如月ユキ
不可解な嫌なものを見た。あまりに非現実的で、彼氏にも相談できずに帰ってきてしまった。
部屋に入った瞬間、自分しかいないはずの部屋に何者かの気配と視線を感じる。それはどれだけ時間が過ぎても消えない。
学校にいても、誰かに見られている感覚は消えず、挙動不審になるユキの姿を見て、友人らも不審がっていた。
心配する友人に、ユキは何とか誤魔化していた。あの映画のせいで過敏になっている。ただの気のせいだと。そう言い聞かせた。
だが、不可解な現象は止むことはなく、逆に増えていく。
部屋で聞こえてくる不可解な物音。消えていたテレビの電源が勝手に砂嵐を映す。幻聴が聞こえ、悪夢はずっと続いた。暗闇から聞こえる女の悲鳴。ユキの背後に現れる白い人影。耳元で息遣いが聞こえたあと、顔の前に伸びてくる腕は、白くてか細く、皮膚の一部が腐り、手首には枷がはめられていた。
ユキはその手に首を絞められ、もがき苦しみながら覚ますのだった。
そして、現実の世界でも煙のような白い人影を見るようになり、前触れもなくパニックになるユキをそばにいた友人らは、心配を通り越して気味悪がるようになった。
加地はユキのそばにいたがどうすることもできず、ユキは学校を休むようになった。それでも加地からのメールや電話には『大丈夫』と答えていた。
それから四日が経った。
その日もユキは学校を休んだ。そんなユキを心配して、加地は授業の合間に電話をかけた。しばらく鳴り続けた後、ようやくユキが電話に出た。だが、その声は弱々しく、泣いているようだった。ユキは加地に助けを求めようとしたが、途端にノイズが混ざり、ユキの声が遮られてしまった。
その時、ノイズの中に女の呻き声のようなものが聞こえ、加地は驚いて思わずスマホを耳から離した。
すると、電話はそのまま切れてしまった。すぐに電話をかけ直したが繋がらず、代わりにユキからメールが届いた。
「ごめんね。体調が悪いから、そっとしておいて」
加地は不安に思いながらも、ユキの希望通りにした。
それからまた二日が経った。その日もユキは学校を休んだ。
休み時間になり、松田が次の教科の準備をしていると、隣の教室から加地がやって来た。
「真ちゃん、数学の教科書貸してくれない?」
「別にいいけど」
松田は机の中から数学の教科書を取り、加地に渡した。
「サンキュー」
「ところで、ユキちゃんは大丈夫なのか?」
「今日も休みだ」
「心配じゃないのか?」
「心配だよ。けど、体調が悪いからそっとしておいてって言われて、ここ二日は連絡もしていないんだ。あんな映画見せるんじゃなかったよ」
映画と聞いて、松田は残りのDVDのことが気になり、加地に尋ねた。
「ユキと一緒に見たよ」
一本目は怪談話の朗読作品。ユキは怖がっていたが、加地には物足りないようで、語り手の滑舌の悪さもマイナスだったようだ。
そして、二本目に見たという『山荘の惨劇』は多少グロテスクではあったが、恐怖演出は迫力があって楽しめたという。ただ、ユキの反応を聞かれた時、加地は言いにくそうに口ごもった。
「ユキにはかなり刺激が強かったみたいなんだ。映画が終わると青ざめた顔でさ、体を震わせひどく怯えていたんだよ。怖い夢まで見たみたいで、朝になると勝手に帰っちゃったんだ」
ユキの様子がおかしくなったのは、その映画を見てからだと松田は理解した。一緒に見ていた加地には異変はなかったが、ユキに見せるべきではなかったと加地は反省を口にした。
松田は「山荘の惨劇」のあらすじを加地に尋ねた。加地は少し考えた後、
「話すと長くなりそうだし、興味があるなら見る? まだ返していないから」
そう言われ、松田が返答に迷っている間に次の授業のチャイムが鳴った。
