残業後のちょっとしたご褒美
うたた寝
第1話
花金。土日が休みの会社員にとって、一週間のちょっとした楽しみであるこの日。
心なしか町全体が浮足立っているかのようにさえ感じるが、それもあながち間違いではあるまい。次の日の仕事、から解放された大人たちは一週間溜めに溜め込んだストレスをここぞとばかりに発散しているに違いない。彼の課のメンバーもそれに漏れず、夜の街へと繰り出していった。
一応社交辞令的に毎回彼も誘われるが、毎回断っている。飲めない、というのもあるが、正直言って行くのが面倒だからである。酔ったテンションの人間の会話に2,3時間ただひたすら付き合わされるくらいであれば、ポテチとコーラでも買って帰って、一人でゲームと洒落込みたいところである。
そんなわけで、社会人になって学生時代より資金が増え、ゲームが気軽に買えるようになったものの、自由時間が減った関係で中々消化できずに積まれていく、というあるある社会人を迎えている彼は、荒れ狂ったままかれこれ3カ月くらいそのまま放置している世界を救いに行くため、嫌がらせかと思うほど割と定時間際に頼まれた仕事をぱっぱと済ましていく。
別に残業してまで終わらせなきゃいけないほど急ぎの仕事でもないのだが(頼んだ相手は定時と同時に帰って行ったので、後で藁人形でも作ろうかと思う)、せっかくやるなら、わざわざ残業して終わらしてやったぞ、と多少なりと恩着せがましく返してやろうと思う。
出来上がった仕事のファイルを社内の共有ファイルへと格納し、そのファイルを開いて中身を確認すると、彼はさっさと帰り支度を始める。早く帰りたい、というのもあるが、それ以上にこの『課に一人だけ残っている』という状態は非常によろしくない。『彼だけ残って残業押し付けられてるんじゃない?』というイジメの噂が立つかも、とかはどうだっていい。そんなものは事実無根なのだから後で撲滅して回るだけである。問題なのは、『今この課で仕事ができる人間が一人しか居ない』というこの状態である。それを示すように、
「あ、ちょうどいい所に」
今日一日中外出予定だったハズの我らが女課長が何でかどういう因果か嫌がらせか、彼が帰ろうとしているこのタイミングで帰ってきて、自分の課を一通り見渡した後に彼にロックオンしてきた。この『ちょうどいい』を聞いた後にロクなことが起きたことがない。上司にとっては『ちょうどいい』のか知らんが、彼からすると『マジクソ最悪なタイミング』であることに間違いないであろう。社会人生活で鍛え上げられた彼の危機回避能力に間違いはない。
なので彼は上司の声を一切聞かなかったことにし、
「いや、もう帰るんで」
「え、いや、その」
「もう帰るんで」
「え、えぇっと」
「帰るんで」
「………………」
用件を押し付けられる前に逃げてやろうと、彼は開いていたウィンドウをショートカットキーを駆使して素早く閉じていく。ウィンドウを消す度に何やら上司が『あっ、あっ、あっ、』と喘いでいたが、そんなの完全無視である。次々とウィンドウを閉じていき、後はもうシャットダウンするだけの状態になった時、
「………………」
上司が何か言いたげな顔でじぃーーーーっと彼のことを見つめてきていた。何かを言うわけではない。あくまで何か言いたげな顔をするだけ。シャットダウンのボタンにカーソルは合っているから、後は人差し指でクリックするだけでシャットダウンできるのだが、その物言いたげな無言の視線が金縛りほどの効力は無いにしても、彼のワンクリックを止めている。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「………………」
「………………」
「……………………」
「……………………いい年扱いた大人が半泣きでずっと人の顔覗き込まないでくださいよっ!! 何すかっ! 分かったよっ! もう聞くよっ!!」
「やったぁ~」
勝った、と言わんばかりのニッコリスマイルを上司が浮かべているのがあまりにも腹立たしいので、彼はデスクトップのパソコンを思い切りその顔に叩き付けてやりたくなったが、そんなことで備品を壊しても新しい備品は補充してもらえなそうだなと、彼は手に持っていたデスクトップパソコンを床に下ろしてその上に座る。
「? 何両手で頭を覆って蹲っているんですか?」
「つ、ついきっさ目の前でデスクトップパソコンを振り上げた人間がどうしてそんなキョトン顔ができるのでありましょうか? 怖い……、最近の若い人怖い……」
「?」
