終章(後)
そうした会話があった。それから幾らか時間が経っている。あの騒動から二年経ったその時間のうちに、その出来事も……実家に帰省して、これからの話をしたということも入っている。
「これからどうするかは分からないけど、取り敢えず実家に戻らないか?」
そのように私は言われた。しかし、私はこれを丁重に断った。
理由は、兄が結婚するからだ。銀行で事務をやっている女性と交際を続けており、じきに結婚し、実家でそのまま生活をする予定だということを私は知っていたので、その場に身を置くのが申し訳なかった。
しかし、あの兄が自由恋愛で結婚するとは。そちらの方がよほど意外だった。しかも銀行の事務ということだから、私が実家に一度帰ると言った時、有給休暇を無理にとってぷりぷりと叱られたというその相手は恐らく、兄の婚約相手だったのだろう。想像してみると、如何にもおかしかった。他の同僚からは夫婦漫才をしているように見えたのではないだろうか。
私がその帰省の後も東京に戻って、しばらくは東京で生活をすると言った時、母はとくに制止しなかった。ただ、いつ帰って来てもいいのだということだけを繰り返し、繰り返し述べていた。
そうして私は東京へ戻った。
ゲーム『プレーン・コレクション』は今も人気だ。私の騒動の後にキャラクター・シュペルエタンダールの声優も変更になる。最初、変更後に初めて発表されたその声を聴いた時、私は思った。
「私の方が上手い」
そう断言できた。実際、ネットでもそのような声が幾らか上がっていた。何があったとしても、シュペの声優は遠藤蓮花以外にあり得ないということを話すファンも居た。でも、そのような声も一度声優が、あのような騒動を経て変更され幾らか時間が経つと、誰も気にしなくなった。ファンには何も変えようがない。前が良かったなんて言っても、それはファンの感想に過ぎないのだ。
あれだけの浪費を声優時代の私はしていたのに、それでも私の手元には貯金があった。これがなければ東京へ戻るなんていう選択も出来なかっただろう。
私は部屋を借り、手に職でバイトを探した。丁度、関東に展開している酒屋のチェーンがほぼ、来る者拒まずで働き手を探していたので私はそこの店員になった。私はその職場でも随一酒に詳しい店員として重宝された。
あの声優時代末期の、無軌道な酒浸りの日々が今このようにして一種のスキルとして扱われていることについて、私は皮肉に思った。
アルバイトに持続性はない。今の立場がいわゆるフリーターと呼ばれるもので、安定とは程遠いのだということを私は理解していた。それでも、世間に後ろめたい気持ちの一切ない生活とは、これほど爽やかな気持ちのいいことなのか、と私は考える。
あの頃に比べれば収入はそう多くない。それでも私は、今の生活の方がよほどマシだろうと思う。
仕事上がりに一本のお酒を買い、閉店間際のスーパーで割引品のちょっといいお弁当と惣菜一つ、パックサラダ一つを買って、家でそれを開ける。
家では、借りてきたテレビドラマを少しずつ見る。たまには街中に出て、ウインドウショッピングをする。ティーン向けのアパレルショップで売られる品々が今の私の財布事情には丁度良かった。
そうした日常の営為に変化が訪れたのは、私がそのアルバイトの帰り道、捨てられているアコースティックギターを手に取った時であった。
気にする必要なんか、ない。そこには楽譜らしきものや、何かを書き記したらしいノートが大量に積み上げられていた。これらは一週間以内に業者が回収し、全てが焼失するのだろう。それを気に留める必要性なんて何処にもない。そのはずだった。
けれども私は、そのギターを手に取った。自分でも説明しようのない何らかの衝動がそこにはあった。
そのギターをまず、弾ける状態に持っていく。意外にも状態は良く、お金を上手く使って少し手を加えただけでギターは元の、弾ける状態にまで回復する。
そうなれば何か弾いてみたいと思うのが、自然な心理だろう。しかし私が弾きたいと思う曲なんてない。