「それじゃ教室戻るわ。教科書借りてくな」
そう言って、加地は自分の教室に戻っていった。
昼休みになり、松田と加地が数人の友人とともに学食に向かうと、すでに大勢の学生で賑わっていた。購買や食券売り場にも行列が出来ていて、テーブルのほとんどが埋まっていた。
だが、先に向かった友人が席を取っていたおかげで、松田たちも定食を食べることが出来た。
そこへ二人の女子生徒が近づいてきた。何か言いたげに、加地の前でお互いの顔を見合わせていた。その二人がユキと仲が良いということは、加地も知っていた。
「どうした?」
加地が尋ねた。
「ねぇ、昨日、ユキちゃんと一緒だった?」
「いや、一緒じゃないよ。あいつ、体調不良で学校を休んでいるだろ。メールも一昨日ぐらいからしてないんだ」
二人の女子生徒は不安な様子でお互いに顔を見合わせた。
「あのね、間違えだったらいいんだけど。今、職員室に用があって行ったの。そうしたら先生たちが話していたんだよね。ユキが行方不明になったかもしれないって」
「え、行方不明?」
「詳しくはわからないけど、先生たちもかなり戸惑っている様子だった。私たち、毎日ユキにメールや電話をしていたんだけど、一昨日からまったく返信がなくて」
それを聞いた加地は、その場でユキに電話をかけた。
すると、「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、または電源が入っていないためかかりません」というアナウンスが流れた。
加地は不安な表情で電話を切った。
二人の女子生徒は、ここ数日ユキの様子がおかしかったことも心配していた。
「何か嫌なことが起きなければいいけど……」
女子生徒の一人がそう呟いた。
「帰りにユキの家に寄って様子を見に行ってくる」
そう伝えると、二人の女子生徒は納得をして立ち去った。
「真ちゃん。帰り、ユキの家に付き合ってくれない?」
松田は頷いたが、どこか嫌な予感を感じていた。
放課後、松田と加地はユキの家に向かった。
道中、加地は何度もユキに電話をかけたが繋がらなかった。
「まさか本当に行方不明なのかな」
「行方不明なら、もっと大事になっているんじゃないか」
「だよな……。きっと何かの間違えだ。ただ体調が悪くて寝ているだけだよな」
加地は不安そうにそう言った。
ユキの家は、住宅街に佇む二階建ての白くて新しい家。海外出張の多い父親はほとんど家にはおらず、ユキは母親と二人暮らし同然だった。加地はすでに母親公認の恋人で、ユキの家にはよく遊びに来ていた。
家に着くと、加地は玄関のインターホンを鳴らした。だが、いくら待ってもユキはおろか母親すらも出て来ない。
今度は二階の窓に向かって、大きな声でユキの名前を呼んだ。二階はユキの部屋がある。ちょうど玄関の真上あたり。加地が名前を呼ぶと二階の窓が開いて、いつもユキが笑顔で手を振って迎えてくれた。
だが、閉じたカーテンはいくら待っても開くことはなかった。
「家にいないのか? ユキのやつ、どこに行ったんだ。こんなのおかしいよ。やっぱり、あの映画のせいなのかな」
「失踪する映画なんて、普通ないだろ?」
「けど、あのレンタルビデオ屋に呪いの映画があるって噂があるんだ」
「そんなの本当に信じてるのか?」
「俺はあるかもって思ってるし、あったら面白いなって思ってた」
松田は呆れてため息をついた。
「亮介も一緒に見たんだろ?」
「見た」
「で、何か変わったことはあったのか?」
「俺は別に……」
「だろ。もしかしたら病院に行っているのかもしれない。それか、気晴らしに買い物にでも出かけたんだろ。車もないようだし」
「たしかに……」