言うほど歳は変わらないハズだが、何か勝手に上司がジェネレーションギャップを感じ始めた。上司の言葉を借りるなら最近の年寄り怖い、って感じである。が、彼はとっとと帰りたいので、
「で? 何なんすか?」
「むぅ……」
部下の態度に上司がイマイチ納得いかなそうな顔をしていたが、向こうも向こうで帰ろうとしていた部下に残業を頼もうとしているのが申し訳ないな、という気持ちくらいはあるのだろう。さっきの暴行未遂は水に流そうと、上司は数回咳払いをすると、
「それがね?」
聞いといて何だが、上司から話された内容はおおよそ彼の予想通りだった。基本、この手の急ぎの残業が入るケースと言うのは限られている。
言ってしまえば、時折あるユーザーからの無茶ぶりであった。何でも先日納品してもらった仕事の内容に伝え漏れていたものがあったため、その漏れていた分を至急納品してほしい、というものだった。
「その『至急』ってどれくらい『至急』なんですか?」
「……今日中」
「出たよ……」
まぁ、『伝え忘れていた』と認めている辺り、まだまともなユーザーと言えなくもないが、それを『今日中』と言ってくる辺り、何とも強気なユーザーである。
「断れないんですか?」
「難しいねー……。ほら、あの大型ユーザーだからさぁ」
「あー……」
ユーザーだからと言って何でもかんでも言うことを聞くほどこの会社はユーザー至上主義ではないが、どうやってもユーザーとの力関係というものがある。件のユーザーはこの会社の売り上げの3割近くを占めるユーザーのため、よっぽど、それこそ物理的に無理、という内容でも無い限りは邪険にもできないのだろう。
「これから役員たちにも相談に行くけど、まー、残業して今日中に対応しろ、ってことになるだろうねー……」
課長がはぁ……、とため息を吐く。吐きたいのはこっちだ、と言いたい本音も彼にはあるが、まぁ上司も上司でユーザーや役員、部下にと挟まれて色々大変なのだろう。ユーザーや役員と直接話すことなどまず無く、こうやって上司に直接文句が言える彼は気軽な方なのかもしれない、とちょっと上司に対して同情的に彼はなると、
「その追加分ってどういう内容なんですか?」
「ん? ああ、これだね」
上司はカバンからノートパソコンを取り出し広げると、メールを開いてみせる。ユーザーから届けられたメールには追加分の修正内容が資料で添付されていた。それを開くのを待っていると、ピコン! とチャットが届いた。件のユーザーの担当者からみたいだが、公式のメールとは別に絵文字満載の謝罪文が届いていた。上司宛てのチャットなのでそんなにしっかりとは見なかったが、担当者も担当者で色々苦労していそうな文面だったので、少しユーザーに対する留飲も彼は下がった。
添付資料が開けたので彼はそれを一通り見ていく。ざーっと流し見した感じだと、まぁ、何とも地味にめんどくさそうな内容である。難しいかと言われれば難しくはないのだが、時間だけはひたすら掛かるだろう。
「これを今日中、ねぇ……」
課のメンバーが全員残っていれば、大体1時間くらいで終わる業務内容だな、と彼は思った。仕事ができる、できないの話というより、今回の仕事はマンパワー系の話。人海戦術で大勢の人間に手を動かしてもらった方が効率がいい。
残業代よりプライベートな時間、という考え方を持っている彼としては、残業1時間は少し魅力的であった。そしてそれもそう難しいことではない。何せ課のメンバーは飲みに行っているハズだからだ。
飲みに行った、と言うことは逆に言うと家に帰っていない、ということ。わざわざそんな遠くへ飲みに行ったとも考えづらいので、少なくとも駅周辺には居るだろう。今からでも呼び出そうと思えば、呼び出すこと自体は可能ではある。
電話を掛けた際、電話口では文句をブーブー言いつつも、渋々会社に戻ってきて渋々残業する彼らの姿は容易に目に浮かぶ。業務時間外なのだから会社の人間からの電話など無視すればいいだろうに、彼らは変に真面目だから絶対出る。そして手伝って、と言われたら絶対手伝うだろう。
これが残業が決まった後に『今日飲みに行こうと思ってたのにー』と言われていたらご愁傷様、としか思わなかっただろう。これが飲みに行こうと会社を出る直前で残業を命じられていたら運の悪いやつ、としか思わなかっただろう。だが、既に会社を出ていてプライベートな時間を過ごしているメンバーを会社に呼び戻すのは流石に気が引ける。
一人ではどうにもできない仕事量であれば、そんなことも言っていられないかもしれないが(そんな仕事受けるな、と思わんでもないが)、今回の仕事内容はそうではない。人手が居ない分の時間は掛かるが、逆に言うと、時間が掛かるだけで一人でも熟せる仕事だ。