私は考えた……『傘の下』なら。ライブの時に歌ったあの歌ならば弾いてみたいと思える。動画サイトにはこの曲をギターで弾いているものが幾つかあったので、私はギターの弾き方をそれで学ぶ。
私は練習を続けた。練習をしている間、色々なことを思い出す。最後はあのように無茶苦茶になって壊れてしまったそれらの記憶が蘇る度に私は、何らかの感情の動作が起こることが分かった。それは怒りかもしれない、悲しみかもしれない、やり切れない感じ。楽しい思い出もある。色々、あった。色々……ありすぎた。
やがて私は、ギターで動画を上げてみたいと思い始める。無論、名前は隠さなきゃいけない。あれだけのことをしたのにまた、私が遠藤蓮花を名乗るわけには行かない。
私は曲を上げた。下手くそだ。全然上手くない。
再生数は一週間で三回。それが何かおかしくて、それでいて底抜けに嬉しくて、私は笑った。
あの頃。私が声優だった頃にアップロードされる公式動画は一瞬で何百、何千と再生がなされた。しかし今の私の動画はたった三回しか再生されていない。再生されない日の方が、多い。それがとても気持ち良かった。
私は動画投稿を続ける。
徐々に再生数は伸び始める。ギターも上手くなる。固定のファンがつく。彼らの一部はアイコンをシュペルエタンダールにしている。それを見て私は、きっと彼らは内心、私があの声優・遠藤蓮花であったことに気が付いているのではないかと思った。けれども、そんなことは今や、どうでもよかった。
オリジナルの曲に手を出す。ただギターを弾き、歌うだけでは面白くなくなってきた。
私はあの有名な、キャラクター付き音声合成ソフトを買った。作曲は初めてのことで、色々な苦労があったが、それも全部心地良いことの範囲に収まった。
幾つかの曲を作って……私はこれを、同人で売ろうと思った。固定のファンは幾人か居る。彼らがCDの販売を望んでいる。それだけで私には、十分過ぎるほどだった。
三十枚ほど、刷った。
最初に固定のファンの五人ぐらいが、全員合わせて八枚のCDをネット経由で買い、残りが余った。
私はこれを、ショーケースを借りて販売することにした。これは秋葉原でよく見られる販売方法で、ユーザーが小売店の一角を月額で借りてそこに商品を置き、客がくれば小売店の店員がそのショーケースに収められた品々を売り、売った分の利益がそのショーケースをレンタルする人に与えられるというものである。
私は、酒屋での初めての給料で得たお金で買った大きめの実用的なリュックサックの中にCDを詰め込み、秋葉原へ向かう。
総武線快速に乗り、錦糸町で乗り換え。総武線に乗り、少しの間揺られて、秋葉原に着く。駅の広告は、海外発のソーシャルゲームと最近売出し中のSNS発のウェブ漫画。
私は電気街口を出る。例のゲームセンターの広告は今『プレーン・コレクション』ではなく、別のゲームのものになっている。
私はこの時、何の変装もしなかった。それどころか、洒落っ気すら出していない。実用的な、如何にも没個性的な服装。誰も私に気付かない。あれは声優・遠藤蓮花だ、などと言いふらす輩も居ない。
やがて、私が契約するショーケースのお店に着く。ボロボロの雑居ビルの一部屋の中に大量のケースが並んでいる。私が契約した、小さなショーケースの中にCDを積み上げる。型紙に書いたお品書きを置く。
そうして用事を済ませた後に、私はふと思い立って、中古グッズを取り扱う店に立ち寄った。相変わらず『プレーン・コレクション』には勢いがある。新盤も置かれている。けれども今の私は、それに興味一つ抱かなかった。
かつて受けた古傷の跡を探すように私は中古CDの棚を見る。そこには、過去の私が出したキャラクターソングCDがある。値段は、九百三十二円。それを見て、私は何故かほっとしたような、侘しいような……形容し難い感情に心を支配される。
「全部、終わったんだ」
私は小さく、そう言った。
「全部、終わったんだね」
アイドル声優だった私が、アイドル声優をやめるまで 文乃綴 @AkitaModame
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