駐車場には車がない。加地は最後にもう一度だけインターホンを鳴らしたが、やはり反応はなかった。
その日は解散となった。
自宅に帰ってからも、加地はユキに何度もメールや電話をしたが、電話は繋がらず、メールの返事は返って来なかった。次第に不安と焦りが募っていった。
ユキはどこに行ってしまったのか。
どうしてこんなことになったのか。
気が付けば時間が過ぎ、食欲も失せた加地は気分転換にシャワーを浴びることにした。
浴室から出た時、明かりをつけておいたはずの部屋の電気が消えていた。
部屋は窓から漏れる街灯の灯りで薄暗い。
「最悪だ。このタイミングで電球が切れるなんて」
そう呟きながら、部屋に入ろうとして足を止めた。
部屋の中に誰かいる。街灯の明かりに照らされ、テレビの前に薄っすらと人影が見えた。
顔が見えず、泥棒だと思った加地が身構えた。
すると、その人影は、ゆっくりとテレビの方を指差した後、ゆっくりと消えていった。
人影が指を差した先には、開けっぱなしのDVDデッキがある。そこには、「山荘の惨劇」と書かれたディスクが残っていた。
その時、ふと松田から言われた言葉を思い出した。
「亮介も一緒に見たんだろ」
たしかに加地はユキと一緒に本編を見た。
だが、クレジットが流れ始めた頃、加地は先輩からの電話で席をはずした。電話を終えて部屋に戻ってみるとDVDの再生は止まっていて、ユキが顔面蒼白で体を震わせていた。
その時は、ただ映画を思い出して怖がっているだけだと思っていた。
そして今、目の前に現れた謎の人影。何かのメッセージだと感じた加地は、再び「山荘の惨劇」を見ることにした。
一度見たことのある映画は、新鮮味もなく恐怖演出すらも驚くことはそうない。そんな映画を加地は淡々と見ていたが、特に異変もなく、物語を最後まで見終えた。
音楽とともに、画面には出演者やスタッフのクレジットが流れ始めた。しばらく見ていると、流れていた音楽がノイズで歪み、クレジットの映像も激しく乱れた。
「なんだ?」
加地は手を止め、画面に目を向けた。
激しく乱れた映像が、ついに真っ暗になった。
次の瞬間、映画と関係のない映像が次々と映し出され、それを見た加地は顔色が変わり、言葉を失った。
「なんだよこれ……」
加地は戸惑いながら、加地はデッキの停止ボタンを押した。
そんなはずはない。何かの間違いだ。
加地は困惑しながらユキに電話をかけた。
呼び出し音が鳴るたび、加地の鼓動が早くなる。だが、どれだけ鳴ってもユキは出なかった。
その夜、加地が寝ていると、夢の中で白い人影が現れた。背中を小さく丸め、顔を手で隠していた。泣いているのか肩が震えている。
それがユキに見えた加地は、その背中に手を伸ばした。
だが、あと少しのところで目が覚めた。加地の心に不安と喪失感だけが残った。
翌日、加地が学校に着くと、廊下で女子グループがひそひそ話をしていた。いつもは楽しげに話している女子生徒たちの顔が、どこか強張っていた。
ふとその中の一人と加地は目が合うと、相手は慌てて顔をそむけた。
「おはよう」
挨拶をする加地。
「……おはよう」
挨拶を返すも、その女子生徒は加地と目を合わそうとしない。
他の女子生徒も明らかに様子がおかしかった。加地は不審に思いながらも、松田に会うため教室に向かった。
教室を覗くと、すでに自分の席について読書をしている松田が目に入った。教室内は男女がそれぞれのグループで話をしているが、その様子もいつもと違うように思えた。
誰も笑っていない。
教室に入ってきた加地を目で追いながら、こそこそと話をしている。中には加地と目が合うと、すぐに目を逸らした。
「真ちゃん」
声をかけると、松田が顔を上げた。
