グエン・2

 ***


 ニアーダ暦五一一年(帝国暦一五八年)十一月二十七日

「バライシュの乱」当日


 この日チュンナクは妻子に、朝のうちに銀杏殿を離れて城に泊まるようにと命じていた。昼から大切な客人が来るので、警備をそちらへ回さなければならないのだと。当時は摂政アテュイスの治世下でチェンマの治安も悪くなっていたので、万一に備えてということらしい。

 グエンも母と妹と一緒に、いったんはニアーダ城へと向かった。

 だがグエンには、どうしても気になることがあった。

 ――「大切な客人」なら、なぜお城で迎えないのだろう?

 ニアーダ城には王族が客人を迎えるための部屋がいくつも用意されている。銀杏殿にも客間はあるが、警備を気にするならニアーダ城のほうが安全だ。

 グエンは少し前から父の様子がおかしいことに勘づいていた。

 父がタオスの街に出かけると、翌朝はいつも酒臭かった。でも近ごろは、その匂いがしない。父はいったいタオスで何をしているのだろうと疑問に思っていた。だからこの日も、父が何かを隠しているのではないかと疑ったのだ。

 鳴りを潜めていたいたずら心が、危険な好奇心に化けた。

 ニアーダ城に到着して昼食を摂った後、グエンは頃合いを見計らって用を足すと言って母と妹と別れた。そしてこっそり番兵の詰所へ行き、一番優しそうな若い兵士に声をかけた。

「銀杏殿に、だいじな絵本を忘れてきちゃった。あれがないと夜眠れないから、取りに行きたいんだ。兵隊さん、一緒に行ってくれない?」

 精一杯子どもらしく微笑みかけると、兵士は「お安い御用ですよ」と言ってくれた。

「お母上のお許しは出ているんですよね?」

「もちろんだよ」

 兵士は馬を出し、グエンを乗せて銀杏殿へ連れて行ってくれた。兵士を外に待たせて門をくぐるが、寝室には戻らず門の柱の陰で目立たぬようじっと待つ。しばらく経った後で、

「待たせてごめん、絵本をどこに置いたのか忘れちゃった。すぐには見つからなさそうだから、兵隊さんはもうお城に戻っていいよ。夕方には大人のひととお城に戻るから心配しないでって、母上に伝えて」

 そう言うと、兵士は一も二もなく信じてくれた。

 実際、グエンも「客人」の正体を見極めたら、夕方には城に戻るつもりだった。

 グエンは銀杏殿の中に忍び込んだが、増員された警備兵など見当たらなかった。普段は忙しく廊下を行き来している使用人さえも見かけなかった。やはり父は、何かを隠していると確信した。

「客人」はもう来ているはずだ。廊下を進むと、昨日まで客間の中に置いてあったはずの大きな白磁の壺が、なぜか客室前の飾り棚に移動させられていた。隣国キンドウの名工の手による芸術的価値の高いもので、チュンナクが特に気に入っているものだった。

「すみませんね、兄貴が遅れてて。まあお茶でも……」

 聞き耳を立てると、中からチュンナクの声が聞こえてきた。

「兄貴」とはアテュイスのことだ。彼も呼ぶのなら、それこそニアーダ城のほうが適切な場所ではないのか。

「いえ、ジュディミス王子も遅れていますので、ちょうどよかったかもしれません」

 低くてよく通る声。「客人」は大人の男性のようだ。

「デュイコラの丈が合わなかっただなんて。いやあ、ジュディミスも成長しているんですねえ……」

 ――ジュディミス王子って、確か僕が生まれる前に、土砂崩れに巻き込まれて亡くなったはずじゃ?

 グエンは息を呑んだ。

 その後チュンナクと客人が語った内容から察するに、祖父であるホルタ王はすでにジュディミス王子に王位を譲るつもりで、アテュイスを政治の第一線から退かせたいと考えているようだった。「大切な客人」とはこの後現れるジュディミス王子であり、この会合はアテュイスに引導を渡すためにお膳立てされた場なのだ。

 ――父上が、伯父上を裏切ろうとしている?

 あり得ない、とグエンは思った。

 チュンナクはアテュイスを尊敬しており、悪い評判が聞こえてきても「兄貴も頑張ってるから」と兄をかばうのが常だった。あれは全部嘘だったのか?

 いつの間にか、廊下に冷たい風が吹きつけるようになっていた。日が落ちたのだと知れた。

 ふと、廊下の向こうから近づく足音が聞こえた。グエンは慌てて飾り棚に登り、壺の陰に身を隠す。

 視界の端で、何かがきらりと光った気がした。かと思うと、覆面をした男たちがぞろぞろと白刃を携えて現れたのだ。

 これはいったい、何なんだ? 目の前で起きていることは、すでにグエン少年の理解を超えていた。

「さて、いくらなんでも遅すぎるから、ちょっと城に使いを出してきますよ」

 いやに大きなチュンナクの声。短いやり取りの後で扉が開き、群れた覆面の男たちが客室に入っていく。

 その隙間から客人の姿が見えた。銀色の短髪と白い肌、青い目が驚きで見開かれている。顔貌は西方人のようだが、ニアーダ人と同じトガラを着ていた。

「……最初から、こうするつもりだったのか?」

「ううん、違うよ」

 父は一度客人へ向き直った。

「最初は約束通り兄貴に会わせてあげるつもりだったよ。でも……やっぱり僕には無理だった。だって、兄貴はもう少しで王になれるんだもん。本当はジュディミスも一緒ならよかったんだけど、まあいいや。君さえいなくなれば、ジュディミスも諦めてくれるよね」

 おそらくは部屋の中の客人に少し遅れて、グエンも何が起きているのかを理解した。なぜ母や妹と一緒に城へ行けと言われたのかも。

 父はアテュイスを裏切るふりをして、この客人と「ジュディミス王子」を謀ったのだ。

「ジュディミス王子は、あなたを信頼していたんだぞ」

「……泣いていた僕を慰めてくれたのは、いつも兄貴だった。君たちにとっては確かにひどいやつかもしれないけど、僕にとってはたった一人の兄貴なんだ。ごめんね。本当にごめん」

「チュンナク……!」

 客人の叫びを無視して、父は誰にともなく、ぞっとするほど冷たい一言を放った。

「僕の家、あんまり汚さないでね」

 客室を後にする父の顔を、グエンは盗み見た。

 そして初めて思ったのだ――伯父上にそっくりだ、と。

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