終章

終章(前)

 あれから。

 私が週刊誌で醜聞を暴露され、声優をやめてから……二年が経つ。

 終わってみれば呆気ないものだった。

 ゲーム『プレーン・コレクション』のシュペルエタンダールを降板するよりも前に、事務所側が私との契約を破棄した。端的に言ってしまえばクビだ。そして、このような騒動を引き起こしたような声優を新しく雇おうというところもない。もしかしたらその場でまたかつてのように努力すれば、数年もしたらしれっと脇役から声優業を続けることができたかもしれないが、このような事態を引き起こしても尚、声優を続けようという意識を保つのは難しい。少なくともアイドル声優としての私はもうお終いだったし、あの美しい営為、今やその実在さえも怪しい天頂の営為に対する憧れも消え失せた。考えてみればあの時、週刊誌に暴露記事を書かれた時。私は無意識のうちに、ほっとした……のかもしれない。誰かがそのように力を行使しないことには、私はあの『泥中』からの解放は望めなかったと、今では思う。

事務所との契約がなくなり、自由の身になった私はまず、何年かぶりに実家に電話をした。最後に言葉を交わしたのは静岡を出た時のことだったから、かなり前だ。

 母に電話を入れるが、一回では出なかった。二回目にも出ない。三回、四回と繰り返し……五回目になって、やっと出た。

「あの、どちらさまですか?」

 それが母の第一声だった。

「菜摘だよ。なっちゃん」

「うちにはその子は居ません」

 縁が切れたと思われたのか、それとも例の騒動を知っているのか。そこまで考えて私は気付く。そう言えば上京して以降、二度携帯を乗り換えている。電話番号も一度変わった。

「本人かどうかを確かめる質問をしてみて」

 半ば悪戯電話のようであり、実際に私は悪戯をするような気持ちでそう言っていた。

 母は聞く。

「生年月日は?」

「何言ってんの。そんなのどこから漏れるか分かんないから、本人確認にはならないよ。別の質問、してみて!」

「……じゃあよ。じゃあ……どうしたもんかなあ。ああ、そうだ」

 母は言った。

「あんたが勝手に静岡行った時、帰りで父さんがあんた拾ったやろう。その拾った駅の名前は?」

「由比駅だよ。由比。すっごい暗くて、怖かった」

 私は即答した。母の声のトーンが変わる。嘘、あらあ、本当? そう続けて言う。私は答える。

「そう。なっちゃんだよ。山本菜摘です。ご無沙汰しておりました」

「電話番号変えたなら教えなさいよ! どれだけ人が心配したと」

「忙しかったんだよ。本当に……とっても、忙しかった」

「でも唐突にどうしたのさ。声優の仕事は上手く行ってんのか」

「うーん、そのことなんだけれど……」

「私はパソコン詳しくないから知んないけどさ。兄ちゃん言ってた。声優さんが不倫で三角関係で大騒ぎにって」

 それを聞いて、私は笑ってしまった。

「笑い事じゃないよ。本当、声優とかそういうのも怖いところなんだなあって思ったんだ。あんたはどうなんだ、ええ?」

「それ、私のこと」

「はあ?」

「声優が不倫で三角関係。その女声優って、私。芸名は遠藤蓮花。それは私の話なの」

 こりゃおったまげた。母はそう言った。私はそれがおかしくて笑ってしまう。遠いどこか別の世界にあるような出来事と実際の人物とがイコールで結ばれる瞬間の衝撃とは如何なるものか?

「あんたそりゃあ、その……大変だったんだねえ」

「うん、大変だった」

「詳しいことは聞かんわ。女には色々あるもんだわね」

 その言葉から私は、母の人生の年輪の実在を感じ取った。含蓄のある言葉だ。きっと昔の私が聞けば、そうは思わなかったろう。

「話は色々したいけど、電話じゃなんじゃん。どうするね、私が東京に行こうか?」

「いやあ、やめた方がいいよ? きっと新宿駅で目、回しちゃうと思うよ。お母さんたち」

「何よ! 田舎者って馬鹿にして!」

「事実だもん」

「本当もう……あんたは昔から口が減らないんだから!」

 母は沈黙した。私は言った。

「一度実家、帰るよ。そこで話そ。色々考えてることもあるし」

 私は言った。

「積もる話もあるからね」

 この電話から数日経って、私は新幹線に乗って実家へ帰省した。品川駅から新幹線に乗って三島を経由して、東海道本線で富士。そして地元・富士宮駅へ。

初めて自分一人で行った時に人が多いと感じた富士駅も、今になってみると寧ろ閑散しているような気さえしてくる。多分、富士駅は何も変わっていない。変わったのは、私の方だった。

