呪いの家

薄暗い家の中。玄関から真っすぐと伸びた廊下と、二階に続く階段が目に入る。その光景は映画で見たものと同じだった。

土間の隅に目をやると、そこには虫の死骸と古い男女の草履が無造作に置かれていた。

松田は懐中電灯で辺りを照らす。家の中は長く掃除をされていないようで、カビのにおいが漂い、床はゴミと土や泥で汚れ、天井には蜘蛛の巣があちこちに張られていた。

二階へ続く階段の途中には、人を阻むように荷物が積み上げられていた。

松田と広瀬は家に上がると、一階を探索しはじめた。廊下の途中にある浴室やトイレは、ドアが壊れていて開かず、隙間から中を覗くと、壁や床にはヘドロのようなものがこびりついていた。においも酷く、二人はすぐにそこから離れた。

廊下を進むと、そこには広いリビングとキッチンが繋がる部屋があり、廊下は映画通りにL字に伸びていた。

二人がリビングを覗くと、家具は当時のまま残っていて生活感が漂っていた。だが窓ガラスが割れていてそこから獣が入り込んだのか、部屋は荒れていて床はガラスの破片と泥とガラクタで足の踏み場がなかった。天井には獲物を待つ大きな蜘蛛が巣を張っていた。

松田が部屋に一歩踏み出すと、床が音を立ててわずかに沈んだ。床が腐っている。そう感じた松田は、踏み出した足を引いた。

その時、ふと視界の隅で人影を捉えた。とっさに廊下の奥に顔を向けるも、そこには誰もいないが代わりにあるものが目に入った。それを見た松田の心臓は激しく鼓動した。

それは廊下の突き当りにある、地下室に続くドアだった。

「あの先だ」

ギシリギシリと軋む廊下。

ドアに近づくにつれ、少しずつ空気が重くなるのを松田は感じていた。

ドアにはまるで封印するかのように古い板が打ち付けられ、周りにはテープのようなものが張られていた。かなり古いようで、指で触れるとパリパリと崩れ落ちていく。

「封鎖されている」

ドアの先にあるのは地下室へ続く階段。そこで、紗夜子という女が監禁され、酷い扱いを受けた挙句に恨みを抱いて死んだ。その地下室では、犯人であるこの家の男も同様に死んでいる。呪いはきっとそこから始まっている。

ドアに打ち付けられていた古い板は、道具があれば剥がせそうだった。

だが、ドアノブには小さな古い南京錠がかけられていた。

「鍵がかかってる。鍵を探さないと」

「この南京錠って、きっと今の管理者がつけたんだよね? この家に残っているかな」

「わからない。とりあえず探してみよう。鍵が見つからなければ工具を探す」

「悪巧みだね。見つかったら怒られそう。じゃ、二手に分かれて探してみようか」

「床が腐っているところもある。気をつけろよ」

松田と広瀬は、別々に鍵と板をはずすための道具を探し始めた。

 

 《広瀬の兄》

呪いの家に入っていく松田と広瀬を見送った広瀬の兄。二人の影が玄関のガラス戸から消えると、周囲の木々が音を立てながら風に揺れた。家からは禍々しい空気が漂い、妹のことは心配であったが後を追うことは出来なかった。

広瀬の兄はスマホゲームで時間を潰そうとした。しかし、スマホを見ると圏外なうえに充電がわずかしかなく諦めた。

ため息をつきながら顔を上げた時、呪いの家の隣に立つ小さな診療所が目に入った。コンクリートの壁は呪いの家と同じく蔦が這い、外壁の一部が剥がれ落ちていた。看板の文字は擦れ、診療所の文字だけが微かに残っているようだった。

入口のガラス扉や窓も、土埃で汚れ、ヒビが入っていた。廃墟になってから、かなりの年月が経っているようだった。

診療所からも気配を感じていた広瀬の兄だが、そこから漂う気配は「怒り」や「憎しみ」というよりは、「喪失感」や「悲しみ」だった。

汚れた窓ガラスから室内を覗き込むと、そこは受付と待合室のようだった正面には受付カウンターがあり、その両脇に扉があるようだった。

待合室には無造作に置かれたテーブルや椅子があり、床にはゴミが散乱していた。


人の気配はもちろんない。広瀬の兄が玄関の扉を押した。すると、扉は途中まで開いたが、何かに当たりそれ以上は開かなかった。

見れば、扉の向こう側に土嚢のような袋が置いてあった。

力を入れると土嚢の袋はわずかに動いた。

広瀬の兄は扉に体重をかけて押し込んだ。

すると、扉は土嚢とともに開いた。

中に入ると、埃のにおいが充満していた。至るところに埃が積もっていた。

壁に張られたポスターや告知も、何が書かれているかわからないほど字は擦れていた。壁掛け時計もまた、その役目を終えていた。

左右に伸びた通路の先には、扉のない入り口と重苦しい扉があった。それぞれの入口の上にはプレートがあり「診察室」「処置室」「病室」「事務所」と書かれていた。

そして、広瀬の兄は扉のない病室に足を向けた。


「病室」

入口にドアがなく、床には汚れた布が落ちていた。広瀬の兄は、それを跨ぐと病室の中に入った。

大きな窓ガラスがある病室は、そこから射し込む光で明るく、外の景色がよく見えた。少し開いたその窓からは、時折涼しい風が入ってきた。

だが、床は土で汚れ、壁はところどころカビが広がっていた。

病室の両脇には古いベッドが置かれ、その上には汚れたシーツと快適とは無縁そうな枕がそのまま放置されていた。

ベッドの横に古いチェストがあり、広瀬の兄が引き出しを開けてみたが何も残っていなかった。

そして、広瀬の兄はその病室を出た。


「診察室」

部屋に入ると布部分が黒く変色して朽ちている衝立と、その向こうに机と椅子が並んでいた。その横には、埃まみれの診察台があった。

壁際には大きな扉付きの棚があった。片方には薬品の瓶が無造作に置かれ、片方には色別の分厚いファイルが残されていた。

瓶の中身は空のものもあれば、当時のまま残っているものもあった。

ファイルが気になった広瀬の兄は、棚の扉を開けようとした。

すると、建付けが悪く強引に開けた拍子に薬品の瓶が一つ床に落ちて割れた。黒い液体が床に広がると、血生臭いにおいが漂い顔をしかめた。診察台の下に薄汚れたシーツを見つけ、それを上に被せた。

棚からファイルを一冊引き抜くと、広瀬の兄は埃まみれの椅子に座りファイルを開いた。それは一般患者のカルテのようだった。

カルテには患者の名前と症状、病名、処置方法や薬の名前などが書かれ、同じ名前のカルテがいくつか存在した。すべてのカルテには「廣田純一郎」という医師の名前が書かれていた。達筆なその字は、その人柄を表しているようだった。

そして、また別の色のファイルを手に取った。そこに書かれていたのは、妊娠、出産に関わるものだった。検査日、出産予定日、胎児の様子、出産後の経過などが細かく書かれていた。

そのカルテも同じ医師の名前が書かれていた。それらのファイルは、診療所が廃業になっても、そのまま放置されていたようだ。

それらは何の変哲もない、ただのカルテだった。

広瀬の兄は持っていたファイルを棚に戻すと、机の周囲を調べ始めた。壁に飾られたカレンダーは、今から四十年以上も前のものだった。机の上には医学書関係の本が並び、上には未整理のカルテと、何やら契約書らしき紙がしわくちゃの状態で散乱していた。どれも長い年月が経っていて文字は読めなかった。

引き出しには、ガラクタ以外には何もなかった。他にめぼしいものもなく、広瀬の兄は診察室から出ようとした。


その時、どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえた。

「は? 嘘だろ。こんな廃墟に赤ん坊? いやいや、違う。この声は赤ん坊なんかじゃない」

とっくに廃れた診療所。他に患者もいなければ、医師も看護婦の姿もない。そんな診療所に赤ん坊なんているはずがない。そう思いながら、広瀬の兄は診察室から外に出た。


診察室の隣にある事務所は、ドアノブが完全に壊れているようで、力ずくで開けようとしてもびくともしなかった。ただ、聞こえてくる赤ん坊の泣き声はその部屋からではないようだった。


そして、最後に残った部屋。そこに近づくほど、赤ん坊の泣き声が大きくなる。扉の上には、どす黒いタールのようなものがこびりついたプレートがあり、そこには「処置室」と書かれていた。

扉の向こうから聞こえてくる赤ん坊の声に広瀬の兄は息を呑んだ。心臓は今にも張り裂けそうなほど鼓動していた。

意を決し、処置室の扉を開けると、赤ん坊の泣き声がぴたりと止んだ。

広瀬の兄は安堵し、そのまま中に入っていった。


 《呪いの家(松田・広瀬)》

一方、松田と広瀬は扉の鍵と工具を探していた。

松田は一階にある和室にいた。そこには古いタンスが二棹と、古い木製の化粧台が置かれていた。畳は歩くたびミシリミシリと音を立てながらやや沈み、格子型の窓ガラスは割れ、外の草木が顔を出していた。押入れの襖は半開きで、ところどころ破れていた。