「……はぁ」
一人でやる腹を決めた彼は大きくため息を吐く。世界を救うのはもう少し延期になりそうだ、と彼が思っていると、彼の葛藤を色々感じ取ったのか上司が、
「いやー、ゴメンねー? 今度ゲーム奢るよ」
「積んでるって言ってんだろうがクソ上司」
彼がキッ! と睨むと、上司はひぇ~と口を塞ぐ。言ってから口を塞いでも遅いというのと、どちらかというと口を塞ぐべきは上司に暴言を吐いた部下のような気もするが、上司は気にした様子も無くあっけらかんと、
「で、どれくらいで終わりそうかな? 急かすわけじゃないんだけど、役員たちに対応目途を言いに行かなきゃいけなくてさ」
「そうですね……、まぁ、明日のユーザーの業務開始時間には」
『今日中』というのは24時まで、という意味ではない。正確に言うと、彼の言った言葉通り、ユーザーの業務に支障が出ない時間まで、という意味になる。
「うわぁ……、やっぱそれくらいは掛かっちゃうかぁ……」
「どうしたって数が多いですからね」
口に出してみて、改めて自分の残業時間を把握した彼は段々嫌になってきて、もう前言撤回で飲みに行ったメンバーを呼び出してやろうかと3割くらい本気で考えていると、
「はい!」
「「………………」」
何か声が聞こえた。きっと疲れてるんだな、と彼らは聞き流すと、
「役員たちに話終えたら戻ってきて手伝うよ」
「現場から離れて久しい人間に戻って来られても邪魔なんでいいです」
「酷いっ!?」
「はい! はい!」
「「………………」」
また何か聞こえた。いやだが気のせいだろう。課のメンバーは彼らを除いて既に飲みに出かけているのだ。彼ら以外の声など聞こえるハズも無いし、聞こえてたら聞こえてたでそれはそれで怖いのである。
「いや、そりゃ最近は進捗管理ばっかだけど、それでもそれなりに力にはなれると、」
「なれないです。やり始めて5分くらいで何の力にもなれずにその辺の椅子に座ってグルグル回っているのがオチです。どうしても力になりたいというのであれば、俺のストレス発散のために一回デスクトップパソコンでその頭ぶっ叩かせてください」
「やっぱり酷いっ!?」
「はい! はいはい! はーいっ!」
「「………………」」
どうも。どうもだ。さっきから聞こえているこの声は幻聴ではないらしい。というか相手もここまであからさまに無視されてよくめげないものである。彼らがやっと音源の方へと顔を向けると、そこではリュックサックを背負った女性社員が片手をピシィッ! としっかり挙げていた。そして彼らと顔が合うと、彼女は嬉しそうにニッコリと微笑んでいる。
この人懐っこさ全開の満面の笑みを彼女が浮かべている状態で彼としては非常に大変言いづらいのだが、
(……名前、なんだっけかな……?)
同じ課のメンバーだ。顔はもちろん分かる。だが、彼自身はまだ一度も話したことがないし、一度も業務で関わったことがない。自己紹介程度は課に配属される際にチラっとしてもらったが、自慢じゃないがそんな一回で人の名前を覚えられるほど彼は物覚えがよくない。
名前が分からない関係で、彼が迂闊なことは言えずに居ると、横に居た上司がさっと彼女の名前を呼んだ。ああ、そうだそうだ、と彼が思い出していると、上司は、
「どうしたの? もう定時過ぎてるよ?」
俺もですけどね、という意味深な視線を彼は上司へと向けるが、慣れっこな上司はスルーしている。許せん、後で藁人形買ってやる、と彼が心に決めていると、
「私! 私がお手伝いしまーす!」
上司の質問完全無視で自分の主張を続ける彼女。新入社員で中々根性の座っている子である。将来大物になるであろう。っていや、ちょっと待て。どうにも聞き流せない言葉が聞こえた気がしたので彼は、
「え? うん? 手伝う?」
「はいっ!」
わーお、満面の笑み。女性というだけでも彼らの部署的には珍しいのに、加えこれまた部署内では希少な体育会系。返事がまぁとってもいいこといいこと。体育会系とは真反対の生き方をしてきた彼としては少し苦手な相手である。
彼が彼女の陽なエネルギーに少し当てられていると、上司が、
「えぇっと、ひょっとして、残業してくれる、と、言っているのかな?」
「はいっ! もちろんです! 微力ながら私でもお力になれるかと!」
胸の前で両手をグーにする新入社員。彼よりは耐性が高いとは言っても、上司も最近久しく浴びていない陽の気に当てられ始めたらしい。せめてもの抵抗のつもりかあるいは錯乱しているのか、上司は苦し紛れにパーを出しているが、まさか彼女のグーに対してのパーだとは新入社員も思うまい。直接言う勇気は無いのか、しかしハッキリとそのパーは何ですか? という感じで笑顔のまま首を傾げている。
