オレサマ竜と始まりの約束

りつか

オレサマ竜と始まりの約束

 落差のあるその滝は耳に心地よい水音を響かせていた。頬を撫でる風は水気を含んでひんやりと冷たい。瑞々しい空気を胸いっぱいに吸いこみ、エルザリータは己の両頬をぴしゃりと叩いた。


「……よし、」


 滝の元へと歩き出せば飛沫しぶきが作り出した濃やかな霧が行く手を阻むように立ちこめた。エルザリータは外套を前でしっかり合わせ、滝壺の縁を注意深く進んでいった。

 水のカーテンに辿り着くとその脇からそっと身を滑りこませる。滝の裏側に大きな穴がぽっかり口を開けていた。結い上げた髪や外套についた水気を簡単に払い、エルザリータはあらためて奥を見やった。

 断続的に聞こえてくる唸り声。薄暗くてよく見えないが確かにこの先にようだ。


 腰につけていた筒型ランプをベルトから外した。灯した明かりがてらてらとあたりに反射する。足元は泥濘ぬかるみが酷く、歩くのに注意が必要そうだ。

 ランプをもっと奥に向かって掲げてみた。炎はなんとも心細そうに揺らぎ、ふうっと消えてしまった。


「……え?」

「待ってくれエルザリータ!」


 背後からの声に振り向けば青年がふたり続け様に飛びこんできた。ここまで一緒についてきたテオディールと彼の従者グランツだ。額に貼りついた前髪を掻き上げるテオディールにグランツがすかさずハンカチを差し出す。主が顔を拭う間に従者は別の布で外套の水気を手際良く拭きあげていった。

 人心地のついた青年がようやく顔を上げた。ランプを抱えて佇むエルザリータの隣に並び、あらためて奥を眺めた。


「ここが〝ロヒガルムの災い〟の巣?」

「おそらくは……。話に聞いていた通り水の豊かなところですし、何よりあの子の声が聞こえます」

「そうか。明かりはつけないの?」

「……それが消えてしまって」


 エルザリータが自身のランプを示すとテオディールはなるほどと頷いた。


「これだけ水の気配が濃いなら魔術道具以外は厳しいだろうな」

「これも魔術道具なのですが……」

「そんなのじゃだめだよ。〝星のランプ〟くらいじゃないと。グランツ、」


 テオディールの声にグランツがランプを差し出した。エルザリータの物よりひと回り大きい五角形のランプだ。真鍮のフレームは優美な曲線を描き、ガラスにも繊細な模様が彫られている。なんというか装飾がいちいちきらきらしい。

 テオディールは鷹揚に口角を上げた。


「僕の家に代々伝わる由緒正しきランプさ。できみを見つけられたのもこれのおかげだよ。グランツ、あれも出してくれ」


 次にグランツが取り出したのは革製の小さな巾着袋だった。エルザリータにランプを渡したテオディールは袋の中身を確認し、にっと白い歯を見せた。


「じゃあ、ここからは僕とグランツに任せてもらおうか」

「いえ、殿下はここでお待ちください。わたしひとりで行ってまいります」

「そんな。愛しのエルザリータに危ないことはさせられないよ。僕がやる」

「結構です。恐れながら殿下がお出ましになると話がややこしくなりま」

「問題ない。一瞬で終わらせるから」


 エルザリータは眉を顰める。

 彼女の怪訝な目に臆することなく、テオディールは朗らかに巾着袋を振ってみせた。


「二度目だからね。今度こそ成功させてくる」

「……それは?」

「ん? 封印石の粉だよ決まってるじゃないか」

「やめてください! わたしはあの子を迎えに来たんです!」

「迎え!? きみを殺そうとしたを!?」


 お互いがお互いに目を剥いた。

 しばしの沈黙のあと、先に声を取り戻したのはテオディールだった。彼は大袈裟なくらい大きな溜息をひとつつき、巾着袋をグランツに渡す。そうしてエルザリータを覗きこんだ。

 

「きみの住まいはやつに破壊されたんじゃなかったか? しかもきみがバルコニーにいるのをわかってて蹴落とした……。目が合ったって言ってたもんね。確信犯じゃないか」

「それは! ……確かに目は合いましたけど……。でもあの子が掬ってくれたから怪我ひとつありませんでした。本当にわたしを殺すつもりだったならわざわざそんなことするでしょうか」

「恨んでいた可能性は否定できない。やつが住み慣れた地を追われることになったのはきみが原因とも言える」


 エルザリータが息を呑む。そんな彼女の両肩をテオディールは優しく包んだ。


「水竜は強大な力を持った恐ろしい生き物なんだよ。どんなに丁寧に言い聞かせたとしても僕たちの価値観や考え方は理解できない。あいつが何を考えているのかわからないようにね」