松田がタンスを開けてみるが、どちらも中には何も残っておらず空っぽだった。唯一残っているのは、とうに役目を終えた乾燥剤だけだった。

化粧台の引き出しには、使いかけの口紅や油紙、そして古い白黒の写真が入っていた。写真に写っている人物は、背広姿に眼鏡をかけた細身の初老の男性。少し気難しそうな顔をしていた。

犯人の写真だろうか。

そう思いながら、松田がふと顔をあげた。

埃の被った化粧台の鏡に、自分の顔がぼんやりと映っている。指でなぞると鏡についた埃が拭き取られ、自分の顔が良く見えるようになった

その時、松田の背後で押入れの方を向いて立っている黒い人影が現れた。松田はとっさに振り返ったが、黒い人影はもう消えていた。

松田は気になり、半開きになった襖に恐る恐る手をかけると、中から壁を引っ掻くような音が聞こえ、驚いた松田はとっさに手を止めた。

次の瞬間、押入れの隙間から大きなネズミが飛び出し、割れた窓ガラスから外に逃げていった。

腰を抜かしながらも、ネズミだったことに安堵する松田。

改めて押入れを開けると、そこには大量の糞があり、ネズミの住処となっていた。その奥で、埃の被った段ボールが一つ残っていた。引っ張ってみると、何か入っているようで重かった。

松田は段ボールの上に積もった埃を手で払い、その蓋を開けてみた。

そこには写真アルバムが何冊か入っていた。表紙を捲ると、古い白黒写真で正装姿の男女と若い女性と青年が並んで写っていた。だが、四人の顔はどれもサインペンで塗りつぶされていた。他の写真も同様だった。

「なんだよ、この写真」

段ボールから他のアルバムを拾い上げると、その下に裏返った大きな額縁と黒い縦長のものが目に入った。そこが何かの賞状や絵だと思った松田は、何の躊躇いもなく表を返した。

すると、それは白黒の男性の遺影で、化粧台の引き出しに入っていた写真の人物だった。額縁はもうひとつあり、それは初老の女性の遺影だった。

黒い縦長のものは位牌だった。位牌の文字は擦れて読むことは出来なかった。

「なんでこんなものが押入れにあるんだ」

その瞬間、目の前の段ボール箱がただの思い出の詰まった箱から、触れてはいけない禍々しい箱へと変わった。

松田はすぐに蓋を閉じると、押入れの中に戻した。

「松田君、ちょっと来てくれない」

リビングから広瀬の大きな声が聞こえた。

松田は探し終えた和室を出ると、広瀬がいるリビングに向かった。

「どうかした?」

リビングを覗くと、広瀬はキッチンの方でノートらしきものを見ていた。

「ちょっと、これ見て」

松田は軋む床を慎重に歩きながら広瀬に近づいた。

キッチンカウンターの上に、ノートが二冊置かれていた。そこには「料理法」と書かれ、表紙を捲ると文字通り料理のレシピが手書きで細かく書かれていた。

「料理本がどうした?」

「こっち!」

そう言うと、広瀬は分厚いノートを松田に差し出した。

そのノートは古くてボロボロで、表紙は何も書かれていない。表紙を捲ると、日付と文字が書かれ誰かの日記のようだった。

「日記か。どこにあった?」

「キッチンの引き出しのずっと奥の方に、料理本の下に置いてあった」

「なんでそんなところに?」

「さぁね。私なら金庫に入れるけど」

「金庫ってお前」

「その日記、結構やばいこと書かれてあるよ」

松田は日記を開いた。


××年××月××日。

今日から正式に父の診療所で看護婦として働くことになりました。これからは、診療所でも母の代わりに父を支えていくつもりです。

遠い地で入院している母の病状は厳しい。けれど、母は常に気丈に振る舞い、家族のことを気にかけてくれます。

それなのに、父は母の見舞いに行こうとしません。ここを離れるわけにはいかないと。母も強くは望んでいないようです。それはこの診療所が、村で唯一の医療だからでしょう。けれど、もう少し母を大切にしてほしい。

弟の和雄に連絡を入れてみたけれど、忙しいと電話を切られてしまいました。研修医になってから、弟はどこか苛立っているようで心配です。また四人で仲良く暮らせる日が来ることを私は祈っています。


××年××月××日。

思えば、昔から不可解なことがありました。

普段、父は無口ですが優しい人で、村の人からもとても慕われています。

私と弟が幼い頃、よく診療所で勉強を見てもらったり、患者さんに遊んでもらったりしていました。しかし、私だけ診療所から追い出されることが時々ありました。

しかし弟は許されていて、私は不公平さを感じていました。いつだったか、内緒で中に戻ろうとして見つかってしまい、叱られた挙句に鍵までかけられました。

理由を聞いても教えてはくれず、弟も父に口止めされているようでした。

そういう日は、決まって見知らぬ妊婦さんが診療所に来ておりました。お産の邪魔になるからと思っていましたが、弟はどういうことなのか……。

大人になった今でもそうなのです。

今日、父からまた診療所を追い出されました。診療所には、村の人ではない妊婦の患者さんが来ていました。

診察時間を終えた後、父から家に帰りなさいと。日が明けるまで診療所に入るな。と言われました。助産師の資格があると伝えても、入れてはもらえませんでした。

一体、父は何をしているのだろうか。


××年××月××日。

今日は母のお見舞いに行きました。

ずっと疑問に思っていたことを、母に尋ねましたが教えてはくれませんでした。

「ごめんなさいね」とただ謝るだけでした。

 そんな母は会うたびに痩せていきます。

顔色は悪く目は窪んでいきます。

どうか神様。母をお助けください。


××年××月××日。

母が亡くなりました。


その日記から、家族構成を知ることが出来た。

家の隣に建つ診療所は、日記の著者の父親が医師として働き、母親が看護師として働いていた。

患者の多くは、麓にある村で暮らす人々。

診療所は産婦人科も兼ねていて、他県からも患者が訪れていた。

母親が病気で他県の病院に入院してから、娘が看護師として働きだした。

弟の和雄は、医師になるために他県の病院で研修医として働いていた。

この人物が監禁事件の犯人だろうと松田は察した。

日記には両親に対する疑念が書かれていた。

筆者が幼い頃から、見知らぬ妊婦の患者が来ると追い出され、それは大人になり看護婦として働きだしてからも同じ。父親は一体何をしていたのか。

松田が日記の続きを読もうとした時、広瀬のスマホが鳴りだし、着信音に驚いた広瀬がびくりと肩を震わせた。

スマホを見ると、「兄貴」と表示されていた。

「兄貴からだ。面倒くさいな。出るのやめようかな」

鳴り続ける着信に、面倒くさそうな顔をしている広瀬だった。

「ちゃんと出てやれよ」

松田に促され、広瀬はため息をつきながら電話に出た。

「もしもし?」

電話の向こうから酷い雑音が聞こえる。

「もしもし? なんか、電波ひどいんだけど」

 雑音にイラつく広瀬。

「……こっちに来てくれ……」

ようやく聞こえた兄の声。

「今、こっちで探し物しているんだけど!」

「……こっちニ来てクれ……」

「後でいいでしょ?」

「……こっちニ来てクれ……」

繰り返すその声に違和感を覚えながらも、広瀬は渋々「わかった」と伝え電話を切った。

「まだ探し物見つけてないのに。兄貴が来てくれってしつこいから、ちょっと行ってくる。すぐに戻るから」

「ああ、わかった」

松田がそう返事をすると、広瀬は足早にリビングを出て行った。


《診療所・処置室(広瀬の兄)》

 一方、広瀬の兄は処置室にいた。

処置室の中はひんやりとした空気が漂い、薬品のにおいが漂っていた。壁は黒ずみ、床には汚れた布やゴミが散らばっていた。中央には古びた手術台があり、空っぽのカートは全体的に錆びついていた。無影灯は黒く汚れ、電球は割れていた。

壁際に置かれた棚には、埃まみれの薬瓶が並び、その向こうには赤黒く汚れた布が置かれたテーブルがあった。その赤黒く汚れた布は、何かを隠すように膨らみがあった。そして、よく見るとそれは呼吸をするかのように、わずかに上下していた。

脳裏に浮かぶ赤ん坊の声。広瀬の兄は指先で恐る恐る布を捲りあげた。だが、そこにあったのは赤ん坊ではなく、黒ずんだ古いノートだった。


《呪いの家(松田)》

一方、一人になった松田は日記の続きを読む。


××年××月××日

今日、弟が何の連絡もなく突然家に帰って来ました。驚きましたが、私はどこかうれしかったのです。

けれど、問題がありました。

研修医として勤めていた病院を辞めてきたそうです。それどころか、医者もやめると言い出しました。理由を聞いても答えず、部屋に籠ってしまいました。せっかく父も喜んでいたというのに。一体、何があったのかしら。