一方、目の前で全力キョトン顔を浮かべている部下を上司は完全放置。まぁ、上司も上司で苦し紛れにパーを出しただけだから、そこに理由なんて聞かれても困るのだろうが。しばらくどこかを見つめて何かを考えた後、
「うーん、じゃあ頼んじゃおうっかな」
「っ!?」
耳を疑う言葉が聞こえたので彼はブォンッ!! という音が聞こえるくらい素早く上司の方を見る。が、彼がもっと耳を疑ったのは、
「やったぁ~っ!!」
「っ!?」
残業を振られたのに両手を挙げて喜んでいるこの新入社員である。何だコイツ気持ち悪い、と思わんでもないが、流石に言うと社会問題になりそうなので彼は思うだけに留めておく。そして多少の暴言は吐いても問題無さそうな上司の方を見ると、
「おいこらそこの変態クソ上司」
「ん? 何か罵倒がパワーアップしているね? というか、クソは甘んじて受け入れてもいいが、変態は流石に冤罪ではなかろうか?」
何か上司が言っているが、とりあえず彼はスルーし、
「……本当にあの子にも手伝わせるんですか?」
「え? 何? その不満そうな顔」
「不満か不満じゃないかを聞かれるのであれば不満です」
「正直な人だねぇ……」
誤解の無いように言っておくと、彼女がどうこう、という話ではない。人手が必要、というのも確か。これからやる作業は単純作業の繰り返しなので、仕事の知識量や経験値なども不要。一人作業員が増えれば、単純計算で彼の負担は半分になる。
彼の都合だけを考えるのであれば喜ばしいことこの上ないが、それでも、新入社員に残業を押し付けるのは気が引ける。いくら自分から残業したいと言い出すような変態でも、残業できるって喜んでいる超ド変態だとしても、新入社員は新入社員なのである。あまり残業なんかさせたくないわけである。
会社の方針としてもあるくらいだから、当然上司だって普通であればそんなに気乗りする話ではないのだが、
「あんなやる気満面の顔で『やります!』なんて言われたら『やるな!』とも言えないでしょうよ……。嫌だもん。ダメって言って泣きそうな顔されるの。覚えてるもん。新人歓迎会でお酌をやんわり断ったら泣きそうな顔されたの。どう考えてもこっちが悪者にされるもん。あんなの」
「いや、お酌は知らんですけど。残業ダメだは言ってくださいよ。部下のスケジュール管理は上司の仕事でしょうよ」
「都合のいい時だけ人のことを上司、上司と……。そんなこと言うなら今日だけ君に課長権限付与するから君が言ってきたまえよ」
「んなっ!? ……ったく、何て使えない上司なんだ……」
ブチブチ言いつつ、ブンブン肩を回しながらやる気満々のご様子でご自分の席へと向かっていく新入社員に彼は声を掛ける。
「おーい、そこの君。止まりなさーい」
「はいっ?」
止まるとほぼ同時に180度ターンしてくる新入社員に彼は少し驚いて二の句を告げずに居ると、その間に会話の主導権を相手に取られた。多分彼がモゴモゴしているのを後輩への気遣いと受け取ったのだろう。気にしないでください、と言わんばかりに元気な笑顔を浮かべる。
「先輩! 一緒に頑張りましょう!」
「え? あ、いや、だから、その。一緒に、とかじゃなくてね?」
「私ごときでは先輩のお力にはなれないかもしれませんが、それでも精一杯頑張りますので!」
「それはありがとう。……じゃ、なくてね?」
「日々先輩方にご迷惑をおかけしてしまっているこの身分ではありますが、本日はその少しでも恩返しになればと!」
「うん。一回人の話を聞こうか。君はさっきからずーーーっと投げたボールを取ろうとしないで、ひたすらボールを投げつけてきているからね?」
「いやぁ、こうして残業を頼まれると、自分もこの会社に必要な人間だと見なされたみたいで嬉しいですね! はっ! いや、これは大それたこと! 自分なんかまだまだですよね! でもこれを機に、少しでも戦力として認めてもらえるよう経験値を詰めればと! 先輩! ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします!!」
「………………う、うん……、よろしく……」
何かを諦め、力なく手を挙げる彼。背後から、ほれ見ろ、という上司の視線を感じるようではあったが、こんなのどうしようもないではないか。何せこっちの話を聞いてくれないのだ。説得なんてできるハズも無いし、できたとしてそこに多大な時間を掛けるくらいであれば、もうやってもらった方が話が早い。