 あのときやっぱり封じておくべきだったと思うよ。そう言ってテオディールはエルザリータの手からランプを取り上げた。再度彼女を見つめると、その肩を軽く叩いた。





 * *





 ロヒガルム地方はその大部分を森林が占めている。一帯の水瓶であるティエル湖にはエルザリータが生まれるずっと前から水竜が棲んでいると言われていた。突然の嵐や一向に動いていくことのない雨雲、延々と降り続く雨などは、加減を知らない水竜が勝手気ままに水を操っているからだと信じられていた。

 家や畑が水に浸かるほどの降雨があると人々は湖畔へ赴き、雨止あまやみ祈願の供え物をするのが慣わしだった。気休めだということは皆わかっていた。だが何度治水しようと易々超えてくる災害の前に人々はもはや祈るしかなかった。


 その年も何日も雨が降り続いていた。雨止み祈願の儀式が行われることとなり、祈りを捧げる役には街一番の器量好しと謳われるエルザリータに白羽の矢が立った。

 水害は水竜が引き起こすもの、そう語り継がれてはいても竜は伝説上の生き物である。まさか儀式にが降臨するなど一体誰が想像しただろう。彼は供え物とエルザリータを引っ掴むと力強く舞い上がり、立ちこめる重苦しい雲の中に突っこんだ。

 どこをどう飛んだのかわからない。強風に煽られているかと思えば突然水の中をくぐり抜け、もはや生きた心地がしなかった。とにかく振り落とされることだけは勘弁と、エルザリータは夢中でしがみついていた。


 連れてこられたのは広い洞穴だった。隅に水の溜まった穴がひとつ。天井には幾つか穴が空いていて陽光が控えめに降り注いでいた。

 目の前にいるのは黒い蛇に似た。頭に二対の角を持ち、背には皮膜に覆われた翼がある。これがあの、まことしやかに噂されてきた水竜というものなのか。とてつもなく大きなそれは圧倒的な存在感を放ってエルザリータの前に鎮座している。


「いいいんんうええええんんんああああ」


 鳴き声がぐあんぐあんと反響する。エルザリータは耳を塞いで小さく縮こまった。

 まさか本当に実在したなんて。しかもこんな間近で見ることになろうとは。

 竜が再び吠えた。恐怖に全身の毛が逆立つ。エルザリータは震える両手を胸の前で固く組み合わせてじっと耐えた。

 音が止み、そろそろと顔を上げれば鋭い青の双眸とぶつかった。ひっと息を呑む。エルザリータは座りこんだまま、力の入らない足でじりじりと後ずさった。ともすれば遠のきそうになる意識をどうにか繋ぎ止めながら。


「あ、雨、を、降らせないで……!」


 必死な叫びはそれが必死すぎたせいか、想像以上にか細かった。竜は微動だにしない。彼女はもう一度勇気をかき集めた。


「雨が、続くのは、困るんです! 街が、」

「おおああああええおおおおああいいいああああ」

「ま、街が、浸かってしまうし、作物も……!」

「いいええいいいいあああああ」

「作物が、だめに……」

「おおいいあああああああおおいいおおお」


 エルザリータは黙りこんだ。竜もぴたりと鳴くのをやめた。まるで合いの手か、それこそ会話でもしているようなタイミングで声が返ってくる。偶然だろうか。

 エルザリータがおもむろに首を傾げると水竜も同じように首をぐぐぐと真横に倒した。


「……わたしの、言葉、わかる……?」


 ゆっくりと、囁くように問いかけた。

 竜はかぱっと口を開いたがすぐに閉じ、しばらく思案げにしていたと思うと小さく口を開いた。


「あー、がー、ううー」


 耳を押さえなくても耐えられるほどの音量だった。紡がれた音も何か意味を持って訴えられたもののような雰囲気さえ感じられた。

 ――もしかして、意思の疎通を図れるのではないかしら。

 するりと忍びこんできたその考えにエルザリータはこくりと喉を鳴らす。


 それからひとりと一匹の奇妙な共同生活が始まった。

 竜は日がな一日のんびりと寝そべっていた。隅の水穴に飛びこむとしばらく帰ってこなかったが、後で聞いたところによれば穴の先がティエル湖に繋がっているらしい。そんなわけで時々のっそり出ていく他はエルザリータの一挙一動を物珍しそうに眺めていた。彼が洞穴内で食事らしい食事を摂るところはついぞ一度も見ることがなかった。