弟の顔はどこか思い詰めている様子で、気持ちも不安定なようでした。

父も弟のことを心配しています。早く以前の弟に戻ってくれるといいけれど。


××年××月××日

今日も、弟は部屋に閉じこもっています。

用事がある時にだけ、部屋から出てきます。

目は虚ろで疲れた顔をしています。父が薬を処方しようとしても拒否し、相談に乗ろうとしても、弟は何も話してはくれません。

母がいてくれたらと常々思います。偉大さを実感しました。

私に弟を支えられるでしょうか。


××年××月××日

弟が時々、森に出掛けるようになりました。

外に出ることはいいことです。

この山は自然が豊かで鳥や動物も多い。

きっと心も体もいい方向に向いてくれるはず。

弟が以前のように戻れば、父の診療所をいつか継いでくれるでしょう。


××年××月××日

弟の部屋から異臭が漂ってきます。

ドア越しに尋ねても、部屋の中にいる弟は無反応。

昼過ぎに食事を取りに来た弟の手と服には、血痕がついていました。

嫌な予感がして、私が問い詰めると、弟は私のことを睨み、料理をすべてひっくり返してしまいました。

それに怒った父は弟を殴りました。

すると、弟は奇声をあげながら、自分の部屋に閉じ籠ってしまいました。

床に落ちた料理を拾いながら、私は悲しくて涙が出ました。

それでも、私は弟のことが嫌いになれません。それは、産まれたばかりのあの子の笑顔と、私の指を握ったあの小さい手が今でも忘れられないからです。

それを思い出すたび、私は弟を愛しく思ってしまうのです。


××年××月××日

朝、父が亡くなっていました。

父は布団の上で、土下座をするように体を丸め、見開いたその目は真っ赤に充血していました。口からは大量に吐血し、布団はまるで血の海でした。

その姿を見て、私は父が生前こぼしていた言葉を思い出しました。

「私はきっと安らかには死ねないだろう」

理由を尋ねても、教えてはくれませんでした。

一体、父はどんな罪を犯してしまったのでしょう……。


××年××月××日

今日は父の葬儀でした。

それなのに、弟は部屋に籠ったまま。父を見送ったのは私だけとなりました。

村の人たちから、何故勝手に葬儀を済ませたのかとお叱りを受けましたが、あのような父の姿をよそ様に見せるわけにはいきませんでした。

きっと、父もわかってくれると思います。

葬儀が終わって家に帰ると、弟は狂ったように笑っていました。

父が死んだことを、まるで喜んでいるようでした。

 私はそんな弟を見て、悲しみとほんの少しの怖れを感じました。


××年××月××日

弟が突然、家に地下室を作ると言い出しました。

住んでいるのは今や私と弟の二人だけ。部屋が足りないということはないはずです。

 それなのに、地下室を増設するだなんて。用途を聞いても答えませんでした。

 弟はすでに決めているようで、どこかに電話をかけて建築のお願いをしていました。

その時の表情は、とても生き生きしていて終始笑顔でした。

私は弟の笑顔が大好きでした。医者を辞めて帰って来てからも、また笑顔に戻れることを望んでいました。

けれど、その時の弟の笑顔を見て、何故か鳥肌が立ったのです。

同時に、何か嫌な予感がしました。


日記には、診療所の事も書かれていた。

医者を失くした診療所は、しばらくは看護師である長女が対応していたが、やはり限界があり廃院となった。

長女は隣の村の医師に頼み込み、そちらに行くよう村人たちに伝えたと。

村人は跡継ぎとなる和雄を待っていたが、『弟は大都市の病院で活躍していて戻って来られない』という長女の嘘に騙され、それは叶わなかった。

長女は、『弟が家にいることを誰にも知られないように』と、生前父からずっと言われていたのだった。それを守っていた。

医者である父、純一郎が死んだことを知らずに訪れてくる妊婦の女性は、事情を聞くと落ち込んだ様子で聞き入れる。

診療所で出産は可能だと伝えても、みんな出産を拒否した。そして、長女に何かを言いかけ帰って行く。

結局、何が目的でこんな山奥の診療所に来るのか、長女にはわからなかったようだ。

そして、地下室が完成する。

急ごしらえで作られた地下室は、薄暗くて湿った空気が漂っていた。それは、まるで牢獄のようだったと書かれていた。


松田が日記のページを捲ろうとした時、廊下の方から女のすすり泣く声が聞こえた。

家には誰もいないはず。

まさか紗夜子が現れたのか。

松田は物陰に隠れながら様子を伺った。

すすり泣く声が近づいてくると、リビングの前の廊下を白衣姿の女が横切った。それは紗夜子とは別人のようだった。

松田はテーブルの上に日記を置くと、音を立てないように廊下に顔を出した。白衣の女は松田に気づいていない様子で二階に続く階段へ曲がった。そして、かすかに階段を上っていく軋む音が聞こえた。

「二階に行ったのか?」

家に入って来た時、階段には塞ぐようにして物が置かれていた。それらを動かす音はしなかった。

松田は不思議に思いながら、白衣の女を追いかけ廊下に出た。

その時、突然酷い耳鳴りに襲われて視界が歪んだ。松田はとっさに目を瞑り、耳を塞いだ。

すぐに耳鳴りは止み、目を開けると家の雰囲気が変わっていた。割れたガラス戸は元通りになり、廊下に落ちたゴミも、壁の汚れも、天井の蜘蛛の巣も消えていた。浴室やトイレのドアも、まるで人が暮らしていた頃に戻ったかのように綺麗になった。地下室へのドアは施錠はされているが、封鎖していた板がなくなっていた。

松田は白衣の女を追いかけ階段に向かった。

玄関の扉はヒビもなく、階段に置かれていた物も消えてなくなっていた。

「どうなっているんだ……」

松田は戸惑いながらも階段を上り、二階へ向かった。


二階は一階よりも明るく、一階よりも荒れていなかった。

廊下に白衣の女の姿はなく、すすり泣く声も消えていた。足音も聞こえず、人の気配もしなかった。

松田が階段に近い部屋の襖を開けた。そこは六畳ほどの何もない和室だった。中に入ってみると、年季の入った壁や天井は変色していて、ヒビが入った窓ガラスはガムテープで補強されていた。畳は所々黒く腐食していた。

ふと押入れに目を向けると、破れた襖が少しだけ開いていた。隙間を覗くと、中板の上に紙の切れ端があり、そこには何か文字のようなものが書かれているようだった。

松田は気になり襖を開けた。

すると、目に飛び込んできたのは赤黒いインクでびっしりと書かれた文字だった。

『お願い許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許シて許しテ許シテゆるシテ許しししし死死》

文字はだんだんと原型を失い、最後には読めなくなっていた。

それを見た松田は、あまりの気味悪さに血の気が引いた。だが、裏にも何か書かれているかもしれないと思い、紙の切れ端に触れた。

その瞬間、再び激しい耳鳴りに襲われた。

松田は顔を歪めながら、とっさに耳を塞いだ。紙の切れ端に書かれた赤黒い文字が、鮮やかな赤に変わっていく。

思わず目を閉じた松田は、暗闇で白い服を着た紗夜子の姿が浮かび上がり、とっさに目を開けた。

ようやく耳鳴りが収まり、松田は耳を塞いでいた手を離した。

「許して……」

背後から声が聞こえた。それは弱々しく、絞り出すような声。そして、今まで感じなかった人の気配と軋む音。

松田は恐る恐る振り返った。


すると、そこには天井から伸びた縄で首を吊っている白衣の女がいた。その目は力なく虚空を見つめ、体は振り子のように僅かに揺れていた。

すでに死んでいるようで、女の手足は黒ずみ、足元には黒い水溜まりが出来ていた。

だが、松田の耳には聞こえている。

『許して、ごめんなさい』と泣きながら詫びる声が。

徐々に恐怖から同情に変わっていく。

白衣の女の右手に何か握られていることに気づいた松田は、恐る恐る女の右手に手を伸ばした。

すると、その手は凍えてしまいそうなほど冷たく、指は死後硬直をしているのかなかなか開くことが出来なかった。

女の指を曲げるたび、ミシミシと骨が軋む音がした。指の隙間から見えるのは、古い小さな桐の箱のようだった。

最後に残った小指を桐の箱から離そうとした時、腐っていたのか小指がポトリと床に落ちた。焦った松田は、小さな桐の箱を手にすると部屋から飛び出た。

そして、廊下から動かない白衣の女と落ちた小指に向かって、何度も手を合わせて謝罪したのだった。

その時、どこからかテレビの砂嵐の音が聞こえて来た。音のする方を見ると、廊下の奥にある部屋のドアが少し開いているようだった。

松田が二階に来た時、音もしなければ部屋のドアは閉まっていた。それなのに……。

松田は誘われるように、小さな桐の箱を握りしめながら廊下の奥に向かって歩きだした。

その途中、耳元で蠅の飛び回る音がして思わず振り払ったが、周囲を見ても蠅はおろか虫すら飛んでいなかった。松田は困惑しながらも先を進んでいると、隣の部屋の襖がぽっかりと穴が開いていた。松田はその部屋にも何かあるかもしれないと、穴の中を覗いた。

穴の向こうは、何もない薄暗い和室だった。

だというのに、部屋の中から血生臭い香りとクチャクチャという奇妙な音が聞こえて来た。加えて、蠅の羽ばたく音が松田の耳元に纏わりつく。音とにおいに反応し、胃から酸が込み上げてくる。

松田は穴から身を引いたが、気分が悪くなりその場に吐くと、そのまま気絶した。

 