こうやって、彼と新入社員の残業は決定してしまったのであった。
考え方が甘かった。あんまり話したことがない先輩社員だから、残業をしながらお喋りでもして、今より少しでも親密な関係になれればなぁ~、という下心が彼女にはあったのだが、これは緊急な残業。楽しくお喋りなんていう余裕などあるハズもない。やってもやっても終わらない仕事に彼女はいい加減机に突っ伏したくなってきた。
仕事内容自体は単純作業の繰り返し。新卒の彼女でも十分熟せる難易度だ。だが、この手の単純作業は好き・嫌いがハッキリと分かれやすい。彼女はどうもこの手の同じ作業の繰り返しが得意ではないらしく、開始30分くらいで集中力が切れ始め、誰か自動化してくれないかしら? と現実逃避をし始めた。
虚ろな瞳で私は機械だ、私は機械だと自己暗示を掛けながら単純作業を彼女がひたすら繰り返していると、彼女の背後からガタッと椅子の音が聞こえた。振り返ると、先輩が席から立ち上がっている。
「か、帰っちゃいますかぁ~っ!?」
我ながら情けない声が出たが、そんなことは気にしていられない。何せ、残業をわざわざ引き受けた理由の8割以上が、ちょっと先輩とお話してみたいな、という健気で可愛らしい理由から来ているのだ。それが叶わず先に帰られ、一人深夜の会社でこの単純作業を任されたまま放置されたら発狂する自信が彼女にはある。
「トイレだよ……。付いてくる?」
「え? お、お供してもよろしいので?」
「……言っとくけど、本気で付いてきたら俺は恥も外聞も投げ捨てて全力で泣き喚くからね?」
妙な脅しを残して先輩社員はトイレに向かうため事務所から出て行く。そのドアが閉まるのを見届けた後、彼女はベターっと机に突っ伏す。今事務所に居るのは彼女一人。誰に見られるわけでもないから、少しくらいだらしのない格好をしていてもいいだろう。
鬼の居ぬ間に、というわけでもないが、人目が無いうちに彼女はマウスから手を離して自分の手首をブンブン振る。自分から残業します! と手を挙げた手前、疲れました、など言えるハズもない。いや、言えなくもないだろうが、言った瞬間帰されるだろう。それではわざわざ残業を引き受けた意味など無い。もうせめて5分でも10分でもいいからお話して距離を少しでも縮めたいところである。それさえできれば今日のこの残業は報われたと言ってもいい。
トイレに行って仕事を中断したタイミングであれば、再開するまでのちょっとしたインターバルに雑談したところでそこまでおかしなことでもないし、迷惑を掛けるほどでもないだろう。戻ってきたら何て話掛けようかなぁ、とちょっとソワソワしながら事務所のドアを確認するが、待てど暮らせど開く気配が無い。
思ったよりもしばらく先輩が戻って来なかったので、あれ? 帰った……? と不安になり、背後にある先輩の席を確認したが、バッグは残ったままだったので帰ったわけではなさそうだ。ふむ、大きい方か、と彼女は余計なことを察し、もうちょっと戻って来なそうだなぁ、と油断して伸びをした瞬間、ガチャ、と事務所のドアが開いた。何と間が悪いことか、ちょうど伸びをしている彼女とバッチリ先輩の目が合う。その衝撃は例えるのであれば、ちょうど服を脱いで着替えようとしているところを覗かれたくらいの衝撃であった。いっそのこと『キャーッ!』と叫びたいくらいであったが、流石にシチュエーション的に意味が分からなすぎる。彼女は慌てて飛び跳ねて椅子へと座り直し、
「す、すみません!」
申し訳なさなのか恥ずかしさなのか、顔を全開で真っ赤にしながら謝り、明らかにキーボードを叩いているだけの無意味なタイプ音がガチャガチャと響き渡る。察するに、いや私サボってませんよ仕事してますよアピールなのだろうが、
「いや、別に伸びくらい普通にしなさいよ……。誰も怒らないから……」
え? そうなの? と。職場で伸びなんてしたら怒られるんじゃないかと、いつもトイレの個室で隠れて伸びをしていた彼女にとっては目から鱗の情報である。しかし、言われてみればこの先輩、いつも大きくあくび付きの伸びをよく職場でしているような気がする。が、よくよく考えてみると、そんなことしているのこの先輩くらいのような気もする。ので、話半分程度で聞いておいた方が良さそうだ。
『しなさい』と言われたのを律義に守り、彼女が中断した伸びをぎこちなく再開。フツー再開するか? やっぱすげぇなコイツ、と先輩は呆れ半分、感心半分の状態で伸びをしている彼女の背後から近付くと、
「はい、これ」
