眼球
机田 未織
第1話
叔母さんの目が失明したと聞いたのは、皆既月食の、冷たい夜だった。
月が地球の影にすっぽり覆われ、暗闇が訪れた。
そういえば、と従妹のこずえちゃんが夜空を見ながら口を開いた。仄白く浮かび上がる吐息は、この闇が三次元空間だと再認識させる。
「かあさん、失明したんだ」
「へ?どーいうこと?いつ?」
「右は一週間前。左は昨日」
いつ、と聞いたから、こずえちゃんはいつだったかを律儀に答える。
聞きたいのはもっと違うことだ。
いつからそんな事態になっていたのか、または急にそれは訪れたのか?会っても、叔母さんにはぼくが見えないのか?何も見えないの?本当の真っ暗?どうして今教えてくれるの?事前にわかっていたの?わかっていたなら最後にちゃんと会いたかった。
……、そんな色々を思ったけれど、今度は四百年に一度の、惑星食という現象が起こるとかで、こずえちゃんは望遠鏡にかじりついてしまった。
ゆきこおばさんは、ぼくの母親の妹だ。女手ひとつでぼくを育てていた母は,ぼくが小学生のころに癌で亡くなった。
自分もシングルマザーだというのに、ゆきこおばさんはぼくを引き取って自分のこどものように育ててくれた。
おばさんは夜勤専従看護師として働いていた。
夜中、ぼくらを置いて、きっちり鍵を閉めると仕事に出かけ、朝、ぼくらが学校へ出たあと、仕事を終えて戻ってくる。
淋しくはなかった。
ぼくらが眠るまでおばさんは隣の布団でぴったり寄り添って一緒に眠った。寝つきのよいぼくは、一緒に暮らした約十年、夜中におばさんがでかけるところを一度も見たことがなかった。
おばさんの失明を聞いて以降、月は眼球にしか見えなかった。
次第に欠けてゆく月は、赤みを帯び、やがて濃い褐色になり暗闇に飲み込まれていく。
「ふたつ、揃っていないといけないってわけじゃない」
「でも、両方なくなると、困るよね」
もちろん、こずえちゃんは目のことを言っていたんだろう。
「それまで見たものは、どこにいくんだろ」
「どこに」
「どこかにいくの」
「取り出せないところかな」
「月の、ずっと影の部分、とか」
ぼくは小学生のころ、いじめられていた。
あれに、原因なんてあったんだろうか。もしぼくの何かが気に障るとしてもそれとこれとは違う、と断言できる酷さだった。今なら自信を持ってそう言える。でも、当時のぼくは「彼らにこの行為をさせるほどにぼくには何かしらの欠陥があるに違いない」という思考回路を知らずのうちに作るとそこをぐるぐる回らされていた。人間性を否定される言葉を毎日浴びると、おそらく人はそうなる。今なら冷静に分析できる。
陰湿ないじめは日に日にエスカレートした。
訳もなく殴られる日々。
ある日青あざが腕の内側にできているのを、お風呂場にせっけんを持ってきてくれたおばさんに見られた。転んだだけ、とぼくは言い、おばさんも、「そう、気を付けて」確かそう言ったはずだった。けれどその次の週、おばさんは妙に確信を込めた眼をして言ったのだ。
「おばさん、全部見てたから大丈夫」
次の日、仕事が終わって不眠のおばさんは、いじめの事実を突き止めるために昼過ぎまで教師たちの証言を集めたらしい。
ぼくをいじめたメンバーは皆、然るべき制裁を受けた。
ぼくは卒業を機に、電車で少し遠い中学へ通うことにした。それ以来ぼくはもう誰にも理不尽にいじめられることはなかった。
知らずのうちに人を不快にさせる欠陥なんてぼくにはなかったことがわかったし、何よりぼくは何も悪くないとわかった。
あの頃からだ。
おばさんは眼科に通うようになった。
どうしたの?と尋ねると、「老眼がきたのよ」と、おばさんはチャーミングに笑った。
おばさんの眼球が標本にされている、とこずえちゃんが冗談みたいに教えてくれたのは、皆既月食からさらに一週間後の夜だった。
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