 《呪いの家・外(広瀬)》

 その少し前、兄からの電話で呪いの家の外に出た広瀬は、その兄を探していた。

だが、どんなに呼んでも兄は見当たらず、広瀬は電話をかけることにした。

コールが数回鳴った後、兄が電話に出た。

電波が悪くて声が途切れ途切れであったが、何とか隣の診療所にいることがわかると、広瀬は診療所に向かった。


そして、診療所の中に入った広瀬は大声で兄を呼んだ。

「兄貴ー、どこにいるの?」

「ここだ。処置室」

兄の声が返ってきた。

広瀬はその声が聞こえた方へ向かうと、処置室と書かれたプレートと扉を見つけた。

その扉を開けると、中からひんやりとした空気が肌に触れた。

そして、処置室の片隅で読み物をしている兄の姿を見つけた。

「寒いね、ここ」

広瀬が声をかけた。

「この診療所はやばい」

と、広瀬の兄は真顔でそう言った。

広瀬の兄が持つ古いノートは、黒ずんだ布の下にあったものだった。

用紙が一枚ずつ紐でまとめられたノート。表紙には小さく「堕」と赤い文字で書かれていた。表紙を捲ると、それは色焼けして文字も擦れたカルテの束だった。

最初のページの日付は五十年以上も前のものだった。

そこには日付、患者名、年齢、周期と子宮内にいる赤ん坊の絵が描かれていた。

赤ん坊の大きさはどれも異なっていた。

中には、まだ人の形を成していない絵もあった。

どのカルテにも共通していたのは、赤ん坊の絵の下に赤いペンで×と記され、小さく日付が書かれていたことだった。それは、この場所で行われていた堕胎手術の記録だった。その中には、出産間近の赤ん坊まで堕胎していた。

「ったく、とんでもないところだぜ」

「呪いと関係あるのかな」

「呪い? さぁね。この診療所に漂うのは、罪悪感みたいなものだろうな」

「霊的な感じ?」

「霊的とか言うなよ。で、なんでここにいるんだ? いいのか、あいつだけあの家に置いてきて」

「何、言ってんの。兄貴が電話で呼んだんじゃん。こっちにきてくれって」

「は? 俺は電話なんてしてないぞ」

「はぁ? 冗談やめてよ」

「着信履歴を見てみればいいだろ」

そう言われ、広瀬は自身のスマホの着信履歴を確認した。すると、一番上にあるはずの兄の名前がなかった。

混乱する広瀬。

「いやいやいや。私、兄貴と電話で話したって!」

「電話なんてかけてないって言ってるだろ。履歴がないのが証拠だろうが」

「でも、確かに兄貴の番号からだったし、声だって兄貴の……」

そう言いかけた時、電話の途中からノイズが混じり、兄の声が別人のように聞こえた後で電話が切れたことを思い出した。

「松田君のところに戻るわ」

「さっきも言ったが、あの家は本当によくないぞ」

「兄貴はほんとにビビり。私には何も感じなかったし。ただの古くて埃っぽくて虫パラダイスな家って感じ。逆に見てみたいよ。幽霊」

「とにかく、あの家で深追いするな。連れていかれるぞ」

「はいはい」

広瀬は兄の臆病さに呆れながら、松田がいる呪いの家に戻った。

広瀬が診療所から出た直後、広瀬の兄の背後からまた赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。

「またかよ……」

その泣き声はどうやら室内ではなく、裏口の向こうから聞こえるようだった。広瀬の兄は裏口に近づくと、ドアをゆっくりと開けた。

すると、外の光で広瀬の兄は目を細めた。

ゆっくりと浮かび上がる景色。

診療所の裏は小さな庭になっていた。雑草が生い茂り、壁際には古い洗濯機と花のない鉢植えと物干し竿が目についた。

裏庭に出た広瀬の兄は、生い茂る草木の向こうに石でできた円柱の構造物を見つけた。

どうやらそれは、古い井戸のようだった。


 《呪いの家(松田)》

意識を取り戻した松田は、壁にもたれながら休んでいた。蝿の音は消えたが、不快なにおいは鼻についたまま。朦朧としながら、廊下の床を見つめていた。

すると、何の前触れもなく誰かが松田の前を通り過ぎた。床の軋む音と、松田の目には男物の真新しい足袋と着物の裾が映った。

松田がそっと顔をあげると、着物の男は奥にある部屋の前に立っていた。その男の顔は、一階の和室の段ボールの中に入っていた遺影の男だった。

ドアはいつの間にかまた閉まっていて、着物の男は裾から鍵を取り出すと、鍵を開けて中に入っていった。

それを見ていた松田はゆっくりと立ち上がり、鍵のかかっていた部屋に近づいた。

そして部屋のドアノブに手を掛け、ばれないように少しだけドアを開けると隙間から中を覗いた。目に入ったのは、大きさの違ういくつかの古いブラウン管テレビと椅子だった。着物の男は死角にいるのか見当たらないが、物音もせず気配も感じられなかった。

迷った挙句、松田はドアを小さくノックした。

しかし反応がない。

ゆっくりとドアを開けると、部屋には誰もいなかった。部屋のドアは一つしかなく、汚れた窓も錠が錆びていて開かないというのに。

着物の男は忽然と姿を消したのだった。

「どこに行ったんだ?」

戸惑いながら、松田はその部屋を見回しハッとした。

そこは夢で見た光景と似ていた。

机の上には大きさの違うブラウン管テレビがあり、どれも埃まみれで壊れているようだった。

ブラウン管テレビの正面には椅子あり、それはまるで監視室のようだった。

その時、再び耳鳴りが松田を襲った。

さっきよりもひどい耳鳴りに視界が歪み、松田が目にしている世界が白黒に変わった。戸惑う松田を前に、何も映っていなかった大きさの違ういくつものテレビが砂嵐を映し、そこからノイズと誰かの悲鳴のような声が聞こえてきた。

一つのテレビが、砂嵐から呪いの家(廣田家)の一階リビングの映像に変わった。テーブルの上には料理が並び、白衣を着ていた女とその隣にはもう一人、怪我をしているのか左足に包帯を巻いた若い女が椅子に座って笑顔を見せながら和やかに食事をしている様子が映っている。

