西陽と風鈴
真花
西陽と風鈴
柔らかい西陽が風鈴に当たって砕けている。まるで、陽光に揺らされて鳴っているみたいだ。父が生前にあの場所に設置したときに、そこまで考えていたのだろうか。いつものようにおみやげを持って父は帰って来て、それは母よりもずっと私を笑顔にするためのもので、とっぷり暮れた窓の外なんて気にも留めずに、早く鳴らしたくてすぐそばのあの場所に括り付けた。風のある日だった。私は背伸びをして風鈴が揺れて鳴ることに熱中した。父は風鈴よりもそんな私を見ていた筈だ。だから西陽のことなんて考えていなかった。私も、今日まで陽が当たることに気付かなかった。年中鳴りっぱなしの風鈴は、すぐに見るものではなく聞くものになり、日常の中に溶け込んで意識に上らなくなっていった。それよりも大事なことが毎日を埋めていた。
「いつでも帰って来ていいんだからね」
言葉を選ぶ父が、言ってはいけないであろうことを言ったのは、それでも言わなければならないと信じたからだと思う。結婚するその日まで実家から出たことはなかったけど、私には自信があった。だから、年中行事で訪ねること以上には実家に寄り付かなかった。父の言葉に意地を張りたくもあった。五年を待たずに父は鬼籍に入った。心臓麻痺で、病院に駆け付けたときにはもう声を聞くことは出来なくなっていた。私は何の準備も出来ていなかった。実家には戻らなかった。妹がまだそこに住んでいたことを理由にした。でも本当は、父のいない家の空気を吸いたくなかった。あまり泣かなかったのは、涙を体に溜めておかなければならないと、私のどこかが決めたからだと思う。
不倫をした。夫と私は同じ職場で、そこに新たに来た若者と恋に落ちた。父の目はもう光っていないから。それが私の百ある言い訳の最後の一つになって、求めに応じた。東京に人間があれだけいるのに、デートの最中に夫とばったり会った。「相談があるって言うから、話を聞いていた」と切り抜けたけど、二度目は疑惑を払拭出来なかった。三度目で疑心は確信になって、追及に自白した。どうしても若者を守りたかった訳じゃなかった。自分を守りたい訳でもなかった。叱られたかったのだと思う。そして、許されて、私は新しい父を持つ。でも、現実は違って、夫は私を許さなかった。即日離婚を言い渡され、荷物は後で送るからすぐに目の前から消えろと、身ひとつで家から放り出された。「職場の方は退職手続きするから」と仕事も奪われた。そうでなくてももうどんな顔して職場に行っていいか分からなかったから抵抗しなかった。閉じられたドアの前でしばらく動けないでいた。蝉が鳴いていた。汗が首を流れた。
行く場所は実家しかなかった。新幹線で眠ろうとしたけど眠れなかった。ずっとやめていた煙草を買った。父が吸っていたから実家は喫煙のままの筈だ。駅から電話したら母が「そう」と言っただけで車で迎えに来てくれることになった。黄色いセダンに乗り込む。
「で、何があったの?」
「離婚して、家を追い出された」
「そんな一方的に?」
「言いたくないけど私の方に落ち度があるから、文句は言えない」
「しばらくこっちにいるの?」
「うん。どこで働くかとかも考えないと」
それから二人とも黙って、私は過去には見慣れていた景色を眺める。ところどころ変わっている筈なのだけど、それがどこか分からないくらいに記憶が朽ちかけている。それでも、実家の佇まいは頭の中にあるものと同じだった。
玄関のドアを開けると妹が待っていた。臆することの全くない、穏やかな笑顔。
「お姉ちゃん、おかえり」
「ただいま」
「長い旅路だったね。ゆっくり休みなよ」
私は苦笑いのまま妹の肩をポンポンと叩く。
「そうするよ」
辛うじて持って来た鞄を置いて、居間の大きな背の低いテーブルの脇に座る。父の席、私の席、妹の席、母の席。今も同じように座っているのだろうか。
風鈴の音がする。
ずっと昔に父が付けたそれを、久し振りに眺める。陽光が当たって砕けている。父は私がこうやって戻って来ることを予測していたのだろうか。きっとしていない。風鈴の光との調和と同じくらい、私の不和のことは思っていない。ひたすらに幸せになることを祈ってくれていた。風鈴の音が鳴る度に父がいたときに戻って行く。父はいつでも私のことを想っていてくれた。声を聞きたかった。まだありがとうも言えてない。
「パパ」
栓が呼び掛けの力で抜けたかのように、涙が溢れる。
風鈴の音が聞こえる。父も聞いている、きっと。
(了)
西陽と風鈴 真花 @kawapsyc
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