伸びをしている彼女の横から手を伸ばし、彼女の席の上に缶コーヒーを置く先輩。『ん?』と伸びの姿勢のまま彼女が固まっていると、
「残業手伝ってくれたから奢り。好み分かんなかったからとりあえず微糖にしておいた」
どうやら彼女のためにコーヒーを買ってきてくれていたようである。大きい方か、なんて思ってごめんなさい、と彼女は思うのと同時にすぐに、
「あ、お、お金はっ!?」
「奢りだって言ってんだろ」
「ひぃぃぃっ!? ごっ、ごめんなさいぃっ!!」
「いや、そんな全力で謝られると俺がとてつもない悪者みたいですっごい嫌なんだが……」
何で缶コーヒーを買ってあげて悪者にされにゃならんのか、彼には意味が分からないが、世の中怖がった者勝ちである。止める間もなく、彼女は防災訓練の模範生もビックリの綺麗なフォームとスピードで机の下に隠れてしまった。無理やり引っ張り出すと警察沙汰になりかねないので、彼女が自主的に出てくるのを待つため、彼は彼女の方を向いて椅子に座ると、
「それ飲み終わったら帰るよ」
「へっ?」
突然の発言に彼女の口から間抜けな声が出る。何だったら驚きのあまり飛び上がって頭を机に打つところであったが、そこは何とか椅子を握っている自分の握力で宙に飛ばないよう自分の体を抑え込み、
「え、えぇっと……、その……、お、お仕事は……?」
残業ボイコットのお誘いですか? そいつは流石に新入社員のあっしが付き合うにはハードルが高すぎまさぁ、と、彼女が亀のように首だけ机の下から出して確認すると、彼はコーヒーを一口飲んで、
「もう終わったよ」
「はっ?」
素っ頓狂な声、続けざまに二回目である。が、素っ頓狂な声だって出るというものだ。途中から確認するのも嫌になったので、残作業など見ていなかったが、それでもとんでもない量があった。『終わらない、帰ろう』ならともかく、『終わった、帰ろう』はあり得ないハズだ。何を御冗談を、と彼女は机の下から這い出てくると、机の下に籠っている間にスリーブモードになったらしいパソコンを起動させる。それから社内の共有フォルダを見に行き、残作業を確認してみると、確かに全部無くなっていた。何だったら彼女が作業途中だったファイルさえも最新の状態に更新したら既に作業が終わった後であった。
「え? えっ? えぇっ!? いっ、いつの間にっ!?」
「君が伸びをしている間に」
「………………」
「……冗談だから、そんな泣きそうな顔しないでくれる?」
彼としては普段通りの軽口を叩いただけなので、そんな今にも切腹しそうな感じで『大変申し訳ありませんでした』という顔をされても困るのである。
「分かったら飲んでさっさと帰ろうぜ」
「な、何かすみません……」
「何で残業手伝って謝るのさ?」
先輩はおかしそうにコーヒーを飲みながらケラケラ笑う。彼からすれば恩を着せこそすれ、謝るというのはよく分からないのだろう。彼女からすると、さほど仕事量的には手伝えていないのに、コーヒーまで奢ってもらっていいのだろうか、という感じである。
確かに、仕事量、という意味では彼女はさほど手伝えていない。彼の仕事量を確実に減らしてくれたのは事実だが、正直、誤差の範囲だろう。しかし、彼のモチベーションを上げた、という意味では、彼女は大きく貢献している。
深夜に新入社員の女の子と二人っきりで残業ができて、という特殊な理由でのモチベーションアップではない。彼一人だったらダラダラ残業して、明日の朝まで作業したところでどうということはない。嫌味満載の残業メッセージ付きで残業申請するだけのことだ。しかし、新入社員の女の子もそれに付き合わせる、となれば話は別である。なるべく早く帰してあげようと、彼の作業スピードを上げるのには十分な理由だった。
イマイチこの、同じ作業をしているにも関わらず、朝方までダラダラ作業していた方が残業代が稼げて給与がいい、というのは必死に早く終わらせた方が損をするようで納得のいかないところではあるが、その辺は後日、あの女課長にグチグチ愚痴ることとしよう。多分言っても『私に言われてもぉ……』と半泣きになるだけだろうが、言うことによって彼のストレスは発散されるのだから問題無い。
まぁ、下手に早く終わった、と言ってしまうと、『あ、それくらいの速度で仕事できるのね』と思われ、以降調子に乗って無茶ぶりが増えても困るので、作業完了の連絡はもう少し後にしようとは思うが。
明日の始業開始時間まで掛かるって伝えてあるから、そこに新卒の子が加わって、盛り過ぎてない作業完了時間は……、と彼が声には出せない計算を頭の中でしていると、未だコーヒーを飲まない後輩が目に入ったので、