怪我をした若い女の向かいには、顔は見えないが黙々と食事をしている着物の男がいた。

笑顔で食事をしていた若い女が体をゆらゆらと揺らした後、突然に箸を止めるとそのまま気を失いテーブルに突っ伏した。

映像が乱れた。


今度に映し出されたのは家の廊下だった。

気を失った若い女を、着物の男が担ぎながら廊下の奥に歩いて行く。白衣の女が止めようとしたが、着物の男はそれを振り払い進んでいく。その先には、地下室に続く扉がある。

そこで映像は乱れ、砂嵐になった。


今度は隣のテレビが映り始めた。

そこは薄暗い空間。ぼんやりと映し出されたのは、コンクリートの壁に囲まれた部屋と簡素なベッド。そこが地下室だということは、安易に想像ができた。

 小さな窓から漏れるわずかな光の中で着物の男が立っている。その視線の先には、意識を取り戻した若い女が、手足に鎖をつけられ壁に繋がれていた。

若い女は怯え、泣いているようだった。

すると、着物の男は壁から鎖を離し、若い女を無理やりベッドに押し倒した。そして、着物の男は若い女に覆いかぶさった。

若い女の悲鳴がする中、映像は砂嵐に戻った。


隣のテレビは砂嵐のまま、若い女の悲鳴とベッドの軋む音がする中、着物の男の吐息も聞こえた。その声に、松田は嫌悪感を抱いた。

その音が消えた後、テレビのスピーカーからノイズ混じりに何か聞こえてきた。

「許サナイ……許サナイ……許サナイ……許サナイ……許サナイ……」


砂嵐から、ノイズ混じりの映像が映し出された。

そこには、壁にもたれ鎖で繋がれた足を投げ出している白い服を着た女がいる。

その白い服の女こそが紗夜子だった。紗夜子が来ている白い服は、汚物や土埃に汚れ、裾は破れているようだった。

地獄のような場所で、何度も酷い目にあったというのに、紗夜子は自身の腹部を撫でながら笑みを浮かべていた。その顔は不気味なほど穏やかだった。

そして、映像は乱れ砂嵐になった。

一瞬、女の声で「あなたが唯一の希望」という声が聞こえた。


だが、次の映像では状況が一変していた。

叫んでいる女の声。乱れた映像の中、ベッドの上で腹の膨れた紗夜子が足を広げている。そばには白衣を着た男女が立ち、紗夜子の様子を見ている。

力みながら、叫んでいる紗夜子。

それを黙って見ている白衣の男女。


松田は、それが出産だと気づいた。

今までにない大きな叫び声がした後、紗夜子は力尽きて倒れ込んだ。

白衣の男が、赤ん坊を抱きあげた。

どれだけの間、紗夜子が地下室で監禁されたのか。それは想像を絶していた。ただ生かされ、着物の男の玩具にされ、そして妊娠までさせられた。

白衣の男は赤ん坊を白衣の女に渡した。

だが、その赤ん坊を見た白衣の女は何やら戸惑っている様子だった。

白衣の男がドアの方へ指を差すと、白衣の女は赤ん坊を抱きかかえたまま地下室から出て行った。

それに気づいた紗夜子は、体を起こして叫んだ。

「私の赤ん坊をどこに連れて行くの! 返して!」

赤ん坊を取り返そうとしたが、繋がれた鎖を白衣の男に引っ張られ、何度も殴られた。それでも、スピーカーからは「返して……。私の赤ちゃん」と力ない声が聞こえ続けた。

「返して……。返して……」

松田は思い出し、思わず耳を塞いだ。


そして、また砂嵐になり別のテレビに映像が映し出された。

そこは薄暗い地下室の中。壁にもたれながら、紗夜子はブツブツと何か呟いている。その姿はまるで魂が抜けたようで目は虚ろだった。足元には蠅の集った食事がある。

聞こえてくる、耳障りな蠅の音。ちらちらと画面に黒い点が飛び回っている。

よく見ると、床にうつ伏せで倒れている着物の男が映っていた。

壁にもたれていた紗夜子が、倒れている着物の男の体を仰向けにすると、喉元にハサミらしきものが刺さっていた。

すると、紗夜子はそのハサミを引き抜き、奇声をあげながら何度も何度も着物の男の腹に振り下ろした。

そして、紗夜子は着物の男の臓物を掴み取ると、そのまま口に入れて頬張った。

その姿は獣のようだった。


それを見た松田は、胃から込み上げて来たものを床に吐いた。

映像はそこで砂嵐となった。

松田は持っていた小さな桐の箱を開けた。

すると、中には黒ずんだ綿の中に、干からびた紐状のゴムのようなものが入っていた。

松田は一度、それを見たことがあった。


それは松田がまだ中学生の頃。

学校から帰宅すると、一階の和室から物音が聞こえた。

松田がその部屋を覗くと、母親が押入れの整理をしているようだった。床には布団乾燥機やらヒーターやら衣装ケースやら小物等が散乱していた。

「何してんの?」

松田が声をかけた。

「あら、おかえり。いやぁね、そろそろ溜まった写真を整理しようと思って」

そう言いながら、母親は写真アルバムが入った箱を探していた。

松田は床に置かれた見慣れない箱を見つけた。

「それ、何が入ってるの?」

箱を指差しながら、松田はそう尋ねた。

すると、母親はその箱を手に取って中を開けた。そこにはまた小さな桐の箱が二つ入っていた。

母親はその一つを手に取り、裏を見た後で松田にそれを渡した。

「中、見てみなさい」

中を開けると、真っ白な綿の中に干乾びた細長い塊が入っていた。

「何これ」

松田は渋った顔でそう尋ねると、

「それはあなたのへその緒。私とあなたが繋がっていた証。大切な親子の絆よ」

母親は微笑み、それを宝物だと言った。

だが、松田にはそんなものが宝物だなんて思えなかった。


紗夜子も、我が子を返せと言っていた。

だから、この「へその緒」を返せば、もしかしたら呪いが解けるかもしれない、と松田は考えた。

砂嵐を映していたテレビが、一斉に消えて真っ暗になった。そこから鎖が擦れる音が聞こえると、今度はすべてのテレビが同じ映像が映し出した。


薄暗い空間の中で、天井から二つの人影がぶら下がり揺れている。スピーカーから金属が擦れる音が聞こえる度にその影が増えていく。

中肉中背の影、体格のいい影、髪の長い影、若い男の影と様々な影がいくつも吊るされていた。

松田はそれを見て、呪いの映画の犠牲者だと察した。その中に加地らしき影も見つけた。

暗闇の中から、手足を鎖で繋がれた白い服を着た紗夜子が現れた。よろよろと体を揺らしながらゆっくりと近づいてくる。

その目は穴が開いたように黒く、憎しみが溢れていた。

紗夜子を見ていると、心臓が苦しくなってくるというのにその目を逸らすことができない。

松田は恐怖で足が震えた。

紗夜子はそれがわかっているかのようにニッタリと笑った。

映像が一階の廊下の突き当りにある、地下室に続く扉の前に変わった。そこに映る扉が、悲鳴のような音を立ててゆっくりと開いた。

その先は闇のように暗い。

映像はノイズで乱れるとそのまま消えた。

松田は息を飲み、へその緒が入った小さな桐の箱を握りしめ部屋を出た。


軋む廊下を歩きながら、和室の前を通りかかると、首を吊った白衣の女の姿は消えていた。

階段を下りていく途中、玄関からリビングの方に向かって歩く人影を見た。

松田は広瀬が戻って来たのだと思い名前を呼びながら一階へ下りたが、その人影は広瀬ではなく着物姿の男だった。この着物姿の男が加害者で、日記に記されていた和雄だと松田は理解したのだった。

着物の男は足音も立てずに廊下の角を曲がっていった。

後を追う松田は、廊下の奥を見て驚いた。

来た時には板が打ち付けられ南京錠までかかっていた扉が、二階で見た映像と同じく漆黒の口を開いていた。

リビングに広瀬の姿はなく、松田は一人廊下を進む。

そして、地下室への階段の前に立つと、その先は暗闇が続いていた。持っていた懐中電灯の灯りで周囲を照らすと、天井には壊れた豆電球が垂れ下がり、下はコンクリートの階段が下に続いていた。

一番下に、地下室の扉が見える。

息を呑み、松田が階段を下りようとした時、背後から男の息遣いが聞こえた。振り返ると、そこには濁った目玉で頬骨が露出した和雄が立っていた。

松田はその姿に驚き、持っていた懐中電灯を落とした。懐中電灯は、階段の一番下まで転げ落ちてしまった。

松田が振り返った時、着物の男はすでにいなくなっていた。

 

《呪いの家(広瀬)》

一方、広瀬が呪いの家に戻って来た。

家に入ると、妙に冷たい空気が肌に触れ、広瀬は思わず身を震わせた。さっきよりも廊下が薄暗く感じたが、それは時間経過のせいだと思った。二階へ続く階段は、相変わらず荷物で塞がれていた。まるで時が止まったかのように、家の中は静かだった。

リビングに向かった広瀬だが、そこに松田の姿はなかった。テーブルの上には日記が開いたまま置き去りになっていた。

周囲は物音すらも聞こえない。

「松田君、どこに行ったのだろう」

広瀬は日記を手に取り、続きを読み始めた。


××年××月××日

洗濯物を畳んでいると、玄関の戸を叩く音がしました。

村の誰かが怪我でもしたのかと思い出てみると、そこには見慣れない若い女性が泥だらけで立っていました。

彼女の話では、圏外からある野鳥を探しにやって来て、その途中で小さな崖に滑り落ちてしまい、足を痛めてしまったそうです。

連絡手段もなく途方に暮れていると、我が家の診療所の案内板を見つけ、何とか辿り着いたそうです。当然、診療所には誰もおらず、隣に建つ我が家にやってきたということでした。

