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『学術院に行く? 許可できるはずがなかろう。おまえはほとんど目が見えないのだ。道中危険過ぎるし、もはや書籍を読むほどの視力もないのだろう』


 旅立ちの前夜、父が吐き出した言葉が脳裏に蘇る。


 今宵、ひんやりとした夜のとばりの中、細い月の光は心許こころもとなく、砂漠は闇に覆われている。


 ターリクの視力では、何の物陰も見えない。先ほどまでは、夜目が利くリダーが先導してくれていたのだが、砂竜は今や横たわり、ぴくりとも動かない。


「父さんが正しかった。少なくとも、こんな闇夜に歩き続けるべきではなかった。年老いたリダーが渇き、力尽きようとしていることに気づけないほど追い込まれ、心の目ですら周りが見えなくなっていた」


 ひんやりとした砂竜の鱗を、幾度も幾度も愛撫する。その身体はいずれ、砂に還るだろう。その時まで、友の滑らかな感触を、この手に刻み付けたかった。


「まだそこにいるんだね、リダー」 


 冬の夜に消えた命は水神の元へ還るまで、しばし砂漠を彷徨さまようという。


 それは、低気温の環境下では、肉体を満たしていた水が陽光や外気に熱せられ、天へと戻るのが遅れるからであり、陽が昇ればすぐに精神は水神の元へと還ってゆく。


 水となり世界を循環し、他の生物を満たす。その器が命を終えればまた水に還り、再び水神の御許へ。こうして全ての生き物は、世界を循環し続ける。


「今ね、君と過ごした日々を最初から思い出していたよ」


 ターリクの耳には、愛竜リダーの声が聞こえているのかもしれない。答える者もない暗闇に、少年の声が一つまた一つと吸い込まれていく。


「まったく、君はお婆ちゃんになっても寂しがり屋のままなんだから。僕も君と一緒に水になろうかな。もう何時間水を飲んでいないかわからないし、身体が石みたいに重い。井戸を探そうにも、こんな夜中、僕の目は何の光も映さない。ごめんよ、リダー。君を巻き込んでしまった。集落から出なければ、もう少し長く生きられたはずなのに」


 ターリクは、大きな背中に覆いかぶさるようにしてリダーを抱き締める。夜の砂漠を駆け回る小動物が立てる喧騒に耳を傾けて、瞼を下ろす。


 乾燥しひび割れた唇から、遠い自然の騒めきにも掻き消されそうなほど、微かな声が滑り落ちる。それは、在りし日のリダーが好んだ物語。


 確かに今、リダーはそこにいる。ターリクが共に行くのを待っているのだろうか。


 身体は砂へ。精神は水へ。命はあるべき場所へと還るものである。



 冷たい。顔が、濡れている。


 奇妙な感触に目を開けて、ターリクは周囲を見回した。灰色の空が見える。辺りは何やら雑然としていて、狭苦しい。


「起きたか」


 頭上から、穏やかな老人の声がした。どうやら古びた寝台の上に横たえられていたようだ。ターリクは目を瞬かせてから、腕を突いて上体を起こす。


 額に乗せられていた、湿った布がずり落ちた。


「無理するでない。覚えているか。門の前で倒れていたんだ」


 ターリクは声の方へと視線を向ける。曖昧な輪郭を元に推察すると、小柄な白髪の老人だろう。


 先ほど空だと思ったのは、灰色の天井であり、ここは小さな家の一室のようだ。


「僕は……そうだ。リダーは⁉」


 思わず身を乗り出せば、老人は片手でそれを制し、言葉なく部屋の隅に向かって行った。


 しばらく何かを探り物音を立ててから戻って来て、彼はターリクの正面に腕を突き出した。それきり何も語らない。ターリクは首を傾ける。老人はややしてからターリクの鼻先で手をひらひらとさせて、合点がいったというように、声を漏らした。


「見えぬのか」

「見えます」


 反射的に言い、肩をすぼめて付け足した。


「その……薄っすらとしか見えないだけです」


 老人は小さく鼻を鳴らし、ターリクの手を取り何かを押し付けた。ひんやりとして硬い。眼球に近づけてみるとそれは、手のひらで包み込める程度の大きさの小瓶であった。


「砂だ」 


 老人は低く言う。


「きっと、君は砂竜を連れていたのだろう。竜の形に積もった砂の上に、君は突っ伏していた」


 砂竜は命を落とすと、一晩で砂になる。翌朝の暁に照らされて、肉体は瓦解し骨すら残らず、文字通り砂になるのだ。だから砂竜族は砂竜が死ぬと、その砂を遺砂いさと呼び、小瓶や皮巾着に入れて大切に保管する。


 小瓶を傾ける。さらさらと砂が流れる音がした。薄っすらと赤みを帯びた遺砂。紛れもなく、リダーのものだろう。


 砂の赤に愛竜の最後の姿を重ね見て、息が出来ぬほど胸が締め付けられる。小瓶を握り締め、胸に抱き寄せた。気づけば、言葉が滑り出していた。


「僕が、リダーを殺したんだ。僕が、学術院に行きたいなんて言わなければ。この目が見えなくなる前に一度で良いから帝国最大の書庫を目にしたいだなんて、意味のない願いを抱かなければ」