 始めこそ竜の胃の中に収まる危惧を抱いていたエルザリータだったがそれが杞憂に終わると次の気がかりは自らの食事である。幸い水の心配はなく、一緒に運ばれてきた供え物をちびちびと食い繋いでしのいだ。なんと竜自身が食料になりそうなものを取ってきたりもした。

 逃げることを全く考えなかったわけではない。けれど唯一の出入口を通っているときに竜と鉢合わせしないとは限らないし、なんと言ってもエルザリータには使命感があった。水竜が実在するとわかった以上、無闇に嵐を呼ばないよう自分こそが竜を説得しなければならないと。

 エルザリータの思った通り竜は賢く、人間の言葉をちゃんと理解し、会話もできた。あまりに無邪気で無頓着ではあったが望みはあった。


 その後救出に駆けつけた隣国の第四王子テオディールにエルザリータは

 一度は水竜を封じることに成功した王子だったがエルザリータ渾身の説得と交渉の末に渋々封印を解除する。水竜は住処すみかを他所に移し、エルザリータは街に連れ戻されて落着となった。彼女が大騒動の最中さなかに連れ去られてからおよそ二月後のことである。





 * *





 ふたりの足音が遠くなっていく。

 遅れること数秒、エルザリータはテオディールを追いかけた。前に回りこむと王子の手からランプを奪い取った。驚きに見開かれる彼の藍色の瞳を見据え、エルザリータは息を吸いこんだ。


「わたしはあの子を信じてます。大切な友だちですから!」

「エルザリータ、だが」

「わたしが家に招待したんです。イェルクは遊びにきただけ。だからあの子の行為は絶対に、何か理由があるんです。会って話せばわかるはずです」


 それだけ言って奥へと駆け出す。低い唸り声が響いていても恐ろしさは全く感じなかった。彼は優しい子なのだ。エルザリータに危害を及ぼすはずがない。


「イェールク!」


 ドームのような空間の奥まった部分に黒い塊が嵌りこんでいた。そばに駆け寄ったエルザリータはランプを足元に置くと塊の表面にそうっと両手を伸ばした。形状からして尾の部分のようだ。ゴツゴツした感触の鱗がランプの明かりを弾いてきらきら輝いている。


「遅くなってごめんなさい。イェルク、迎えにきました」

「危ないぞ! 離れてエルザリータ!」

「あの日遊びに来てくれたのに、どうして帰ってしまったの? 教えてください」


 背後から引っ張る手はすげなく振り解いた。エルザリータは遥か上方を仰ぎ、おそらく頭があるであろう場所に当たりをつけ見つめ続けた。


「なんとか言って。黙っていては何もわかりません」


 辛抱強く返事を待っているとやがて黒い山がみしみしと動いた。ああやはり思っていた場所に頭があった――そう思ったのも束の間、エルザリータの頭上に大きな水の塊が落ちてきた。


「きゃあ!」

「わぁっ!」

「ちょっ、ちょっと……待っ……やっ」

「殿下! あまり近づかれては……げほっ」

「……早くこっちへ、エルザリー……ぅぐっ……」

「で、でんか……」


 水竜の目からぼたぼたと大量の水がこぼれ落ちていた。竜のサイズともなれば涙も特大の雫になるらしい。あっという間に全身びしょ濡れになった三人は慌てて竜から離れ、洞窟の壁に張りついた。

 唸り声が腹に響く。洞窟に入ったときから聞こえていたのは泣き声だったのか。濡れた髪の毛を絞り、深呼吸をふたつばかりしてからエルザリータは一歩前に出た。


「イェルク、静かに! 小さな声で話してくれないと、わかりません。前にわたしが言ったこと、覚えていますか?」


 水竜は涙をこぼしつつもこっくりと、いやに人間臭く頷いた。エルザリータはほっと息をつき、一歩、もう一歩と歩いて再び竜の身体に手を添えた。


「教えてください。なぜ帰ったのか。理由があるんでしょう?」

「……リティ、おこってる……オレサマ、かなしい……」


 水竜はゆっくり器用に人間の言葉を喋った。エルザリータによる教育の賜物だ。

 だが彼女は首を傾げるしかなかった。言葉はちゃんと聞き取れたけれど、


「わたしが怒る? それはどういう……」

「……リティおちた。リティ、こわいかおした……おこった。オレサマかなしい」

「まあ。わたしは怒ってません。びっくりはしたけれど、」

「怒っていいんだよエルザリータ。そいつの言うことに価値なんてない。大体僕でさえまだ許してもらってない愛称で呼ぶなんて言語道断……」

「殿下は少し黙っててください」

「エルザリータぁ」


 外野は黙殺し、エルザリータは根気よく水竜に問いかけた。そうしてぽつりぽつりと語られる言葉を繋いでいき、ついに結論を導き出した。


「……つまり、バルコニーにいたわたしを見つけて嬉しくなって、その勢いで突進したら建物ごと壊してしまった。それでわたしが落ちたから、わたしが怒っていると思った。……そういうことですか?」