私は彼女を家に上がらせ、怪我の手当てをしました。幸い、骨折はしておらず捻挫程度でした。

彼女は帰ろうとしましたが、外はすでに日が暮れ始めて薄暗く、山道は危険だからと我が家に泊まることを勧めました。

彼女は断りましたが、熊が出ることを伝えると納得しておりました。

彼女の名前は紗夜子さん。都心で暮らしていて、仕事を辞める前はOLさんだったそうです。私は羨ましくて、ほんの少し嫉妬してしまいました。

ちょうど夕食の時間が近いこともあり、私は彼女に食事を勧めました。彼女はお腹が空いていたそうです、とても喜んでいました。

私も誰かと食事できることに心が躍りました。

お客様用の豪華な食事ではないけれど、冷蔵庫にあるありったけの食材を使って、私は紗夜子さんに料理を振舞いました。

彼女はこの山に存在する野鳥の事を、目を輝かせながら話してくれました。生まれ育ったこの山に、それほど珍しい鳥がいるだなんて、私は気にもしませんでした。

彼女が描いたという野鳥の絵はとても素晴らしいものでした。そして、それは私の好きな鳥でした。

あぁ、なんて幸せな時間。

こんなにも楽しいのは久しぶり。

そう思ったのも束の間、階段を下りて来る足音で現実に引き戻されました。

弟のことをすっかり忘れていました。そして、浮かれていた心に不安が過ったのです。

機嫌が悪くなると物や私に当たる弟。

私も何度も殴られ、蹴られ、体中は痣だらけです。けれど、私にとっては大切な家族で可愛い弟。どんなことがあろうと弟を咎めることはできません。

紗夜子にその矛先が向かないか心配でした。

リビングへやってきた弟は、紗夜子さんの事を見て一瞬険しい表情になりましたが、驚くことに普段見せないような優しい表情で名前を尋ねたのでした。

私が事情を話すと、弟はニコニコしながら紗夜子さんのことを歓迎していました。

これを機に、弟が変わってくれるかもしれない。そんな期待が生まれました。

それに、ずっと引き籠っていた弟とも食事するが出来てとても幸せでした。

ああ、今日は何ていい日なのだろう。


弟は紗夜子さんに興味があるのか、食事の支度をしている私を横目に、この山に来た目的、どうやって来たのか、職業、家族構成、恋人の有無を聞き出していました。

どうやら彼女は子供の頃から天涯孤独で、恋人とは半年前ほどに浮気が原因で別れ、そのショックで勤め先も辞めてしまうという、波乱万丈の人生を送ってきたそうです。

彼女は嫌な顔もせず、弟の問いかけに笑顔で答えていました。

彼女がお手洗いに席を立った時、弟はお手洗いに向かう彼女のことを執拗に見つめていました。その口元が、一瞬笑んだのを私は見逃しませんでした。

そして、弟は戸棚から母が生前使っていた強力な睡眠薬の入った小瓶を取って、私に渡してきたのです。

弟に命令されて、私はその薬を彼女の味噌汁に入れてしまいました。

逆らえばこの家を出て行くと。

私は一人になりたくなかったのです。

私はひどいことをしました。

味噌汁を口にした彼女は、異変に気付く暇もなくすぐに眠りに落ちました。

弟は眠っている彼女を見ながら薄ら笑いを浮かべ、彼女の体を担ぎ上げると部屋を出ていきました。

どこに向かうのかと思えば、用途不明だった地下室。弟は会ったばかりで、しかも怪我をした彼女を監禁しようとしたのです。

私は止めました。こんなことが知れれば、弟は捕まってしまう。亡くなった両親に顔向けできない。

けれど、弟は私を突き飛ばして地下室に行ってしまいました。


日記には、次第に異常さを増していく和雄のことが綴られていた。

紗夜子を逃がさないように地下室の扉と階段の扉に鍵をかけ、手足には鎖をつけた。

和雄の姉は、紗夜子の食事と排泄物処理を任されていたが、和雄が食事を運ぶ事もあり、その時は決まって紗夜子に性行為を行っていた。


地下室には二十四時間監視するため、監視カメラがいくつも設置された。

和雄は紗夜子のことが甚く気に入ったようで、献身的に世話をしていた。

紗夜子を監禁するようになり、姉に対して怒りや苛立ちをぶつけることが減った。だから、姉は紗夜子から助けを求められても、それに応えることはできなかった。

四六時中、和雄は自室で紗夜子の様子を監視カメラで監視していた。

紗夜子も、最初のうちは助けを求めて大声をあげたり、泣き叫んだりしていたが、二ヶ月もすれば諦めて大人しくなった。

こんな山奥で、身寄りもなく、社会との繋がりもなくなった人間が行方不明になっても、誰も気づかない。

完全に諦めた紗夜子の目は虚ろになり、表情がなくなったという。


××年××月××日

彼女が妊娠をしました。


そのページを読もうとした時、部屋の外から足音が聞こえた。広瀬は松田が戻ってきたのだと思い廊下を覗いたが、廊下には誰もいなかった。

「松田君、どこに行ったんだろう」

広瀬はポケットからスマホを取り出し、松田に電話をかけようとした。

だが電波が不安定なようで、圏外と表示されていた。

広瀬は待つことを選択し、日記の続きを読むことにした。


××年××月××日

彼女が妊娠をしました。

無論、子の父親は私の弟。

遅かれ早かれこうなることはわかっていました。

私は彼女が妊娠したことを、紗夜子さんと弟に伝えました。

弟は無関心を装っていましたが、その胸中は穏やかではないようで、表情が一瞬険しくなったのを私は見逃しませんでした。

彼女もまた絶望した様子でした。

薄暗い地下室から、彼女のすすり泣く声がずっと聞こえていました。


××年××月××日

彼女の妊娠がわかってから、地下室に入ることを極力禁じられていました。

ですがこの日、弟に呼ばれて地下室に入ってみると、息をするのも困難なほど酷い匂いが充満していました。

排泄物が地下室の隅にそのまま寄せられているだけで、そこには大量の蝿が集っていました。そんな場所で、彼女は淡々と食事をしていました。

私は排出物を掃除させられ、終わるとすぐに追い出されました。

これまで地下室から出ていく私をすがる目で見つめていた彼女ですが、それもなくなりました。


××年××月××日

弟は今日も地下室に。

その隙に私はこっそりと作った合鍵で、弟の部屋に入りました。

弟の部屋というのは名ばかり。今では、彼女を監視するための部屋。

この部屋に入ったことが見つかれば、私も弟に叱られてしまう。けれど、私は勝手に地下室に入ることは出来ない。だから、仕方がないのです。

弟は地下室に向かえば、一時間は戻って来ません。だから、その間に痕跡が残らないように、彼女の様子を見ることにしたのです。

複数あるテレビの画面には、地下室の様子が映し出され、彼女と弟がいました。

しばらく見ないうちに、彼女の様子が変わっていました。

妊娠を知った時は、あれほど絶望的な様子だったのに、今では弟に嫌なことをされていても、薄ら笑いを浮かべていました。

彼女にどんな心境の変化があったのかはわかりませんが、どこか気味の悪さを感じたのです。

地下室から弟が出ていく姿を見て、私も監視室から出ようとしました。

すると、微かに彼女の声が聞こえたのです。

「私の赤ちゃん。あなただけが唯一の味方」

彼女はベッドで仰向けのまま、そう呟きながら腹部を撫でたのです。

信じられないけれど、彼女はこんな地獄の中で希望を見つけたのです。

例え、それが彼女にとって悪魔との子であっても。


それを読んだ広瀬は、『最悪』と口から漏らした。

日記は、壊れていく紗夜子とそれが気に入らない弟のことが書かれていた。苛立つ弟の暴力が、紗夜子や姉に対してエスカレートしていったのだった。


××年××月××日

今日、彼女が出産しました。

白衣姿の弟に呼ばれて地下室に向かうと、彼女はベッドの上で両足を開いて寝かされ、大きな声で叫んでいました。私が着くと、すでに彼女の恥部から、赤ん坊の頭が見えていました。

私は弟に命令され、彼女の出産を手伝いました。彼女は頑張っていました。弟もまた手慣れた様子でした。

少しして、彼女の赤ん坊が生まれました。男の子でした。

弟はハサミで母と子を繋ぐへその緒を切ると、赤ん坊を私に渡しました。その扱いは乱暴で、私は危うく生まれたばかりの赤ん坊を落としそうになりました。

血塗れの赤ん坊には、へその緒が垂れ下がったまま。

彼女は疲れた様子でぐったりとしていました。

私が垂れ下がったへその緒を切ろうとした時、赤ん坊が元気に泣き始めました。

すると、弟は煩いと怒鳴り、目障りだから出て行けと言われ、地下室から追い出されそうになりました。

すると、彼女が叫びました。

『私の子を返して』と。

『私の希望を返して』と。

それは当然のこと。私は彼女のところに戻ろうとしました。けれど、弟がそれを許しませんでした。私はへその緒がついたままの赤ん坊とともに、地下室を追い出されました。

閉められた扉の向こうで、彼女の叫び声が聞こえていました。

『返して!』と。

けれど、彼女の声はすぐに悲鳴に変わり、そして静かになりました。何があったのかは察しがつきます。

私は恐怖と罪悪感が募る中、階段を駆け上がり自分の部屋に戻りました。せめて、この赤ん坊だけでも大切に育てようと決めました。

切ったへその緒は、診療所に残っていた小さな桐の箱に大切に納めました。


××年××月××日

私はもう弟の事がわからない。

泣いている赤ん坊を部屋であやしていると、弟が来て強引に赤ん坊を奪っていきました。部屋を出ていく弟にどこに連れて行くのかと尋ねましたが、答えてはくれませんでした。

私は嫌な予感がして弟を必死で止めましたが、弟の強い力で突き飛ばされた拍子に頭をぶつけ、そのまま意識を失ってしまいました。

目が覚めた時、赤ん坊の姿はどこにもありませんでした。

部屋にいた弟に赤ん坊の居場所を尋ねると、弟は何も言わない代わりに不敵な笑みを浮かべました。私はその笑みの意味を察し、ゾッとしました。

ごめんなさい。私は守れなかったようです。


××年××月××日

あれから、毎日、毎日、朝も昼も夜も赤ん坊の泣き声が聞こえます。声を探しても、その姿はないというのに……。

赤ん坊の泣き声が聞こえるたび、意思と関係なく涙が流れてきます。

夢現の中で、紗夜子さんが私のことを恨めしそうに見つめて叫んでいました。ごめんなさい。

私はもう地下室には行けない。

日記を書く手も震える。

ああ……。また赤ん坊が母を呼ぶ泣き声が聞こえます。

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。許してください、許してください。


××年××月××日

もうこれ以上は耐えられません。

ごめんなさい。さよなら。


そのページはまるで涙で濡れたようにシワシワで、文字は滲んでいた。そして日記はそこで終わっている。

読み終えた広瀬はこの家で起こった生々しい事件に戸惑い、同時に恐怖を感じていた。


《呪いの家(松田)》

地下に続く階段の一番下で、懐中電灯が横たわり点滅している。

松田はスマホの明かりを頼りに、壁に手をつきながら階段を下りていく。空気が冷たくなり、おまけに息苦しい。体が重くなっていくのを感じる。点滅する懐中電灯の明かりが、弱々しくなっていく。

嫌な予感しかしない。松田の心臓は今にも張り裂けそうなほど鼓動していた。


階段の一番下に着いた時、懐中電灯の明かりは消えていた。松田が拾ってスイッチを入れたが、懐中電灯は壊れて着かなくなっていた。

そして、目の前には地下室の古い扉がある。周りには真っ暗になった古い細長い紙が数枚貼られていた。よく見ると、それは扉を封印するかのように貼られていたが、今はどれも破れて跡だけが残っていた。壁には、まるで呪いのように黒いシミが広がっていた。

