第3話 反吐が出る
「あー、可笑しかった」
杏ちゃんはまだケラケラと笑っている。
「何がそんなに面白いのよ」
一番端のカウンター席に座りながら、隣に座っている杏ちゃんを横目で睨みつけた。
「桃の反応」
即答する杏ちゃんにカチンとしてしまう。
「杏ちゃんね!だいたい……」
わたしのことを笑うためにここに連れて来たのかと文句でも言おうと口を開いた時だった。
「あ!よかったぁ!!来てくれた!!
杏ちゃんは、喫茶店に入ってきた四十代くらいの女性に向かって手を振りながら声を上げた。
「桃はここで薫さんの飲み物が来るの待ってて!私、愛月さんのところに行ってくるから」
「え、ちょっと、待っ」
杏ちゃんはわたしの言葉を最後まで聞かず、愛月さんという名の女性のところへと駆けて行った。
なんなの。連れて来たくせに、一人にするとか。
イライラモヤモヤしながら、一人でいると薫さんがグラスを持って現れた。
「桃夏ちゃん、おまたせっ!アイス・カフェ・ナポリターノよ」
「アイス、カフェ……?」
薫さんがそう言ってわたしに差し出してくれたグラスには、アイスコーヒーの上に、たっぷりの生クリームが盛られ、輪切りのオレンジが美味しそうに飾られてあった。
「飲んでみて」
薫さんは、にこにこと微笑みながら、先ほどまで杏ちゃんが座っていた席に座った。
「いただきます」
「どーぞ、召し上がれ」
そんなに見られると緊張するんだけどな……と思いながらもわたしはグラスに挿してあるストローに口をつけた。
「……おいしい」
「でしょ」
最初に口の中に広がったのは、コーヒーの苦みではなくオレンジの爽快感とほどよい酸味のある甘さだった。そのあとからコーヒーの苦みが追ってくる。
苦みと言っても、優しい、ほろっとするような苦みだった。
「こんな美味しいもの初めて飲みました」
「ふふ。コーヒーにブラッドオレンジジュースとオレンジシロップが混ざってるの。意外と合うのよ、コーヒーと柑橘系」
薫さんは、楽しそうに笑った。
「杏、アイドルみたいでしょ」
二人の間に少し沈黙が流れたあと、薫さんはゆっくりと口を開いた。
「……そう、ですね」
なんとか声を絞り出し、再びストローに口をつける。カラ、コロと氷が音を立てた。
喫茶店の中にいる人たちはみんながみんな杏ちゃんに声をかけている。
それに対して杏ちゃんは「久しぶり~」だの「元気だった?」だの返した後、「そのリップの色やっぱり似合ってる」「そのオレンジメイクと白ワンピの組み合わせ最高」などと会話しては、話した人の顔をだんだんと綻ばせていく。
杏ちゃんが通ったあとは、花が咲いたようだ。
――――ここでもなんだ。
杏ちゃんはどこにいたって、いつだってその場の空気を掴んでしまう。
わたしの家族だけじゃない。
なによ、杏ちゃん。
こんなところに連れて来たって余計にみじめになるだけじゃない。
杏ちゃん、薫さん、そして、高坂くんの恋人である真鈴ちゃん。
美しい人は、存在するだけでその場の空気を掴んでしまう。色めきだつ空気へと一瞬で変えてしまう。
いいな、美人は。
クラスで浮くことも、陰キャと呼ばれることも、仲が良いと思ってた人から酷いことを言われることも、失恋することも、きっとない。
わたしが美人だったら、こんなに傷付くこともなかったのかな。
わたしも、もっと目がぱっちりしてて、鼻も高くて、顔も小さくて、そばかすもニキビもなくて、何を着ても似合うスラッとした体型で。
美人だったら。
美人だったらもっと人生楽しく生きられるかもしれない。
もちろん、美人だって傷付くことがあるのは、頭ではよく分かっている。
杏ちゃんが傷付きながらも、今の生き方を選択したことだって間近でちゃんと見てきた。
なのに、どうしても、美人だったらと思ってしまう。羨んでしまう。妬んでしまう。
心に現れた黒い雲は、もくもくと大きくなっていく。
あぁ、わたしってなんでこんなに性格悪いんだろう。
顔どころか性格まで……。
黒い雲は、止まることなくわたしを覆い尽くしていく。
「桃夏ちゃん」
薫さんに名前を呼ばれたことで、黒い雲の中から、現実へと意識が戻る。
「コンプレックスと向き合いましょうって言葉、あるじゃない?」
わたしは、薫さんのその言葉に体が強張るのを感じた。
あまり、この手の話は好きではない。
なぜ、今、わたしにそんなことを言うのだろう。
まるでわたしの心の中を読んだかのように。
やっぱり、パーカーを被ったままにしておけばよかった、と膝上の拳をぎゅうっと強く握りしめる。
「私ね、その言葉をきくたびに反吐が出るの」
予想もしていなかった言葉が耳に入り、拳から薫さんへと視線を移す。拳も自然と緩んだ。
目が合うと、薫さんは表情を柔らかくして言った。
「みんなと仲良くしましょう、自分から進んでみんなの輪の中に入りましょう、とかも同じ。全部反吐が出る」
それは全部、先生や親戚のお姉さん、おばさんたちに言われてきた言葉だった。
「それを言う人たちって、それがいかにも正しいみたいに言うでしょ。コンプレックスに向き合きあいましょうっていうのも、そもそも向き合うってどういうこと?しんどいところをわざわざ自分から目を向けなくちゃいけないの?ってずっと思ってた」
