ふゆのおと

大隅 スミヲ

ふゆのおと

 目が覚めたのは窓から入ってくる明かりのせいだった。

 しかし、カーテンは閉まっていた。


 目を開けた遠山とおやまなぎさは疑問を覚えながら、カーテンを開ける。

 目に飛び込んできたのは、白い風景だった。

「ゆきだ」

 思わず渚は独り言をつぶやいた。

 昨夜寝る時は、雪など降っていなかったはずだ。


 雪はと降っていた。

 子どもの頃、何かの本で雪の降る音は「しんしん」であるというのを読んで、しんしんとはどのような音なのだろうかと想像していたことがある。

 しかし、雪が降る時に音はしなかった。しんしんというのは、音が無い様子を文字で表したものだということを大人になってから知った。

 雪は、しんしんと音を鳴らして降るわけではないのだ。


「さむい」

 また独り言をつぶやいた渚はベッドに引き返そうかと思ったが、思い切って起きてしまうことにした。

 時刻は午前6時。いつもであれば、まだ眠っている時間だ。


 キッチンに向かい、お湯を沸かす。

 ダイニングテーブルの椅子に腰をおろす。

「ひゃっ」

 渚は思わず声を出してしまう。木製の椅子が冷たく冷えていたのだ。

「もう冬だな」


 お湯が沸いたので、マグカップの中にインスタントコーヒーの粉を入れてお湯を注ぐ。

 コポコポというお湯の出る音と温かい湯気、そしてコーヒーの香りを渚は楽しむ。


 朝食は買っておいた食パンを切って、トーストにした。

 食パンは少し離れたところにあるパン屋で購入したものである。

 このパン屋は行列が出来るほどの人気店で、食パンは一斤まるごとでなければ買うことができない店だった。ひとり暮らしであるため、食パン一斤は多すぎるなと思って渚は買うのをためらっていたが、試しに買ってみたところ、思っていた以上に食パンはおいしく、一斤買ってもすぐに無くなってしまっていた。


 午前9時には店を開ける。遠山生花店。渚は花屋を営んでいる。

 花屋といっても客はほとんど店にやってくることはない。辺鄙な場所に店を構えているという理由もあるが、基本的に遠山生花店の主軸はネット販売なのだ。


 店舗は渚の暮らしている家と同じ敷地内にある。田舎なので土地も広い。店舗の裏にはビニールハウスがいくつかあり、その中でバラなどを育てたりしていた。

 ネット販売で何よりも好評なのが、肥料であり、バラ用の肥料などはリピーターが後を絶たない売れ筋商品だった。


 店先にいくつか鉢植えの花を並べて、シャッターを開けると遠山生花店は営業開始となる。

 客がほとんど来ないことはわかっているので、渚は来店を知らせるセンサーのスイッチを入れておいて、裏にあるビニールハウスで花の世話をしたり、肥料の調合をしたりするのがほとんどだった。

 もし店に客がやってきた時は、入口のところに設置している人感センサーが反応して、渚のスマートフォンに通知してくれるのだ。


 ビニールハウスのバラ園では、赤や黄色、黒といった色とりどりのバラが咲いている。

 実はバラという花は寒さに強い。野生のバラなどは雪の降る地域で生息していたりするのだ。しかし、寒さに強い分、暑さには弱く、夏場の方がしっかりとバラの様子を見てあげる必要があった。


 店の裏口からビニールハウスまでの道は雪が積もっていた。

 この地域では何年かに一度、今日のように雪が降り積もることがあるが、普段の冬は雪すら降ることもない地域なのだ。


 長靴を履いた渚は、スコップを片手に雪かきを進めた。私有地であるため、自分がやらない限りは誰も雪かきなどはしてくれない。逆にいえば、別にやる必要がないと判断したらやらなくてもいいということだ。しかし、渚はもくもくと雪かきを続けた。もしかしたら、雪かきという作業が好きなのかもしれない。


 しばらく雪かきをしていると、ポケットの中でスマートフォンが震えた。どうやら、誰かが店の方に来たようだ。渚はスコップを雪の中に突き刺すと、除雪して通れるようになった雪道を歩きながら店の裏口へと向かった。