ドアノブには、三つの南京錠がかかっていた。だが、どれも劣化していて少しの衝撃でも壊れそうだった。

松田は壊れた懐中電灯を南京錠に叩きつけた。

すると、南京錠は簡単に壊れ、床に落ちた。

二つ目も同じく、すぐに南京錠は欠けて床に落ちた。

三つ目を壊そうとした時、ふいに恐怖心が込み上げて思わず手を止めた。

この先には入ってはいけない。そう直感した。

けれど、入らなければどのみち呪いで死ぬだろう。呪いを解いて、必ず家族の元に帰る。

だから、松田は三つ目の南京錠も壊した。懐中電灯はボロボロになり、床に落ちた三つの南京錠は、一瞬にして黒く変色してしまった。

扉を押すと、金具が錆びているのか扉は重く悲鳴のような音を立てて開いた。

地下室の中は薄暗く、足元には黒ずんだコンクリートの床が見えた。

そして、松田は地下室の中に入っていった。


地下室は薄暗く、ひんやりとした冷たい空気が肌に触れ、水の滴る音が聞こえた。そして、カビ臭い匂いが漂っていた。

天井付近にある小さな窓には植物が覆い、外の光が遮られていた。松田はスマホのライトを照らしながら地下室の中を見回した。

カビだらけの壁から水が染み出していた。

足元はひび割れたコンクリートの床。

そして、映像の通りであれば、奥には忌まわしいベッドと鎖を繋ぐ金具があるはずだった。

だが、そこには何もなかった。

近づいてみると、そこにはかつてベッドや家具、壁には金具が取り付けられていた痕跡だけが残っていた。

誰かが撤去したのか、設置されていたはずの監視カメラもなかった。映像とは違う光景に、安堵と同時に戸惑う松田だった。

「(どうしたら供養できる?)」

紗夜子が探している赤ん坊。その赤ん坊と繋がっていたへその緒が入った小さな桐の箱を置いて、念仏でも唱えれば自身の呪いが解けるだろうか。


 松田の耳元で鎖の擦れる音と女の唸り声が聞こえた。スマホのライトが点滅し、今にも消えそうなほど弱々しくなると、松田は焦って地下室を出ようとした。

だが、閉じた扉はどんなに力を入れてもびくともしなかった。

「嘘だろ! どうして開かない!」

松田は何度も何度も扉に体当たりをしたが、扉は開かない。背後に近づいてくる鎖の擦れる音と気配。

松田は恐る恐る振り返った。

スマホのライトを地下室の奥に向けると、何もなかった場所に赤黒く汚れたシーツとベッドが現れ、それにもたれかかるように大きな塊が姿を現した。飛び交う大量の蠅と腐敗臭で、松田は鼻を押さえた。