 ターリクの口からは、次々に懺悔の言葉が落とされる。それはやがて無意識のうちに、物語として紡がれていく。いつもリダーに聴かせてきたように。


 老人は、時折身じろぎをしながら静かに耳を傾けてくれた。


 途中から、部屋の掃除を始めたような気配がしたが、気に留めない。もし聞く耳がなくとも、ターリクは語り続けただろう。


 やがて、もうこれ以上語ることがないと気づいた時、大きな喪失感を覚えた。それと同時に、リダーがどれだけ自分にとって大切な存在であったのか、腹にすとんと納まった。


 あるべき物があるべきところへ納まるような感覚は、あの日、叔父の葬儀の後、リダーの隣で叔父の思い出を語った時と同じだった。


 感じたこと、見聞きしたもの、触れたもの。一つ一つは砂粒のように小さな思い出だけれど、それらは幾層にも重なりあって、一つの物語を形作る。


 死者の生き様を語ることで、生者の苦悩は昇華され、明日へと進むためのいしずえが築かれるである。


「……つまり、君は」


 リダーの物語が終わり、沈黙が支配した小部屋の空気を揺らしたのは、老人の穏やかな声音だった。


「学術院生になり、書庫を見たかったのだな」

「元々はそうでした。ですが今となってはもう」

「その砂竜は、君を学術院に送り届けるため、命を燃やしたのだろう」


 ターリクは、老人が書き物をしている気配がする辺りに視線をやった。ぼんやりと白く濁る景色の真ん中から、老人の声が続く。


「遺志に報いなさい」

「でも」

「君は、ここがどこだと思っている? 君が倒れていた場所が、どんな組織の門前だったと?」


 ターリクは、口を閉ざす。思わせぶりな老人の言葉。頭でっかちとすら陰口を叩かれてきた聡明なターリク。ほんの少し思考を巡らせてみれば意図は明白だ。それは、奇跡のような真実へと繋がるのである。


「まさかここは……学術院ですか?」

「砂竜は賢い。学術院の位置を理解していたのだろう。最後の力を振り絞り、君を送り届けて竜は力尽きた。駱駝と旅をしていたとしたら、こう上手くは運ばなかったはずだ。君は砂竜使いだったから、ここへ来られたのだ」


 癖なのだろうか。老人はまたもや鼻を鳴らして、書き物机から腰を上げる。手にした紙を折り曲げ封筒に入れ、蝋を落とす気配がした。


 ターリクの鼻先に、書簡が一つ、突きつけられる。


「これを持って行きなさい。書庫にいつでも入ることができる」


 ターリクは耳を疑った。帝国中の希少な書物を集めた大書庫だ。学生や高貴な血筋以外の者が足を踏み入れることは出来ぬはず。ターリクの困惑に苛立ったように、老人は封筒をターリクの腿に投げた。


「砂竜は老いた自身の命が尽きようとする中、立派に君を希望へと導いた。その心意気を讃えたのだ。君はターリクと言ったな。悪いが、視力が失われると決まっていて、書物から知識を得ることの叶わない者を学生にする訳にはいかない。しかし、どうだ。物語を記録する語り部になるつもりはないか」

「語り部?」


 思いもよらぬ提案に、ターリクは眉を寄せる。


「わしは、君の物語に感銘を受けた。視覚の代わりにきっと、他の五感が優れているのだろうな。記憶力、言葉選び、話の抑揚。全てに非凡な才能を感じた。自頭も良いのだろう。……実は近頃、遥か東方の異国では、吟遊詩人と呼ばれる者らが宮廷で活躍しているらしくてな。我が国にも語り部が欲しいと、皇帝陛下が仰っていた。無論、砂竜族であり貴人の血筋ではない君が、すぐに陛下にお目通りが叶うとは限らぬが、腕を磨けば、そういうこともあるかもしれない。まずは視力があるうちに書庫で物語を語るに必要な知識を補充して、それから……」


 不意に、人生で見聞きしてきた全ての事象が一所に収着するような、奇妙な爽快感を覚えた。


 生まれつき弱視を患っていたため、叔父に目を掛けてもらい、叔父の思い出を語ることでリダーと絆を結んだ。リダーに導かれで学術院へやって来て、リダーの思い出を語り、今や天職を手に入れようとしている。そして最後に、叔父が冗談半分に零した言葉があるべき場所に納まって、ターリクは涙を拭いて微笑んだ。


「陛下にお目通りする日は近いかもしれません。だって『うちの家系は、皇家の血を引いている』んです。母方ですけどね」


 人生ほど素晴らしい物語は存在しない。きっと、叔父もリダーも、水となって見守ってくれている。安心して欲しい。僕はもう、前を向いて生きていく。


 

 これが、後に初代宮殿語り部となった、砂竜使いターリクの物語である。


 まるで無意味に感じられた苦痛や、他愛もない雑談、胸が躍るような喜び、天が落ちてくるかのような絶望も、全てが人生を彩って、あるべき物語へと導いてくれる。彼はそのことを、誰よりも深く理解していたのだろう。


 『人生は物語』。彼が常々口にしていた言葉である。


 ターリクは最期まで、自身を語り部だとは表さなかった。死の間際まで、己は砂竜使いであると名乗り続けたのだ。


 そのためなのだろうか、彼は自身の半生の物語を、宮殿で披露することはなかった。


 彼が紡ぐ、彼自身の物語をこの耳で聞いてみたかった。


 しかしターリクは、先日天寿を全うし、すでに水となり世界を旅している。いつか彼が、再び私の側に巡り微笑んでくれることを願い、この物語を捧げよう。


 世界を巡る水と同様に、物語は人々の心を巡り、永遠に生き続けるものだから。


 これは、数奇な運命と縁に導かれ、語り部となった砂漠の男の物語。砂竜使いターリクへの追憶だ。



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砂竜使いターリクへの追憶 平本りこ @hiraruko

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