シンディ・2
「これは、ある人からある人へ送られた手紙に使われている文字を、使用頻度の高い順に書き写してきたものです。長らく何語なのか分からなかったのですが、ようやく、ニアーダ南方に住んでいたコーク族が使っていた文字ではないかと分かりました。私たちはずっとこの文字を読める人を探していて、……それで、あなたのところへ辿り着いたのです」
帝国の襲撃で滅びたコーク族の生き残りで、同族とつるまずに孤独に生きている――つまり、情報を漏らす心配のない人間。
ジュリアは、まさに適任だった。
ふうん、と鼻を鳴らす老女は全然気乗りしない様子である。
「その手紙、どこにあるか?」
「あいにくお見せすることはできません。読み方と一部の単語を教わって、私たちで翻訳します」
手紙は持参しなかった。何が書かれているか分からない手紙を、外部の人間に訳させるわけにはいかない。そもそも、もし嘘の翻訳を伝えられても確かめようがないのだ。
「ずいぶん蛇がいい話ね」
彼女はニアーダ語の慣用句を間違えた。
「私、お役人さんに、協力する。お役人さん、得する。私、何になる?」
「もちろん、謝礼はお支払いします」
「そういう意味じゃないね」
ふとジュリアの目の奥が鋭くなった。
意味は分かっている。「虫がいい」、つまりユーゴーの役人が、ユーゴー軍に故郷を滅ぼされ、家族を殺されたジュリアに、何の情報も与えずにただ協力せよと言う傲慢を責めているのだ。
彼女は穏やかだが、確かに怒っている。そしてその怒りは、いま真っ直ぐシンディに向けられていた。
シンディは当惑のあまり目を逸らしてしまった。
何もかもシンディが生まれるより前の話だ。両親だってまだニアーダにいた。気の毒だが、俺を責めるのはお門違いだと言いたくもなる。
――ユーゴーの暴虐を責められるときは、ニアーダ人になるんだな、俺は。
ユーゴー人にもニアーダ人にもなれる、どっちつかずの中途半端な男だ。ジュリアが心を開いてくれるはずがない。
だからといって、このまま引き下がるわけにはいかない。彼女が唯一の頼みの綱なのだ。
「……帰るがいい。私、協力する気、ない」
まだ空になっていない茶碗を引き取り、コーク族の老女はシンディに背を向けてしまった。
「その手紙は、アテュイス王から何者かに宛てて書かれたものです」
意を決して――半ばなげやりに、シンディは機密の一端を明かした。
ニアーダ王にすら、アテュイス王の消息を伝えていないのだ。本来ならばこんなところで明かすべきではなかった。それでも、ジュリアの協力を得るためには、こちらも精一杯の誠意を見せなければならないと思ったのだ。
「半年前に起きた塩田一揆をご存知でしょう。ミジェでも塩の値段が高騰して、あちこちで暴動が起きましたよね」
シンディの脳裏に、あの一揆で落命した軍務大臣ライサンダー卿の顔がよぎる。
なぜあんなに立派な方が、あんな場所で死ななければならなかったのか。もっと早く手紙を解読できていれば防げたかもしれないのに。
こみ上げてくる悔しさを、唇を噛んでこらえる。
いまさら遅すぎるかもしれない。それでも、この仕事はやり遂げなければならない。
「……もしかすると、あの一揆にもアテュイス王が関わっていたかもしれません。それを確かめるために、彼の手紙を解読する必要があるのです」
アテュイス王が母語であるニアーダ語ではなくわざわざコーク語で書いたのには、それなりの理由があるはずだ。おそらく暗号代わりだろう。コーク語は、いまでは読める人間がかなり少ないから。
「よく分からないね」
老女は壁を向いたまま、残った茶を飲み干した。
「お役人さん、ニアーダ人ね。ニアーダ人、ユーゴーが弱る、嬉しい。違うか?」
「いいえ、こんな外見でも、私はユーゴー人です。ユーゴー外務省の役人なんです! 陛下と、陛下の
言葉とともに、ようやくシンディの腹が据わった。
自分が何者なのか、自分で決めた瞬間だった。
「……同時に、やはり私はニアーダ人でもあります。私がハーレイ一世陛下にお仕えするのは、陛下がこれまでの皇帝陛下とは違う方だと感じたからです。陛下は、ユーゴー人だけでなく、この国で生活するニアーダ人も暮らしやすいようにとお心を砕いてくださっています。ですから……」
そこまで言って、シンディは息を呑んだ。
ジュリアの目から、涙が一筋流れ落ちたからだった。
「すみません、つい感情的に……」
大失敗だと思った。初対面からいきなり泣かせるなんて。
日を改めて出直すべきだ。シンディはノートを片付けようとする。その手を老女の小さな手が引き留めた。
「……違う」
彼女は涙を拭いながら微笑んだ。開いた頁を撫でつけ、順番に文字を指さす。
ア、エ、エイ、イ、オ、ウ。
最初に並んだ六文字は母音だ、と彼女は言った。残りの文字が子音で、コーク語は母音と子音を組み合わせて表記するのだ、と。
「たとえば、私の本当の名前は、こう」
指が辿る文字を、シンディも一緒に読み上げた、
サ、エ――サエ。
美しい響きだとシンディは思った。
ジュリア――サエの教えてくれる発音を聞き漏らさないように、ひとつひとつ書き留めていく。大きな前進である。
コーク語はひどく古くさいニアーダ語のようなものだから、発音が分かればいくつかの言葉は見当がつくこともあるだろう、とサエは言った。
「それでも分からないは、また聞きに来るがいい」
「ありがとうございます」
シンディが謝礼金の袋を取り出すと、サエは遠慮なくそれを受け取った。
「特別ね。お役人さん、私のお父さんに似てる、思ったから」
それがシンディにコーク語を教えてくれた理由らしい。
最初は断ろうとしたのだから、似ているのはきっと顔ではないのだろう。シンディの熱意が伝わったのなら、サエの父親も、真面目に職務を遂行しようとする人だったのかもしれない。
「それに、お金ももらえるね。まさか、コーク語で稼げるなんて」
袋から金貨を取り出して、サエはそっと唇を寄せる。
「センリにも見せてやりたかったね」
生き別れた夫の知らぬところで、彼女はぺろりと舌を出した。
***
シンディ・ナーダックは、ユーゴー帝国崩壊後にポトラント王国の初代首相に就任したことで後世に名を残しているが、一方でコーク語研究の第一人者としても知られている。
彼の死後、自宅の書斎から見つかった研究ノートは、今日では話者がいなくなったコーク語を世に伝える貴重な資料となった。
しかし、彼がいったい誰からどのようにしてコーク語を学んだのかは、歴史の渦の中に紛れて定かではない。
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