***

変わらない日常


「トモならどうしてほしいの?」

 受け取った玉ねぎを切りながら、しばらく考えた末に口を開くと、今度は少年――息子が「えっ?」と聞き返す。

「もしもトモがコウタくんの立場なら、みんなにどうしてほしいって思う?」

 こういうことは私じゃなくて、彼――丈に相談したほうが腑に落ちるアドバイスをくれる気がするが、あいにく当の本人は昨日から高熱を出して寝込んでいる。

 おかげでこんな、逃げるようなことしかできなかった。

 情けないな、母親なのに。

 落胆するあまねの隣で、灯希はそれでも、思いを巡らすように天井を見上げる。

「そうだな。僕なら、いつも通りにしててほしいかな。いつも通りおはようって言って、いつも通り勉強して、いつも通り遊んでたら、寂しさは消えないかもしれないけど、死にたいとは思わなくなりそう」

「そう。じゃあ、そうしてあげればいいんじゃない?」

 返しながら、息子の答えに、これまた丈が言いそうなことだなと思った。この子はたしかに、彼と血を分けたのだ。

 ひとりで感慨深くなりつつ、切り終えた玉ねぎを鍋に入れたとき、玄関の開く音がして「ただいまー!」とはつらつな声が響いた。

 そのままダイニングの出入り口からひょっこり顔を覗かせたのは、娘のさちだ。

「あー! ママ、今日の夕ご飯カレーなの? サチもお手伝いしたかったぁ」

「ブッブー! シチューです。それすら言う間もなく、ランドセル玄関にほっぽって、モエちゃんちに遊びに行っちゃったのはどこのだあれ?」

 自業自得なのに、何かと手伝いたい年頃の彼女は「ぶぅ」と不満げに頬を膨らます。残念ながら、野菜の下ごしらえが済んでしまったので、子供たちの出番は終わりだ。

 とはいえ、これで引き下がってくれる娘ではない。あまねはやれやれとため息をつき、

「しょうがないわねぇ。荷物片付けたら、パパに新しい冷えピタ、持ってってあげて?」

 別の任務を課すと、彼女は「はーい」と気のいい返事をして、さっそく冷蔵庫を開けた。

「こーらサチ。荷物片付けたらって言ってるでしょ?」

 すかさず注意するが聞く耳を持たず、冷却シートを片手に、あまねと同じくひとつに結った黒髪を揺らしながら「後でちゃんとやるからー」なんて言い残して奥にある寝室へ駆けていく。

「まったくもう……」

 数年前から、もうあのマンションには住んでいない。幸加が保育園に入るとき、双方の実家の近くに二階建ての一軒家を建て、同じ時期に、あまねは思いきって派遣だった会社の社員になった。

 そうして家計を支えているのはあまねであるにもかかわらず、「ローンかぁ。また死ねない理由が増えちゃったな」なんて笑っていたくせに、丈は近頃、頻繁に体調を崩すようになった。幸加の小学校入学を見届けて、気が緩んだのだろうか。

「にしても、パパってよく風邪ひくよね」

 傍らで、切った野菜の皮を捨てながらふいに灯希が呟いた一言に、キリリと胸が痛んだ。

 ――ちくわがいない毎日なんて耐えられない。

 私も、丈がいなくなったとしたら、後を追いたくなるのだろうか。

 ……なんて、そんなことできるわけがない。

 私は彼を巻き込んで、こんなにも素敵でかけがえのない未来を作ってしまったのだから。最後まで責任を取らなければ。

 向き合うときがきたら、ちゃんと向き合う。

 ただ、それまでは、もうしばらく。


 *


 かわいらしいノックで目が覚めた。

「はーい……」

 音からして子供たちだろうと思い、丈は少しばかり優しげな返事をする。

 すると、娘の幸加がドアからひょっこり顔を覗かせた。

「大丈夫? パパ」

 そう言って駆け寄ってきた愛娘の片手には、新しい冷却シートが握られている。

「これ、ママが持ってってあげなさいって」

 さも頼まれたかのように言うけれど、どうせまた何か手伝いたいと駄々をこねたのだろう。

「ん、ありがとー。サチ」

 丈は体を起こし、新しいシートを受け取って貼りかえ、

「じゃあ、これをママに」

 ぬるくなった古いものを幸加に手渡す。

 本当は部屋にあるゴミ箱にでも捨ててしまったほうが早いのだが、これも娘の「お手伝い欲」を満たすための、ちょっとしたひと手間なのだ。

「らじゃー!」

 満足そうに笑って、幸加は走り去っていく。

 たったそれだけで、熱に火照った体がふっと軽くなった気がする。

 家族の笑顔は、何よりの特効薬だ。

 遠ざかる足音に耳を傾け、再びベッドに横たわりながら、丈は思う。

 もうすぐ死ぬ。

 当時片想いしていた女の子――今は妻である彼女に、そう打ち明けてから、気づけば十年が経った。

 大人にすらなれないと思っていた自分が、今や父親だなんて。

 彼女とともに生きることで、絶対に寿命が延びている。

 でも、この度重なる体調不良が、ただの風邪ではないということを、いつか子供たちにも伝えなければならない。

 特に灯希は聡いから、すでに何か勘づいているかもしれない。思えば赤ちゃんの頃から、何かと敏感な子だったし。

 でも、そのタイミングは今じゃない。まだ何も、終わりには向かっていないはずだから。

 今はまだ、この希望と幸せに満ちた、何気ない日々を噛みしめていればいい。

 あまねもきっと、そう言うだろう。

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最期の時まで、君のそばにいたいから 雨ノ川からもも @umeno_an

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