そうして富士宮駅まで行くと、そこは田舎の駅そのもので、人も物もあまりに少ないので、それだけでもちょっとおかしいと思う。

 けれども、昔の私と今の私は違う。今はこう、考える。

「これで十分、なのかもしれないなあ」

 何が、とまでは言えない。しかし、今の私にはそのように映る。これ以上、何が必要だと言うのだろう。

父が車で迎えに来る。兄も乗っている……別に、歩いていけるのにとも思ったが、私は実家の好意に甘えることにした。

 父は言った。

「菜摘」

「……はい」

 私は叱られるのかと思った。そうじゃなかった。

「お疲れ様」

 確かに、そう言った。

 兄は言う。

「有給取るの、結構騒ぎだったんだぞ。皆勤賞の山本さんが唐突にいきなり、準備もなしに休むって言うのかって。事務さんにものすごく怒られた」

「あはは……」

「まあ、いいんだけどさ。普段会社から無理言われてんだから、たまにはこっちから無理言ってやんないと」

 その言葉から私は、兄は私の知っているあの兄ではなく、しっかりと社会に基礎を持った大人になったのだということを理解した。

 実家に帰ると、祖母と母が待ち構えていた。

「よく帰ったなあ。なっちゃん」

 祖母はそう言って涙を流す。その背中がやたらと小さく見えて、私は少しだけ悲しい気持ちになった。

「ちょっと、やめてよお婆ちゃん。ご近所さん見てるよ」

 祖母は何も言わなかった。母一人が静かに言う。

「ほら、家に入りな」

 私はキャリーケースを引きずって、家に入る。十年以上住んでいたはずなのに、その家は他人のもののような気がした。傷が増えて古くなって……。

 私はわざとらしく、こう言ってのける。ただいま、と。

 考えてみれば。

勝手に一人で家を出て、両親に怒られて、家族と大喧嘩して、声優を目指すと言って……色々あって。ここまでの道のりは、長い長い旅のようだったなと、私は考える。

それから数日、家では私の帰省を祝すパーティーが開かれる。品目はあの頃と、兄が就職を決めた時の頃と代わり映えしない。

「なつ。お前やたらと酒に強いな」

 動きが緩慢になった祖父が私にそう話す。

「なっちゃん。お疲れ様」

 祖母はそう言って、私にビールを注ぐ。

「本当、東京って大変なとこなんだなあ」

 酒宴の最中、母はそう言葉をこぼす。

「菜摘。お前めちゃくちゃ垢抜けたよ。富士宮なら相手を選び放題なんじゃねえかな」

 兄はそう言って、笑う。

 父は言う。

「菜摘。本当によく頑張った」

 ちょっと前までの私なら、この場で何か演技をしただろう。喜ぶ演技。相手を持ち上げて、印象を良くするための動作を行ったろう。けれども私は、それをしなかった。私の今は、そうじゃないから。

兄と父が強く酔い、祖父が早い時間にもう寝ると言い出して、酒宴は解散となる。後片付けを手伝おうとする私を、母は制止する。

「主賓は黙って、そこに座ってなさい」

 私は一人そこに取り残される。私のぶんのお水だけが机にある。

 そうしてひとしきり、片付けが終えられると母と祖母が二人一緒に来るので、私は言った。

「ねえ、母さん」

 母は言った。

「どうした?」

「私さ……看護学校、入ってもいいよ。別に、構わない」

 私は真剣に言った。けれども……母は笑った。

「何を言い出すかと思ったらあんた、そんなこと言うの? 本当にそう……笑っちゃうわ。今更、どうでもいいじゃない」

 これを言い出したのは祖母であったことを私は覚えている。しかし祖母はこう話す。

「そんな話、あったっけ……あったような、なかったような」

 まあいいわ。母は話す。

「あんたがそうしたいなら否定はしないけど、もう無理やりにやらせようなんて思わないよ」

 だってあんたは。母はこう言った。

「なっちゃんはもう、大人なんだから」

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