 店舗の前には大型の四輪駆動車が停まっていた。

 店に渚が出てきたことに気がついたようで、四駆車の運転手はドアを開けた。

 降りて来たのは、何度か見たことのある、身長が高くひょろりとしたイメージの若い男だった。赤いダウンジャケットを着ており、耳にはいくつもピアスがつけられている。


「ちわっ、遠山さん。いつものやつ、持ってきたんですけど雪が積もってて裏に車をまわせないんすよ」

「あっ、そうですね」

 男に言われたことではじめて渚は気づいた。車で裏に入っていく道の雪かきをしていなかった。

「おれ、運びますよ」

「あ、でも……」

「大丈夫っす。こう見えて、おれ力持ちですから」

 男はそういうとダウンジャケットを脱いで、車の運転席へと放り投げた。

 ダウンジャケットを脱いだ男は、長袖のトレーナー姿だった。

 さすがにこの雪の中でトレーナー一枚は寒そうだ。

「よし、じゃあ、運びますね」

 車の後部ドアを開けると、座席シート2列を占領している荷物を引っ張り出す。その荷物は寝袋のような大きな袋で、中身はとても重そうだった。


 男の協力もあって荷物は無事、店舗裏にある作業小屋まで運び入れることが出来た。

「すいません、ありがとうございます」

 男にお礼をいうと、渚は少し考えるような顔をしてから言葉を続けた。

「よかったら、お茶飲んでいきませんか」

「えっ、いいんすか」

「はい。お手伝いしていただいたので、お茶ぐらいごちそうさせてください」

「いやー、嬉しいっすね。あざます」

 男は本当に嬉しそうな顔をした。見た目はちょっと怖い人だが、笑うとどこか可愛いとも思える笑顔だった。


 コーヒーを淹れた渚は、店舗にある小さなテーブルで男と一緒に飲んだ。

 温かいコーヒーを飲んだせいか、リラックスした男は口数が多くなっていた。

「本当は、この仕事を辞めたかったんっすよ、俺」

 男はそう言いながらトレーナーを腕まくりした。

 店舗内ではストーブが焚かれており、上着がいらないぐらいの温かさとなっている。腕まくりをした男の腕には和彫りの刺青が入っていた。

「手柄は全部兄貴分に持っていかれるし、兄貴分の失敗は全部被らないとならないしで、いいところがなくて。でも、そんな兄貴分が先週から姿を消しているんすよ。しかも、組の金を持ち逃げして」

 男はそこまで言って笑う。

「俺は何も知らないっていうのに、組長おやじは俺が兄貴の協力者なんじゃないかって疑っているし。やってらんないっすよ、本当に」

 そこまで男が言った時、男の目がとろんと閉じかけて来た。

「でもね、俺はほんとうに……しららひんれふお……あえ、なんらかきゅうにねむく……」

 呂律がまわらなくなった男はテーブルに突っ伏すようにして倒れてしまった。

 しばらくすると、男の寝息が聞こえてくる。


「やっぱり効果は絶大ね、これ」

 それは南米から仕入れた、とある植物の根っこを乾燥させて粉末にしたものだった。この植物の根っこは普段は無毒なのだが、コーヒーと混ぜると意識を昏倒させるほど強い睡眠導入剤となるということだったが、ここまで効果があるとは渚も初めて知った。


 連絡が来たのは、昨夜のことだった。

 あの時はまだ、雪などは降っていなかったはずだ。

『荷物をひとつ届ける。その荷物と配達人をお願いしたい』

 短いメッセージ。このメッセージだけでは何のことであるかはわからないが、渚にとってはそれだけの情報で十分だった。


 男の服を脱がせると、上半身は刺青だらけだった。まだ色の入っていない天女の絵が背中に大きく描かれており、左腕には鯉、右腕には龍が描かれていた。

 天女の足元には雲が広がっており、その絵は下半身に描かれていた。ちょうど尻の辺りまで雲が広がっている。

 下の毛はすべて無くなっていた。いま流行りの全身脱毛というやつなのだろう。つるつるになっている大人の下半身を見るのは初めてだったが、なんとも不思議な感じだった。


 渚は道具を用意すると、さっそく仕事に取り掛かった。

 全裸にした男のことをバスタブの中に運び入れると、3色のポリタンクを持ってきて順番に入れていく。赤、青、黄色。この順番を間違えると大変なことになってしまうから、注意が必要だ。


 赤を入れ終わったところで、渚はマスクをつけた。マスクといっても風邪のときにつけるマスクではなく、ゴーグルとマスクが一体化されているガスマスクと呼ばれる部類のものだ。


 マスクの装着が終わったところで青を入れる。あとはしばらく様子を見て、溶けはじめたら、黄色を入れるだけだ。


 雪のせいもあってか、店を訪れる客はひとりもいなかった。

 男が乗ってきた四輪駆動車は、あとで組の人間が取りに来ると連絡があった。


 液体の効果が充分に出たところで渚はマスクを外して、次の行に移ることにした。


 植物にとってカルシウムも必要な養分であり、植物用カルシウム肥料といった商品が園芸用品店などでは売られていたりする。遠山生花店でも、カルシウム肥料は売れ筋商品のひとつであり、リピーターが後を絶たない商品だった。


 すべての作業を終えた渚は、夕飯の支度をはじめることにした。

 近所の養鶏場からもらった鶏肉が冷凍して残っているため、それを鍋に入れて水炊き鍋にでもしよう。野菜もまだ残っているものがあるはずだ。


 渚はひとり用の土鍋を用意すると、水を張って手羽先と手羽元の部分を煮込みはじめた。骨の付いている肉は出汁にもなる。強火でグツグツと煮ていくと、スープがだんだんと白濁になっていく。白湯パイタンスープというやつだ。

 そうなったら、人参や大根、白菜といった野菜を入れて一緒に煮込む。野菜に火が通れば出来上がりだ。


 コトコトとお鍋が煮える音が聞こえてくる。

 そろそろ食べごろかな。

 渚がふたを開けると、湯気が天井に届きそうな勢いであふれ出してきた。


 両手に鍋つかみを装着して、鍋をダイニングテーブルへと持っていく。


 水炊きは、醤油と酢を混ぜたつけダレで食べる。

 白湯スープとつけダレが混じって絶品の味付けになる。


 よく火が通った鶏肉はホロホロであり、箸でつつけば骨から肉が剥がれ落ちるほどだった。

 食事のお供は、日本酒にした。口当たりの良い日本酒は、寒い日の鍋によく合う。

 飲みすぎないように最初から飲む分量を決めて、それを江戸切子の徳利とっくりに入れておく。あとは手酌で、ぐい呑みで飲むだけだ。


 渚はよく飲み、よく食べた。やっぱり仕事の後の食事は最高なのだ。


 後片付けをし終えた渚は、カーテンを開けて外の様子を見た。

 雪は止んでおり、静かに風が積もった雪を空へと舞い上げていた。

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