「…………飲まないなら俺飲むけど?」
「い、いえっ! 頂きますっ!!」
取られてはならない、と言わんばかりに素早く机の上に置いてあった缶コーヒーを取る後輩。後輩のこの必死よう。彼の冗談を彼女が冗談と受け取れるようになるのはもう少し先らしい。
マズい。これは非常にマズい。
事務所の戸締りを終え、外でタクシーを捕まえようしている間、彼女の頭の中ではずーっとその言葉がグルグル回っていた。
予定より早く終わらせた、とは言っても、流石に終電までに終わらせるのは無理だったので、現在事務所の近くでタクシーを捕まえようとしているところである。
タクシー呼びましょうか? と彼女も後輩として言ってみたのだが、終電後の作業が初めてではない先輩はこの辺りのタクシー事情に詳しいらしく、割とすぐ捕まるから呼ばなくてOKとのこと。ではせめて私が捕まえます、と名乗り出たかったところではあるが、事務所出てすぐの道で待っていればその内来るとのこと。結果、彼女のやる作業と言うのは先輩と一緒に並んでタクシーを待ち、来たら手を挙げるだけという単純極まりないものとなっていた。
ワーカーホリックではない彼女だが、現在、私に仕事をくれ状態である。何せ彼女が残業でやったことと言えば、全体量から見れば明らかに少ない仕事量と、事務所で伸びをしたのと、コーヒーを貰って飲んだことくらいである。いたたまれないことこの上無いので、残業申請を断ろうとしたくらいだが、それは先輩に全力で阻止された(背後に立って残業申請しろ今しろすぐしろさっさとしろ、と無理やり申請させられた)。
同じ作業量ではないのに同じ残業代貰ってもいいのだろうか……、と彼女が先輩みたいなことを考えて落ち込んでいると、タクシーを待っている時間潰しか、先輩が話し掛けてきた。
「家って遠いの?」
「あ、えっと、ドアツードアで大体1時間くらいでしょうか?」
「へ~、どの辺に住んでんの?」
言ってから、あ、やべ、セクハラかな、と深い意味があって聞いたわけではないのだが、今のご時世的にアウト? と彼が内心不安がり、回答前に質問を撤回しようかと思っていると、彼女は気にした様子も無くサラッと最寄り駅を口にした。それを聞いて、
「あー、じゃあ結構生活圏近いな。俺その3つ先の駅だから」
「………………」
言ってもいいかな、気持ち悪がられないかな、と彼女は少し悩んだ後、
「………………存じ上げてます」
「…………えっ!? 何でっ!?」
意味を理解するのに時間が掛かったのか、少し間をおいてから彼は驚いて声を出す。まぁ、当然の驚きだろう。ちゃんとこうして一対一で話すのも今日が初めてくらいなのだ。住んでいる場所の話などしているハズもない。彼女も彼から聞いたわけではないし、駅の正確な場所までは知らなかったが、
「何度か電車内でお見掛けしたことがあるので……」
「あー、なるほど……。話し掛けてくれれば良かったのに」
「…………話し掛けても良かったです?」
「………………」
彼女の何か言いたげなジトーという視線を受け、先輩はソーっと目を逸らす。何せ今の語尾は社交辞令的に追加した語尾だ。彼女の名前をちゃんと覚えてなかったくらいなのだ。急に話し掛けられて彼がちゃんと応対できたかは怪しい。そこを抜きにしても出社時は結構自分の世界に入り込んでいたりもする。あまり話し掛けてほしくない、というのが彼の正直なところ。名前を憶えてもらってなかった、という悲しき事実を知らない彼女が言っているのは主にこっちだろう。
「……あ、タクシー来た」
気まずい雰囲気に耐えかねて話題を変えた、とかではない。本当にタクシーが来たので彼は手を挙げてタクシーを止める。気付いたら最後の仕事も取られていた彼女は『あっ』と口に出したがもう遅い。タクシーは彼の手によって止まり、そのドアを開いている。
「先乗っていいよ。俺は次ので帰るから」
先輩が彼女を手で促す。何かを言いかけた彼女だが、先輩がそっとその背中を押してタクシーの方へと促す。
マズい……、彼女はもう一度口の中だけでその言葉を繰り返す。
そう。彼女がマズいと思っているのは残業で貢献できなかったことではない。いや、まぁこれもこれでマズいとは思っているのだが、それとはちょっとまた話の違うマズいである。
彼女が思っているマズい。それは、このままだと残業した目的がほとんど果たせない、ということにある。
それを叶えようとすれば、ここがラストチャンス。迷いに迷ったが、彼女はもう言うだけ言ってみようと半ば自棄になりながら、
「あっ、あのっ!」
「ん?」
「い、一緒に乗りませんかっ!?」
