた頃、グエンは壺の裏から飛び出した。壺が落ちて割れていたら気づかれたかもしれないが、そうはならなかった。
堪えきれずに、廊下の隅で胃が空になるまで吐いてしまった。早く城に戻りたかったが、足が震えて走れない。泣きながらとぼとぼと廊下を歩いていると、向こう側から男の人がものすごい勢いで走ってきた。よほど急いでいたのか、着衣がひどく乱れていた。彼は何度も、「バライシュ」と叫んでいた。
その人はグエンと目が合うなり尋ねてきた。
「君、バライシュを見なかったか? 背の高い、銀色の髪の男だ」
相手がチュンナクの息子だとは気づかなかったらしい。グエンはさっきまで自分がいたほうを指さした。
「ありがとう。君は、早くここから逃げたほうがいい」
彼はグエンの肩を強く揺さぶると、腰に帯びた剣を抜きながら走り去っていった。
その人がシシーバ・ダラハット・キューアンだと知ったのは、すべてが終わった後のことだった。
「グエン?」
エナには父の記憶がない。「バライシュの乱」で父が亡くなったとき、彼女はまだ赤ん坊だった。この話を彼女にするべきかどうか迷い続けて、もう二十年以上も経ってしまった。
あのときグエンがバライシュの居所を教えなければ、エナは父親を亡くさなかったかもしれない。いや、チュンナクがバライシュを陥れようとしたのがいけなかったのか? アテュイスが圧政を敷いたせいか?
いずれにせよ、グエンにはエナに負い目があった。
父や伯父の罪ではない。「王」の罪だ。ならば次代の王になるグエンの罪でもある。王とは個人を超越して、連綿と続いていく存在なのだ。
「少し、昔のことを思い出してたんだ。……『バライシュの乱』のときだ。ユーゴーとは、いつかまた戦わなければならないかもしれない。でもあんな風にチェンマの街が焼けるのは、二度とごめんだな」
結局、また話さなかった。
「あなたも戦争をする気なの? 伯父様みたいに」
「どうしても必要ならね」
眉をひそめるエナから目を逸らし、グエンは立ち上がった。
彼女は多くのニアーダ国民同様、アテュイス王は暴虐の限りを尽くした挙句にユーゴーに叩きのめされた愚君だと思っているのだろう。
けれどもいまもニアーダ王国は存在する。かの帝国に呑み込まれることなく。あの常人離れした伯父が巡らせた深謀が、国家の命脈を保ったのだ。
そして彼の跡を継ぐのは父王チュンナクであり、グエンであり、子どもたちであった。
「……何でもするよ。この国の人たちを守るためなら死んでもいい」
僕も伯父貴に似てきたな、と思う。誰よりも高貴な身分は、結局そのためにある。
突然、エナに思いきり背中を叩かれた。痛い。妻以外の女性に触れられるのは久しぶりだった。
「立派なご覚悟で何より。でも、まずはよく休んで。どれだけこの国が良くなったとしても、そのためにあなたが死ぬのは嫌だな」
その言葉は、グエンの心に温かな光を灯した。
「いまの、ちょっとときめいちゃった」
「馬鹿じゃないの」
冗談はさておき。
「エナ、ありがとう。……いつか僕の出番が回ってきたら、今以上に力を貸してくれると助かる」
立ち去ろうとするエナに声をかけると、彼女は振り返りもせずに答えた。
「内容による」
グエンは苦笑して、エナの背中を見送った。
だんだん肌寒くなってきた。西日が沈んでいくせいなのだろう。
あの太陽の向こうで、アテュイスは生きている。祖国を遠く離れたいまも、きっと彼はこの国の行く末を考えているのだろう。それが彼のすべてだ。
いまはまだ耐えるとき。払暁のときはいつか来る。
そのときはここからはるか西へも、暁天の光が届くだろう。
――伯父貴よ、せいぜい長生きするがいい。
西方に背を向けて、グエンは議事室を後にする。長く伸びる影が、彼よりも少し前を歩いていた。
***
ニアーダ歴代国王の中で、チュンナク王と並んで人気が高いのがグエン王である。彼はチュンナク王の政策を引き継ぎつつ、学問を奨励してニアーダ全土に小学校を作らせ、国民皆学を果たした。
エナ・ソアント・キューアンも、グエン王の支援を受けて「ソアント校」という学校を孤児院に併設した。現在のソアント大学の前身である。
また、グエン王はユーゴー帝国の間接支配からの脱却にも心血を注いだ。帝国内部で内紛が起きると、機を逸さずキンドウ・クノッセン両国を促して開戦させた。
ニアーダ暦五百七十三年にユーゴー帝国は滅びた。ニアーダが完全なる独立を果たしたのを見届けてから間もなく、グエン王は七十五歳で亡くなった。伯父のアテュイス王より、五年早かった。
外伝集 暁天/払暁Ⅱ 泡野瑤子 @yokoawano
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