「あのさ、今日家に来て欲しいだけど」
「どうした?」
「あの映画、やっぱりおかしいだ。ユキが……」
ユキという言葉に周りの生徒が反応した。
「なんか、クラスの奴らおかしくない?」
加地が小さな声で尋ねた。
「俺も気になってた」
その反応に違和感を覚えていたのは加地だけではなかった。
周囲の生徒は、加地と目が合うと途端に目を逸らす。
「一体何だってんだ」
その反応に苛立ちを覚える加地。
その時、一人の男子生徒が加地に近づいて来た。
「その様子じゃ、知らないみたいだな」
「何が?」
「如月ユキが自殺したらしいぜ」
「は? 変な冗談はやめろよ」
「お前、浮気でもした?」
「ふざけたこと言ってるとぶっ飛ばすぞ。あいつが自殺なんてするわけないだろ!」
加地は怒り、男子生徒の胸倉を掴んだ。
「聞いた話さ。なんでも如月の家の前にパトカーが何台も止まってたんだとさ」
「止まっていただけだろ」
「いや、家の中から警察官が数人出てきて、大きな袋を運び出したらしいぜ」
「大きな袋ってなんだよ」
「頭悪いな。遺体袋だろー。どう考えても」
加地は胸倉を掴みながら睨みつけた。
「それ、誰から聞いたんだよ」
「誰だったかなぁ。けど、みんなもう知ってる話だぜ。まぁ、ご愁傷さまだよな」
胸倉を掴まれてもヘラヘラと笑う男子生徒に怒りが増し、加地は震える拳を構えた。
「そんなに楽しいか?」
松田が憐れみながらそう尋ねると、笑っていた男子生徒の表情が変わった。
校内にチャイムが鳴り響いても、怒りで今にも殴りかかりそうな加地に周囲は緊迫していた。
「そんな奴を殴っても、亮介が損をするだけだ。やめとけ」
松田がそう説得すると、加地は男子生徒を突き放した。
男子生徒は床にひっくり返り、それを見た周りの生徒はクスクスと笑った。
加地は自分の教室に戻り、松田は床に座り込む男子生徒を憐れむ目で見下ろした。
男子生徒は居たたまれなくなり、逃げるように自分の席に戻った。
教室に担任教師が入ってくると、生徒たちも自分の席についた。
担任は普段と変わらず連絡事項とプリントを配り終わると、職員室に戻ろうとした。
そのタイミングで一人の女子生徒が立ち上がり、徐にユキの事を尋ねた。
すると、担任教師は何かを言いかけた後、彼女の担任ではないから詳細は分からないと言った。
“死んだ”という噂があると伝えた生徒に「バカなことを言うな」
と叱り、教室を出て行った。
その言葉に安堵した生徒もいたが、松田や一部の生徒は否定しなかった担任教師のことを見抜いていた。
それは加地も同じであった。
ユキに電話は繋がらず、メールの返事もない。加地の脳裏には、あの映像がずっとちらついていた。
放課後、松田は加地のアパートに寄ることになった。
「見て欲しいものがある」
いつになく真剣な顔で頼まれ、松田は断ることが出来なかった。
加地の部屋は、飲みかけのペットボトルとゴミ袋、借りたままのDVDのケースで散らかっていた。松田はソファに腰掛け、加地はテレビのリモコンに手を伸ばした。
「映画、何時間だっけ?」
「一時間半ぐらい。けど、映画の部分より終わってからの方が問題なんだよ」
「何が問題なんだ?」
「とにかく、そこだけ見て欲しい」
「いいよ。どんな映画なのか気になるし、全部見るよ」
「呪いの映画かもしれないんだぞ?」
「悪いけど、俺はそういうのあまり信じていないんだ。だから平気だ」
「けどさ……」
「いいから早く再生してくれ」
松田に急かされ、加地は再生ボタンを押した。真っ暗だったテレビ画面に映像が現れ、
「山荘の惨劇」が始まる。
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