「………………」
はぁ? という言葉こそ飲み込んだものの、思いっ切り『はぁ?』という顔をしている先輩。しかし、後輩もめげない。
「と、途中まで同じでしたらタクシー代の節約にもなりますし! そ、その! 時間の節約にもなりますし!」
「…………ほう」
タクシー代の節約、に関しては全額会社に請求するので、彼にとってそこまで魅力的な提案ではない。何だったら2台分請求してやりたい気持ちもあるので、若干マイナスな提案である。時間の節約、に関しては少し魅力的だが、そんなに時間の掛かる作業でもない。どうせこのタクシーを逃しても5分10分もすれば新しいのが捕まるので、魅力度的にはそこまで、といったところ。
断ってやろうかとも思ったが、彼の一度小さく開いた口はすぐ閉じた。理由は彼女の顔。どこかの役立たず課長も言っていたが、彼女の顔を見ていると、断った際に凄く罪悪感を覚えそうで断りづらくなってくる。後日タクシー代を一つしか請求しなかったら色々勘ぐられそうなので気乗りしない部分もあるのだが、
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
彼がそう答えると、彼女は彼が恥ずかしくなるぐらいハッキリと分かりやすく、パァァァッ!! という嬉しそうな笑顔を浮かべた。気恥ずかしくて仕方が無かった彼は、早よ乗れと、半ば強引に彼女をタクシーの中へと突っ込んだ。突っ込まれた直後はウキウキと彼が乗って来るのを待っていた彼女だが、ふと、
「はっ! こっち上座だ! おおお、降りますぅっ!!」
「やかましい! 降りるなめんどくせぇ! 上座も下座も俺はどうでもいいからそのまま乗ってろっ!!」
「ひぇぇぇっ!! すみませぇん……っ!!」
ぶっちゃけ、タクシーの下座上座などマナー講習で習って以来一度も実践したことの無かった彼はどこが上座かなど忘れていたくらいである。が、習った直後の彼女としては実践したかった知識なのだろう。武士の恥だぁ……、くらい大袈裟に恥ずかしがっている。社外の人と会った時であればいざ知らず、社内の人間であればそんな気を遣うことでもないのだが。
彼女が上座に座った挙句恥ずかしがって役に立たないので、車を発進させて行き先を聞いてきた運転手さんに、彼がとりあえずの行き先を伝えると、
ぐぅぅぅ~~~……、とどなたかのお腹が盛大に鳴った。一瞬、時が止まったのかと思うほどの静寂だったが、彼がそーっと彼女の方に顔を向けると、
「お、お、お、降りますぅぅぅっっっ!!」
「おおお降りるな降りるな降りるなっ!! 車が動き出してるだろうがっ!!」
「嫌だぁぁぁっ!! もう恥ずかしいっ!! もう嫌だぁっ!! お~り~る~ぅ~っ!!」
「ダメだって言ってんだろうがよっ!!」
「何ですかっ! 先輩だって何か人を小バカ、ウソ、大バカにしてるような顔してるくせにっ!!」
「何ちゅう言い草だっ!!」
「だって笑ってるじゃないですかさっきからぁっ!!」
「そりゃ笑うだろっ! 笑うななんて無茶言うんじゃねぇっ!! 後別に笑ってるからってバカにはしてねぇから大人しく座ってろっ!!」
「うううぅぅぅっっっ!!」
「唸るな睨むなついでに泣くなっ!!」
唸って睨んでついでに泣いているようではあるが、ようやく椅子の上で大人しくなった彼女。ちなみにこの騒動の間、流石に立場的に声に出しては笑えなかったのか、運転手さんはず~っと肩を震わせて笑っていた。
「運転手さん」
「…………はい?」
そんな運転手さんに彼が声を掛ける。声に笑いが混じらないよう、運転手さんは一拍置いてから返事をした。
「ちょっと行き先変更してもいいですか?」
「? どうぞ?」
そういえば晩御飯まだだったな、ということを誰かさんのお腹の音で思い出した彼はその誰かさんの方を見て、
「ご飯でも食べて行こうか」
彼女からしてみれば大分魅力的な提案だったが、さっきの一件で拗ねているのか、
「…………奢りですか?」
頬を膨らませながらジト目で彼に聞いてみた。彼はニヤッと笑うと、
「さっきのお腹の音分は奢ってやるよ」
「………………」
いじわる……、と小さく呟きながら窓の方を向く彼女。しかし、窓に映った彼女の口元は小さく微笑んでいた。
案外、彼の冗談を理解するのが早かったな、と彼は背もたれに体重を預けながら、彼女と同じように自分のドアから窓の景色を眺めるのだった。
残業後のちょっとしたご褒美 うたた寝 @utatanenap
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