ライトをベッドの横に流すと、赤黒く染まった白い裾と女のか細い足が見えた。

その瞬間、スマホのライトが消えた。

暗闇から聞こえてくる、自分以外の息遣いと鎖の擦れる音。

『返シテ……返シテ……』

その声に、松田は思わずスマホを落とした。そして、震える声で言った。

「あなたが探しているものを持ってきた。だから、殺さないで」

暗闇から聞こえる鎖の音が近づいてくる。

『返シテ……返シテ……』

松田の目が薄暗い地下室に慣れてくると、目と鼻の先に手足を鎖で繋がれたボロボロのくすんだ白い服を着た紗夜子が立っていることに気づいた。

松田は恐怖で腰を抜かした。

紗夜子はゆらゆらと左右に揺れながら、乱れた髪の隙間から松田を見下ろした。

松田は震える手で、小さな桐の箱を紗夜子に差し出した。

紗夜子の手がゆっくりと松田に近づいてくる。その腕は赤く爛れて膿が流れ、爪は剥がれ落ちていた。

松田は恐怖で目を瞑った。

紗夜子は、手にした小さな桐の箱を開けるとすすり泣いた。

『私ノ愛シイ子……』

そう呟きながら、紗夜子は血と膿で染まる手で松田の顔に触れた。優しく撫でる手は、我が子を思う母親そのものだった。

『愛シイ子……』

腐敗臭が鼻につき、顔をしかめる松田。腐った血肉が肌にこびり付く。

『オカエリ……私ノ子……』

それを聞いて、松田はとっさに否定した。

「違う! 俺はあなたの子供じゃない!」

顔を背ける松田を見て、紗夜子は触れていた手を離し、鎖の音を立てながら暗闇の中に姿を消した。

息遣いも鎖の音も消え、松田はホッと肩を撫でおろした。

彼女の探していた赤ん坊のへその緒も返せた。

「これできっと大丈夫だろう」

松田は地下室の扉を開けようと手をつき、力強く押した。

だが、やはり扉は開かない。

「どうして開かないんだ。誰か、気づいてくれ! 広瀬―」

どんなに力を入れても、扉はビクともしない。

そして、また松田の背後から鎖の音が聞こえると、松田の耳元で声がした。

『私ノ子ヲ返セ』

松田は断末魔をあげた。


《呪いの家(広瀬)》

リビングにいた広瀬の耳に、松田の断末魔が届いた。

「えっ? 松田君どこにいるの!」

声は廊下の突き当りから聞こえる。

しかし、地下室に続くドアには板が打ち付けられ、南京錠もついたままで到底開けることは出来ない。

広瀬は押したり引いたりしてみたが、やはりドアはびくともしない。

「なんでこの先から松田君の声が? どうやって中に入ったのよ」

理解が追い付かない。

松田の叫び声はもう聞こえない。

広瀬はドアの隙間から松田の名前を呼んだが、返事は返って来ない。

廊下に転がっていた木片で南京錠を壊そうとしたが壊れず、広瀬は兄に助けを求めに外に出た。


兄の姿は家の外になく、広瀬は診療所に向かおうとした。

すると、ちょうど診療所の裏から出てくる広瀬の兄と鉢合わせをした。

「兄貴、大変。松田君が!」

広瀬の兄の顔は青ざめていて、目の前で必死に訴える広瀬にも無反応だった。

「ちょっと聞いてる?」

広瀬はそんな兄を怪訝な顔で見つめた。

「もう帰るぞ……。俺は帰る。帰るんだ。来るんじゃなかった。こんなところ。来たくなかったんだ、俺は。嫌な予感がしていたんだ。帰る。俺は帰る」

広瀬の兄は一方的に言葉を吐き、そのまま来た道を帰ろうとした。そんな兄の手を引っ張り、広瀬は兄を必死で止めた。

「松田君が大変なの! 助けてよ、兄貴!」

広瀬の手を振り払い、広瀬の兄はそれでも帰ろうとする。

「松田君を見捨てる気?」

広瀬の兄はピタリと足を止めた。

「お前はここがどんなにやばいところか知らないから、そんなことが言えるんだ!」

「やばいのはわかったよ。だけど、兄貴には何がわかるの」

「俺だってわかる。声が聞こえる。その家にはどす黒い嫌なものが纏わりついている。それがどんなにやばいものかって、中に入らなくてもわかる!」

「やっぱり霊感あるんじゃん」

「うるさい!」

「なら、なおさら松田君を助けないと!」

「あいつはもうダメだ。もう助からない!」

「そんなことない! 地下室に入れれば、きっと助けられるはず!」

「地下室に入ったのか?」

「私は入ってない。鍵がかかっていたの。なのに、松田君の叫び声が地下室の方から聞こえたの。助けないと。私、もう一度行って鍵が壊せないかやってみる!」

そう言って、広瀬はもう一度家に戻ろうとした。

そんな広瀬の腕を、兄は掴んで止めた。

「止めるぐらいなら一緒に来てよ! 私は松田君を見捨てない」

兄の手を振り払い、広瀬はそう叫んだ。

「わ、わかったよ……」

広瀬の兄は渋々了承した。


玄関の前に立つ広瀬の兄は、恐怖で少し震えていた。視線の先には、松田が残していったリュックがある。

広瀬が先に家に入り、その後を広瀬の兄が入っていった。

ずんずんと廊下を進んでいる広瀬に対し、広瀬の兄は玄関から入ってこようとしない。

 それは見えている世界が、広瀬と兄とでは微妙に違うからだった。

 廊下はさらに暗く感じ、空間が微かに歪んでいる。家鳴りが騒がしく、この家に住んでいた人間の残像が、影となって広瀬の兄の目には映っていた。

広瀬に急かされ兄も仕方なく廊下を進んだが、奥に行くにつれて空気が重苦しくなっていく。

「帰りたい……」と思わず広瀬の兄は呟いた。

地下へ続く階段のドアの前についた広瀬は、打ち付けられている板を外そうとしたがやはり外れず、兄に助けを求めた。

だが広瀬の兄は、ドアから少し離れたところでガタガタと体を震わせていた。何故なら、広瀬の兄の目には、そのドアの隙間から漏れ出す禍々しい靄が見えていたからだった。

「ビビってないで手伝って!」

広瀬に言われ、広瀬の兄は南京錠に手を伸ばした。

そして、指が触れた瞬間、悲痛な叫び声と共に強い怨念が伝わって来た。

とっさに手を引いた広瀬の兄。広瀬の腕を強引に掴むと、そのまま玄関に向かって歩き出した。

「何? 離してよ」

広瀬の兄は何かに怯えるように目を見開いたまま、無言で前だけを見ていた。広瀬が手を振り払おうとしたが、その力は強くてそのまま玄関の外まで引っ張られた。

家の外で、広瀬の兄はボソリと言った。

「やっぱりここは無理だ」

「離してよ!」

 広瀬は思い切り兄の手を振り払った。

「もういい! 私が一人で松田君を助けるわ。兄貴はいつもそう。私が男の子にいじめられた時だって、兄貴の方が年上なのにビビって逃げ出しちゃって」

「あれは! 相手が空手のジュニアチャンピオンだったからだ。敵うわけないだろ。それに、お前が先に喧嘩を売ったんだろうが!」

フンと鼻を鳴らし、そっぽを向く広瀬。

広瀬の兄はしばらく考えた後、スマホを取り出すとうろうろとスマホをかざし始めた。

「ねぇ、何してるの?」

「ちょっと待ってろ。ここならいける」

スマホの画面を見ながら、広瀬の兄はどこかに電話をかけ始めた。

「どこにかけるの?」

「警察だよ」

『はい。友人が廃屋に入ってしまって。

そこで閉じ込められてしまったみたいで。

私たちではどうしようもなくて。

場所は……。よろしくお願いします』

そう言って、広瀬の兄は電話を切ると、家の外に向かった。

広瀬は兄を追いかけながら大袈裟だと文句を言ったが、兄はただ黙って家の外の地面に座り込んだ。

散々文句を言った広瀬だが、ドアの板は一人では取り除くことは不可能であり、南京錠の鍵もない。二人は家の外で警察が来るのを待った。


広瀬は兄に長女の日記の話をした。

怪我をして診療所に訪れた若い女が地下室で監禁され、誰にも助けてもらえず、妊娠までさせられた。絶望の中で、彼女は子に希望を感じていたが、その希望まで奪い取られた。

監禁に手を貸していた長女は、赤ん坊の死の罪悪感から気を病み自殺した。日記はそこで終わっていたと。

それを聞いた広瀬の兄は、広瀬についてこいと言い歩き出した。

向かったのは診療所の裏庭。生い茂る雑草の中にひっそり身を潜める古井戸。古井戸の上には分厚い石の蓋が乗っている。

古井戸に近づくにつれ、何やら胃を弄られるような不快なにおいが漂ってくる。

広瀬は吐き気に襲われ、手で口を覆いながら立ち止まった。

「大丈夫か?」

先を進む兄は妹を心配しながらも、その不快なにおいに顔を歪めていた。

「何なの、このにおい」

「こっちに来てみろ」

古井戸のそばに立つと、広瀬の兄は古井戸の上に乗った分厚い石に手を掛けた。その石はかなり重く、自身の体重をかけながらゆっくりと押し出した。

古井戸の蓋が開くにつれ、においはさらに強くなる。たまらず広瀬は裾で鼻を塞いだ。

「酷いにおい。井戸の中で何か死んでいるんじゃないの」

石の蓋が半分開いたところで、広瀬の兄は手を止めた。

古井戸の縁は、苔や泥で黒くなっている。

古井戸の中は真っ暗で何も見えない。

広瀬の兄はスマホのライトを使い、古井戸の中を照らして見せた。

恐る恐る中を覗き込む広瀬。スマホのライドで、中がほんの少しだけ見えた。

古井戸の底に水はなく、代わりに赤黒い泥のような塊が見えた。

「何これ、泥?」

「ただの泥ならいいけどな」

「どういうこと?」

「この診療所で見つけた記録があるだろ。ここの医師が裏で行っていた堕胎処理。俺の予想じゃ、そのうちの何体かはこの中だろう」

「はぁ⁉ 冗談でしょ」

「確信はないけどな」

「そんな、そんなはずないじゃん」

広瀬は否定をしたが、広瀬の兄にはそれがぼんやりと見えていた。

いくつもの赤ん坊の顔がうごめき、そのどれもが母親を求めて泣いている。

古井戸の裏には、まるで弔うように小さな石がいくつも積み重なっていた。

そして、広瀬の兄は再び古井戸の蓋を閉じたのだった。

ここでは、いくつもの悲しい出来事が起こっていた。


空がオレンジ色に変わる。木々が夕陽を遮り、辺りは暗くなってきた。広瀬と広瀬の兄は、警察の到着を待っていた。

広瀬は何度も松田に電話をかけたが繋がらず、不安を募らせていた。

しばらくしてパトカーがやってくると、中から二人の警察官が出てきた。

広瀬が事情を説明すると、「廃屋は危険だから面白半分で入ってはいけない」と叱られた。

広瀬は謝り、松田が地下室に閉じ込められたかもしれないと伝えた。

ただ、そこへ向かう階段のドアは板で塞がれ、鍵がかかっていると伝えると、当然怪訝な顔をされた。それでも広瀬は、地下室から松田の声がしたと伝えると、警察官はフラッシュライトを照らしながら、家の中に入っていった。


日が暮れ始め、家の中はより一層暗くなっていた。

階段は荷物で塞がれていることもあり、二人の警察官は一階のそれぞれの部屋を探したが、やはり松田の姿はどこにもない。

そして、廊下の一番奥にあるドアの前にやってきた二人の警察官は、その閉ざされたドアに不信感を覚えたのと同時に、その先に人がいるなどあり得ないと感じていた。

だが、進むことを決めた二人の警察官は南京錠と板を壊して扉を開けた。

扉の先には真っ暗な階段が下まで続き、二人の警察官は気味の悪さを感じながら、フラッシュライトを照らして階段を下りていった。

一人の警察官は、暗闇を恐れて震えながら腰の拳銃に手を掛けた。最下段の床には、壊れた懐中電灯が落ちていた。

地下室の扉には、薄っすらと文字が書かれたお札がびっしりと貼られていたが、どれも触れれば落ちてしまいそうなほど劣化していた。そして、三つの南京錠がかけられ、足元には真っ黒になった盛り塩があった。

警察官は中に向かって声をかけた。

「誰かいるか?」

返事はない。

「もう一度聞く。中に誰かいるか?」

扉を叩きながら言ったが、やはり返事はなかった。

地下室には誰もいないと判断した二人の警察官は、安堵のため息を漏らして一階に戻ろうとした。

その時、地下室の中から扉を叩く音がした。

二人の警察官は三つの南京錠を壊すと、地下室の扉を躊躇なく開けた。中から、カビ臭いにおいが漂ってくる。

一人の警察官が慎重に地下室の中に入っていき、もう一人の警察官は扉を開けながら警戒していた。

中に入った警察官がライトで地下室内を見回すと、そこは黒カビに浸食された何もないコンクリートの部屋だった。

だが、地下室には誰もいなかった。窓があるが、人が出られる大きさではない。二人の警察官は、お互いに顔を見合わせ怪訝な顔をした。

閉塞感とカビのにおいで、中にいた警察官が『気分が悪い。もう出よう』と訴えた。すると、もう一人の警察官も『肩と頭が重い』と言い出し、身の危険を感じた二人の警察官は一階に戻ると、そのまま家を出た。


家の中から、二人の警察官が出て来た。

地下室には誰もいなかったと伝えられ、納得がいかない広瀬は自ら探しに行くつもりで家に戻ろうとしたが、警察官らに止められた。

「松田君がまだこの家にいるんですよ。ちゃんと見つけてくださいよ」

必死に訴える広瀬。

「あの状況で、地下室に人が入れるわけがないんだ……」

一人の警察官が苦痛な表情を浮かべながら言った。

「今まで一緒にいたのに。忽然と消えるなんてことあるわけないじゃん。やっぱり、私が行ってくる」

「もう中は暗くて危険だ。行かせるわけにはいかない。大丈夫。明日の朝、増援を連れて彼を探し出します」

顔色の悪い一人の警察官が、体を揺らしながらそう言った。

警察官から『夜の山は危険だから下山するように。指示に従わない場合は学校に連絡を入れる』と言われ、広瀬は仕方なく指示に従うことにした。広瀬の兄は、心なしか安堵していた。

玄関に置いたままの松田のリュックを抱きかかえ、広瀬は警察官に頭を下げた。

「どうか、松田君を見つけてください」

もう託すしかなかった。

二人の警察官は、そんな広瀬に敬礼をした。

広瀬の兄は、診療所の裏庭にある古井戸の事を警察官に伝え、一同は下山した。


《呪いの家(松田)》

松田を探しに来た警察官が地下室から出て行く。扉が閉まり、地下室は真っ暗になった。

そこには誰もいない。

二階にある監視室。壊れて消えているテレビ。その一台がゆっくりと映像を映した。

そこには暗い地下室の扉の前で泣き崩れている松田の姿が映っている。

開くことのない扉。それは二人の警察官が入ってきた地下室とは別の次元。

松田の手に握られたスマホはずっと圏外のまま。松田の耳には赤ん坊の泣き声と鎖が擦れる音が聞こえている。

「誰か助けてくれ」

松田のその声は誰にも届かない。

まるで、かつて監禁されていた紗夜子と同じように。救いのない暗い地下室に閉じ込められた。

そして、絶望している松田を映した監視室のテレビは、誰にも見られることなくひっそりと消えた。

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