第2話

「標本?」


「うん。何でも、貴重な病態だったから研究用に保存させてくれって、病院からお願いされたんだって」


「へえ、じゃあ、おばさん、見えないだけじゃなくて目玉がないってこと?ええっと、両方?」


「うん。両方ない。標本になったのは片方。酷かった方」


「じゃあ、もう片方は?」

「…知らない。両目とも同じ病気で、眼球は取らないといけなかったらしいんだけど標本になったのは片方だけだって、」


 それ以上説明材料がないのだろう、こずえちゃん自身も考え込んでしまった。

 ぼくは当時すでに家を出て、東京でバイトしながら専門学校に通っていた。とにかく自立しなければならない一心で余裕がなかった。おばさんを頼ることはできない。まして、失明したおばさんに心配をかけるわけにはいけない。



 「全部見てた」

 ふとした瞬間、あのときおばさんがぼくに言った言葉が浮かんでくる。


 それは夕方、渋滞した道路に延々連なる赤いブレーキランプを見つめる時や、踏切で遮断機が降りてきて、目の前で赤いライトが交互に点灯する時だ。

 どっちの眼で見ていたんだろう。標本になって保存液に浸かっている方だろうか。それとももうどこかにいってしまった方だろうか。

 いじめを目撃したせいで、それらの眼が失われてしまった、そんな因果関係を、にっぽんむかしばなし風にストーリー展開させてみたけれど、無意識に始まったおはなしの結末はリアルさに欠けていて、やがて頭の中でけむに巻かれた。

 

 取れる限り資格を取って、就職した会社の勤務地が海外だったこともあって、義眼のおばさんに初めて会ったのは、それから何年も経って、ぼくに娘が生まれた時だった。


 晴天の空の下、おばさんは白杖を片手にこちらへ向かってきた。

「久しぶりねえ、」

 ぼくの名前をど忘れしてしまったのか、そこから先は無言になってしまった。ぼくは生後半年の娘を連れて、おばさんの住むホームを訪ねていた。視力を失ったおばさんは精神的に不安定になってこの数年の間、精神病院の入退院を繰り返していたという。六十五歳になり、介護保険が使えるようになって独居の借家から介護付きホームへと転居したという。

 全部、最近知って、今まで全く教えてくれなかったこずえちゃんを呪った。

「だって、みどりくん、忙しそうなんだもん」

 当然こずえちゃんは悪くない。そんなことくらいぼくにもわかる。本当に心配しているなら、自分からおばさんに会いに行けばよかったんだ。



「あかちゃん?」

 まだ言わないうちに、気配でわかったのだろう。おばさんは期待に満ちた声で周囲を見回す仕草をする。もちろん、何も見えない。

「娘です」

 ぼくは叔母さんの手をとり、娘の手を乗せる。

「わあ、やわらかい」

 笑顔のおばさんはサングラスをかけて、白髪で、かつてのおばさんとは全く別人だった。


 あのころ、おばさんの目は多分、月ばかり見上げていた。


 夜勤専従看護師だから、おばさんはあまり太陽の光を浴びなかった。

 ぼくらが学校から帰ってくると大抵、今起きた、というぼんやりした顔で、それでもちゃんと起きて、おかえり、と言って笑った。

 小柄で細身のおばさんの、色味のない肌は陶器のようでそこに浮かび上がる目は小さな黒い石のようだった。


「覚えてる?おばさん。ぼくがいじめられていた時、おばさんがひそかに学校で起こったことを全部見ててくれて、それで学校にそれを話してくれたこと」


 ぼくは、当時の思い出を口に出す。その途端、色々と出来過ぎていることに気が付く。


「…あれ、だけどおばさん、ほとんど毎日、夜勤に出てたよねえ。眠らずに、こっそり学校に行って、昼間の出来事全部見ててくれたんだろ」


「ああ、あれはうそ」


 それから打ち明けられたのはすごく現実的なことだった。

 いじめられているのではないかと疑ったおばさんは、ぼくが朝、学校に出かける時、ボイスレコーダーをランドセルに取り付け、ぼくを見送ると眠った。

 帰宅したぼくから、そっとボイスレコーダーを外し、編集し、必要な情報をまとめた。いじめが十分に確証できる状態になったら、学校に情報提供した。


「月がね」


 おばさんは見えない空を見た。


「月が教えてくれたの」


 太陽しかぼくには見えない。


「夜中、仕事にでるとき、いつも月を見てた。あの日は満月だった。それが急に暗くなって、だんだん赤くなって。奇妙な夜だった。まるで大きな目玉みたいで怖かった。でも、見ているぞ、っていっているようでもあった。みんな眠っている中、仕事して、みんなが起きてる時間はグーグー眠って。わたしが頑張っている時間って世の中じゃ、なかったことになってるんじゃないかって。でも、あの大きな目玉が見ている。

 その月食の夜、仕事を終えて、すっかり明るくなった空に、ぼんやり浮かび上がる月を見たの。昼間の月は、ほとんど空と同化していた。月食のぬらぬらと空に浮かぶ目玉だったあの月の面影はまるでなかった。

 でもわたしはあの昼間の月になら、なれると思った。姉さんの息子のみどりくんを昼間の月みたいに静かに見守ろうって」


 名前、覚えてくれていた。

 

「だけどもう、おばさんの眼、標本になっちゃったね」


 もっと他に言うことはあるのに突如出たのはそんな言葉だ。

「うふふ。知ってるの?わたし、病院で、時々自分の眼を見せてもらってるんだ」


 おばさんはシルバーカーの物入れから、ちいさな小瓶を取り出した。

 目玉の標本だったらどうしようと思ったけれど、それは飴玉だった。


「はい、ひとつどうぞ」


  月の表面に、小さな黒い小石がふたつ、落ちている。

 おばさんの眼がそこから地球のぼくらを、見守っている。

 



 

 


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眼球 机田 未織 @mior

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