ずっと思っていたってことは……。
「薫さんも、言われたこと、あるんですか」
気付いたときには口から出ていた。
「あ、え、ごめんなさい」
でも、どこにいたって中心になりそうな人物なのに、わたしと同じようなことを言われたことがあるなんて想像できなかった。
「いいのよ。私ね、生まれ持った性は男なのよ。杏と一緒でね」
薫さんは、さらりと言って続けた。
「だから一人でいることも多かったの。それに昔は、男に生まれたこと自体がコンプレックスだと思っていたのよね。だからコンプレックスと向き合うことが大切って言葉を見ると、それって私そのものを否定してるんじゃないの?って悲しくって腹立って。
向き合おうとすると、ドス黒いものも一緒に出てくる」
薫さんは少しだけ悲しい目をした。
わたしは、黙ってそのあとの言葉を待った。
「だからね、向き合うことをやめたの」
「え」
薫さんの力強い言葉に思わずグラスを落としてしまいそうになった。
ガーーンと頭を急に後ろから殴られたような、雷に打たれたような、衝撃。
わたしの中には浮かびもしなかった選択肢をこの人は自分で考えて、選んだんだ。
「向き合うことを頑張らなくていい。でも逆に、向き合わないことを全力で頑張る。
お化粧してみたり、好きなお洋服着てみたり。漫画を読むとか、好きな動画見るとかなんでもいいんだけど。とにかく全力で好きなことにだけ集中する。
コンプレックスだと思っていることから逃げることで、蓄えられるパワーがあるの」
実証済みよ、と薫さんはお茶目な顔で片目を閉じた。
「パワーが十分蓄えられたら、それからコンプレックスと付き合っていけばいい。自分流に自分を味付けしていけばいい。
逃げどころと頑張りどころは自分で決めていいのよ。自分でね」
わたしは、また、泣いてしまった。
わたしはこの二日間で身体中の水分を出し尽くしてしわしわになってしまうんじゃないだろうかというくらい、泣いた。
「桃ちゃん、アイス・カフェ・ナポリターノの本当の意味、教えてあげる」
薫さんはわたしの背中を優しくさすりながら言った。
「夜明けのコーヒーよ。辛いことや悲しいことがあったって必ず夜は明けるわ」
そう言って、わたしの頭を優しくたたくと、薫さんはカウンターの奥へと戻っていった。
わたしの心に湧いた黒い雲はいつの間にか消えていた。
「もーも」
杏ちゃんに後ろから声をかけられ、急いで涙を拭う。
「……なに」
「ひとりにしちゃってごめんね。それで、どうだった?薫さんの出してくれたドリンクは」
杏ちゃんは、わたしの顔を覗き込んだあと、親指の腹で優しく目尻の涙を拭い取った。
その仕草に少しだけ緊張する。
たまに杏ちゃんは少女漫画に出てくる男の子みたいなことをさらっとするから質が悪い。
「すごく、美味しかった。今まで飲んだ飲み物の中で一番美味しくて、優しい味だった」
あと、前を向けるような味。
と心の中で付け加える。
「良かった。……ふふふっ」
「なんで笑ってるの」
クスクスと杏ちゃんは笑っている。
「だって、桃、綺麗になったんだもん。やっぱり薫さんの魔法にかけられたのね」
「魔法……」
「そう、魔法。実は薫さん魔法使いなのよ」
そのあとすぐに「なーんて、冗談だけど」と杏ちゃんは言ったけど、わたしは、あぁ、と変に納得してしまった。
魔法使いか。確かに魔法だ。
薫さんが出してくれたドリンクも、薫さんがくれた言葉も。
杏ちゃんがわたしをここに連れてきてくれたのってもしかして……。
「杏ちゃんがここにわたしを連れて来てくれたのって、わたしに薫さんを会わせるため?」
杏ちゃんは、にこっと端正な顔を綻ばせた。
「元気出たでしょ」
「うん」
それと、と付け足し、わたしはずっと気になっていたことを杏ちゃんに尋ねた。
「ねぇ、杏ちゃん。杏ちゃんを今の杏ちゃんにしてくれたのも薫さん?」
「……そうよ」
やっぱり、そうなんだ。
杏ちゃんを暗闇から連れ出してくれたのは、やはり薫さんだ。
「薫さんは、すごい人よ」
杏ちゃんの瞳は熱を帯びていた。尊敬とか感謝とか憧れとかキラキラとしたものが詰まった宝石みたいで綺麗だと思った。
「杏ちゃん」
「なあに?」
「あのね、わたしも薫さんに会えてよかった」
「良かった」
杏ちゃんが、やわらかく笑う。
あのね、杏ちゃん。
わたしにとっては、杏ちゃんもすごい人だよ。
その言葉は、今はそっと心の中にしまっておこう。
好きな漫画をたくさん読んで、杏ちゃんと聖地巡礼したりして、美味しいもの食べて、パワーを十分蓄えたら、わたしも頑張れるかな、――頑張ってみようかな。
アイス・カフェ・ナポリターノ。別名、夜明けのコーヒー。
このコーヒーを飲み終えた頃には、わたしは今より前を向けているような気がする。
男の子だけど美少女な最強の幼馴染 ゆうり @sawakowasako
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