「なんだそれ! 水竜ってここまでバカなのか」

「殿下!」

「うううああああおおお」


 エルザリータと同時に竜が吠えた。もとい、激しく泣き出した。怒号にも似た轟音に耳を塞ぎ、勢いよくぼたぼた落ちてくる水の塊を三人は必死で避ける羽目になった。

 どうやらここは入口より低くなっているらしい。あたりはすっかり涙の海で、水深はすでにエルザリータのくるぶしを超えている。


「ででで殿下、ここは一旦下がった方がよろしいかと……!」

「そうだな。エルザリータ行くぞ」


 泣き声が反響する中、入口の方へと逃げるグランツがざぶざぶとテオディールを引っ張った。テオディールもまたエルザリータに手を伸ばす。


「しーずーかーに! 泣くのは禁止です!」


 彼女の声が洞窟内に凛と響き渡った。おおおんと声を漏らしていた水竜はぴたりと口を閉じ、止まり切らなかった息は変なしゃっくりになった。


「ではこうしましょう! 今度街に来るときは、イェルクは小さくなりなさい」

「ちいさくぅ?」


 おうむ返しに呟いたのはテオディールだった。彼の顔の真ん中には「そんなことできるのか」と書いてある。エルザリータは思案げに視線を宙に彷徨わせた。


「前にいた洞穴の出入口が湖に繋がる穴だったのは殿下もご存じでしょう? イェルクはあそこを通るとき、身体を縮めていたと思うのです。ね、身体を小さくすることができますよね?」


 前半はテオディールに、後半は水竜に向かって話しかける。振り仰いだ先で水竜は首を真横に傾けていたが、


「オレサマ、ちいさくなる……?」

「そうです。わたしの家は人間用の建物なので、イェルクがそのままの大きさで来れば壊れます。当たり前です」

「ニンゲンのいえにくるとき、ニンゲンになる?」

「そうですね。……え、人間になる? なれるんですか」


 きょとんと目を丸くするエルザリータに水竜はやっぱり人間臭くこっくりと頷く。そうして思い切り息を吸いこんだと思うと、ぼふうううと鼻息を吹き出した。


「きゃあ!」

「エルザリータ!」


 勢いよく吹いてきた突風に思わず目を閉じる。涙の海は一瞬で吹き飛び、エルザリータの身体が重心を失った。大きくよろめいた彼女の手が宙を掻く。

 倒れる――!

 その瞬間、手首をパッと掴まれた。思い切り前に引っ張られて空足を踏んだエルザリータを、手を掴んだ当人が受け止める。ほう、と息をついてようやく彼女の意識は自分を支えてくれた相手に向いた。

 つややかな黒髪の男の子がいた。背の高さはエルザリータの腰くらい。およそ日焼けなどしたことないような白磁の肌は滑らかで、深い青の瞳が印象的な少年だ。中性的でとても綺麗な面立ちをしている。


「えっ……?」


 先ほどまで竜がいた空間と目の前の少年に代わる代わる目をやる。絶対的な存在感を放っていた水竜の姿はどこにもなく、入れ替わるように現れたのがこの彼となればやはり答えはひとつしかない。

 小さな手がそっと離れた。エルザリータが目を丸くしていると少年は「なんだ?」と不思議そうな顔で首を真横に傾けた。


「あなた、イェル……」

「おっ、おい、おまっ、おまえ、なんて格好してるんだ!? おいグランツどうにかしろ!」

「は、」


 男性陣が飛んできた。グランツの背中で少年が見えなくなったと思う間にエルザリータはテオディールに肩を引き寄せられた。まるで盾のごとく庇われるような体勢になってエルザリータはきょとんと目を瞬かせる。なぜ王子はほんのり顔を赤らめているのだろう。それに思いのほか近い。

