シンディ

シンディ・1


 帝国暦一九九年(ニアーダ王国暦五五二年)九月

 

 ユーゴー帝国外務省の若きニアーダ担当室長、シンディ・ナーダックは、この日初めて工事中のヴィーゼン人街区を訪れた。

 ヴィーゼン人街区の整備は、皇帝ハーレイ一世肝煎きもいりの都市計画事業であった。西の隣国ヴィーゼン王国は、ここ数年工業技術の発展がめざましい。そこでヴィーゼンから技師を招聘しょうへいして、ユーゴーの商工業を発展させようというのである。だが、最近ではミジェの治安が悪化し、この近くでもたびたび暴動が起きていて、工事は予定よりひと月以上遅れていた。

 帝都ミジェには珍しく、残暑の厳しい日だった。

 街区の整備はまだ道半ばで、あちこちが工事中だが、すでに街ゆく人からヴィーゼン訛りの帝国共通語がちらほらと聞こえる。ユーゴー人の土木作業員たちも、移住してきたヴィーゼン人たちも、髪と肌の色素が薄い。暑い暑いとぼやきながらスコップを振るう男たちの顔は、みな真っ赤に焼けていた。

 ニアーダ人を両親に持つシンディだけが、木綿の平服に汗染みを作りながらも平然としている。黒髪と太陽に染められた小麦色の肌は、本来もっと暑い国で生きるための身体なのだろうと彼は思う。

 区画整理が終わっているのはほんの数区画ばかりだ。さらに進めば無計画に建てられた家々が複雑な路地を形作っている。この辺りにも、近々退去命令が出るだろう。

 シンディは鞄から地図を取り出した。軍務省に用意してもらったものだ。何度も袋小路に迷い込みながら、ようやく目的の家に辿り着いた。

 見るからにみすぼらしい家だった。煉瓦と土の壁にはひびが入って黒黴くろかびが生え、玄関先には湿っぽさとどぶ臭さが漂っている。

 こんなところに住んでいるのは、帝国政府から高額な俸給を与えられているヴィーゼン人技師ではない。

〈お客さん。珍しい〉

 錆びた呼鈴を鳴らす前に、中から声が聞こえてくる。下手な帝国共通語だった。

 シンディが一言断ってドアを開けると、薄暗い部屋にひとりの老女が座っていた。

 彼女の名はジュリア。ユーゴー風の名前を名乗っているが、ニアーダ人からの移民なのは髪と肌の色を見ればひと目で分かる。今年三十三歳になるシンディの母親くらいの年齢だろう。小柄だったが、背筋はしゃんと伸びていた。

「ニアーダ人のお客さん、もっと珍しい。入って。ニアーダ茶、あるよ」

 シンディの顔を見ると、ジュリアはニアーダ語に切り替えた。ニアーダ語も、あまり上手くない。

 お気遣いなく、とシンディが答える前に、ジュリアは立ち上がってガラス瓶に入った緑色の液体を茶碗に注ぐ。

 正直こんなところで出される茶など飲みたくはなかったが、少しも口を付けないのは失礼だ。シンディは丁寧に礼を言いつつ、内心は恐る恐る茶碗を手に取った。

 茶碗を鼻先に近づけたとき、シンディは上等な花の香りに思わず目を見開いた。

「いい香りでしょ。うちの子、ときどき、送ってくれる。この国で手に入るニアーダのもの、お茶くらい。……でも、私、お茶、嫌い。いっぱい飲んでいい。大丈夫、水、きれい。お腹、こわさない」

「……では、お言葉に甘えて」

 シンディは流暢なニアーダ語で答えた。改めて茶を口に運ぶ。外から入ってくる悪臭が邪魔をしているが、茶自体は質のよいものだと思った。

「お茶を送ってきてくれるなんて、優しいお子さんですね」

「そう。結婚して、遠くに行った。でも、仕送りしてくれる」

「ジュリアさんは、この国には長いんですか?」

 本当は知っているのに、あえて尋ねた。

「そう。もう、ずっとね。若い頃から」

 ジュリアはにこにこ笑う。シンディがそれとなく促すと、彼女は機嫌良く身の上話を始めた。

 幼い頃、ユーゴーとの「戦争」で住んでいた村が滅ぼされたこと。

(実際はユーゴー軍の一方的な侵攻だったが、少なくとも彼女はそう表現しなかった)

 一度チェンマに避難し、そこで夫と出会ったけれど、結局チェンマに住めなくなって(理由は語らなかった)元の村に帰ったこと。

 そこでまたユーゴー軍との「戦争」に巻き込まれて、夫と生き別れてしまったこと。

 その後でお腹に子どもがいると分かったこと。

 出産後、夫を探してミジェに移住したが、まだ再会できていないこと――。

 波瀾万丈の人生を、ジュディはあっけらかんと語る。生き別れた夫の話をするときは、まるで初恋に胸を躍らせる少女のように見えた。

「素敵な方だったんですね」

「王子様だったね」

 シンディはそれを、単に大げさな比喩表現だと思って笑った。

「それで、お役人さん。御用は何?」

 正体を見抜かれていた。役人らしい格好はしてこなかったのに。ましてシンディはニアーダ人だ。

 ジュリアはかつて家族を二度もユーゴー軍の侵攻で失っている。ユーゴーの役人というだけで、追い返されるかもしれないと思った。だからユーゴー人の部下に任せるのではなく、彼女と同胞のシンディが平服を着て、直接足を運ぶことにしたのだ。

 ――「同胞」か。俺はユーゴー人なのに、こういうときだけ「ニアーダ人」になるんだよな。

「簡単なこと。他の客、来ない。来るなら、『そろそろ立ち退け』言ってくる人だけ」

 苦い思いを隠してうつむくシンディを尻目に、彼女はけらけらと陽気に笑う。

「ニアーダ人の、役人もいる。知ってるよ。うちの子も、城で働いてたことある」

 なるほど、とシンディは深い息を吐いた。

「確かに私は役人ですが、退去をお願いしに来たわけではありません」

 シンディはようやく自己紹介をした。

「この文字の読み方を、教えていただきたいのです」

 鞄からノートを取り出す。

 開くと、シンディにとってはまったく意味不明だが、ジュリアには見覚えがあるはずの文字が並んでいる。

 ニアーダの言葉だが、ニアーダ語ではない文字。

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