グエン

グエン・1

  ニアーダ暦五一○年(帝国暦一五七年)十一月


 父のチュンナク王とともに後世のニアーダ国民に尊敬される名君グエン王は、子どもの頃から非常に頭脳明晰で神童ぶりを発揮していたが、一方で大のいたずら好きでもあった。

 夜な夜な当時の住まいだった銀杏殿いちょうでんから脱走したり(どこかで聞いた話だ)、「お腹が痛い!」と嘘泣きをして勉強をずる休みしたり(チュンナクが贔屓していた俳優も顔負けの名演技だった)、妹のスリナ姫の寝床に蛙を入れたり(気づかずに背中で踏んづけた妹君は、かわいそうにその日から蛙が大の苦手になった)、多くは幼稚ないたずらだった。

 大人たちは必ず一度は叱るけれども、すぐに許してしまう。グエンにはどことなく愛嬌があって、憎めないところがあった。

 だからグエンは調子に乗って、またいたずらをする。その繰り返しだった。

 ただし、十二歳の秋にお城へ遊びに行った際、父チュンナクの執務室に忍び込んで大切な書状に墨で落書きをしたのはいささかやり過ぎだった。その書状はチュンナクではなく、当時摂政だった伯父のアテュイスが書いた予算執行の許可証だったのである。

 グエンはめったに怒らない父にこっぴどく叱られたうえ、罰として銀杏殿で一番暗くて寒い北側の小部屋に閉じ込められた。

 チュンナクは一晩そこで頭を冷やせと長男に言いつけた。一晩待たずとも、引き戸の外でがちゃりと錠がかかる音がした瞬間には、グエンの頭はもうすっかり冷えていた。

 父上がこんなに怒るなんて、とんでもないことをしてしまったに違いない。さしものいたずらっ子も、このときばかりは深く反省した。

 ところが、扉は思いのほかすぐに開いた。

 膝を抱えて震えていたグエンは、鼻を垂らしたままそこに立っている人を見上げた。

 アテュイスだった。

 グエンはこの美しい伯父のことが苦手だった。どことなく人間離れしていて、近寄りがたい。遊んでもらったこともなかった。父とはまったく似ておらず、本当に兄弟なのかと疑ってしまう。病弱な祖父の代わりに彼が行っている政事まつりごとが、厳しすぎて評判が良くないことも知っていた。

 伯父はわざわざ忙しい政務の合間を縫って、銀杏殿まで顔を出したのだ。きっとひどく怒られるのだろう、と思っていた矢先、

「かわいそうに、寒かったでしょう。早く暖かい部屋へおいでなさい」

 意外にもアテュイスは、冷たくなったグエンの手を両手で包み込んでくれた。

「怒らないの?」

「怒りませんよ」

 可愛い甥のすることと受け止めてくれたのだ、とグエンが喜びかけた瞬間、アテュイスはこう続けた。

「あなたはチュンナクの次に国王になる人ですから。こんなところに閉じ込めて、悪い風邪にでもかかっては大変です。私の書類など、作り直せばよいだけのこと」

 伯父の笑顔は美しかったが、グエンは余計に震え上がった。

 幼くても聡明だったグエンには、直感的に分かったのだ。

 ――この人は、僕をただの道具としか見ていない。……いや、僕だけじゃない。父上のことも、自分自身でさえも、この国を運営するための道具でしかないんだ。

 その日から、グエンはいたずらをやめた。

 周りの大人はグエンが心を入れ替えたのだと思っただろうが、それは違う。大人たちがみんな結局許してくれるのは、単に自分が王位を継ぐ人間だからなのではないかと疑って、急に恐ろしくなったからだった。

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