 エルザリータに遅れることしばし、テオディールもやっと距離の近さに気づいたようだった。赤い顔がますます赤くなり、弾かれたように身体が離れる。


「す、すまない!」

「いえ……」


 あらたまって謝られるとじわじわ顔が熱くなってきて思わず俯く。

 少年はグランツの外套でくるまれていた。そこで初めて彼が裸だったことをエルザリータは知った。あまりに綺麗な目鼻立ちに釘付けになっていて気づかなかった。

 だが問題はもはやそこではない。


「……イェルク、ですか?」


 おもむろに一歩踏み出す。エルザリータを見つめていた少年はこっくり頷いた。


「ニンゲン」

「まあイェルク! すごいわ、本当にイェルクなのね!」

「……信じられん……」


 駆け寄るエルザリータの背後でテオディールが目を眇める。

 エルザリータは膝をついて少年の両手を取った。にっこりと口の端を持ち上げれば彼もつられたように口角を上げた。思わずエルザリータの息が止まる。美少年による笑顔の破壊力たるや凄まじい。

 手は繋いだまま、エルザリータはすっくと立ち上がった。


「イェルク、やっぱりわたしの街に来てください。街に来て、人間のことを知ってください。人々の生活のことや、食べ物のこと……そうだわ、服も作りましょう」

「ふく?」

「人間は裸でうろうろしたりしません。だから人間の格好をするときは服を着なくては。イェルクにはどんな服が似合うかしら」

「エルザリータ! 何を言ってるんだ、そいつは災いだぞ!? 何をしでかすかわからない」

「まあ、殿下」


 エルザリータはあらためて青年の正面に向き直った。身体の横で両手を拳の形に握りこみ、驚きに見開かれた彼の双眸をまっすぐに見上げる。


「わたしはひと月以上イェルクと一緒におりました。イェルクはわたしを傷つけなかったし尊重してくれました。きっと大丈夫です」

「大丈夫なもんか! そいつは人間じゃないんだぞ、善悪の区別もつかないんだ」

「恐れながら申し上げます。人間だからどうの、水竜だからどうのというのはあまり意味がないと存じます。同じ人間でも話が通じない者はおります」


 視線を絡ませたままエルザリータは一歩距離を詰めた。


「無知が原因ならばこれから知ればいいだけのことです。何をしたら困らせて、何が喜ばれるのか。理由がわかればあの子はちゃんと判断できます。殿下、イェルクは賢い子です」

「エルザリータ、だが」

「わたしが責任を持って教えます。ですからお願いします。どうか見守っていただけないでしょうか」

「う……」


 沈黙が支配する長い長い一瞬だった。たっぷり十数秒を数えてから、テオディールは深く息をついた。僅かに視線を逸らし、渋々と言ったていで「条件がある」と呟いた。

 エルザリータは背筋を正して言葉の続きを待った。彼から返ってきたのは真剣な眼差しと予想外な言葉だった。


「これから先ずっと、きみが僕の隣にいてくれるなら。それなら考えてやっても、いい」

「……となり、ですか?」

「そうだ」

「それはつまり……殿下もイェルクにいろんなことを教えてくださるということでしょうか? わたしと一緒に」

「ん? あ、ああ……。ううん?」

「まあ!」


 テオディールは訝しげに小首を傾げたが幸か不幸かその表情はエルザリータの目には入らなかった。パンと手を叩くとそのまま手指を組み合わせ、紅潮した頬のまま深々とお辞儀した。


「ありがとうございます! お許しいただけるうえにご教授まで賜れるなんて……。わたしでは至らぬ点もございましょう。ぜひよろしくお願いいたします」

「……それは承諾の意と受け取っていいんだね?」

「もったいないお言葉です」

「そうか!」


 テオディールがエルザリータの両手を取った。きらきら目を輝かせる王子に彼女もまたにっこりと笑みを浮かべ、その手を優しく握り返した。

 よろしく頼む、こちらこそとふたりが和やかに挨拶を交わすかたわらで、グランツはそっと歓喜の涙を拭っていた。少年は心底不思議そうな面持ちで首を真横に倒した。






 エルザリータと水竜イェルクの交流はこうして始まった。

 水竜は彼女との約束を律儀に守り、街に現れる際は必ずヒトの形をとった。時には王子も交えお茶を楽しむ光景が散見された。少年の正体については伏せられ真実はごく限られた者だけに明かされた。


 あの日交わした王子との約束がとんでもない勘違いだったとエルザリータが知るのはさらに数ヶ月後のことである。

 彼女は血相を変えて非礼を詫び、分不相応を理由に辞退を申し出た。王子は「家柄は不問。無知はこれから知ればいいだけのこと」と一蹴し、全く動じることはなかったという。

 ふたりはそれから少しずつ距離を縮め、夫婦となると終生仲睦まじく暮らしたと言われている。


 災いの竜を追い払った英雄と、彼に救い出された麗しの姫。ふたりの物語はその後長く語り継がれることとなる。

 だが追い払われたはずの竜が実は姫に懐き、友情を育んだことはあまり知られていない。

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