離島の話
@Teturo
離島の話
青い空、白い雲。韓子岳の先を見るとパラグライダーが、のんびりと浮かんでいる。しばらく前から同じところを行ったり来たりしているから、海風を上手に受ければ相当長い時間、空の散歩が楽しめるに違いない。
「平日の昼間に羨ましいなぁ」
ベトナム風麦わら帽子を被った二十代の青年は、青空を睨み付けた。右手にノギス、左手にメジャー、腰には剪定鋏と折畳み鋸をぶら下げている。絞れば水滴が落ちてくる程、汗にまみれたTシャツと半ズボンを着けていた。
ハブが出ると脅されて履いていた長靴は、余りの暑さに脱ぎ捨て、そこらで拾ったビーチサンダルを引っ掛けている。ちょっと見た目には地元農民の様にも見えるが、そうではない。沖縄県石垣市の農家は、真夏の炎天下の下で畑仕事はしないものなのだ。
客観的に見ても、この青年はいかにも怪しい。
この怪しい青年とは僕のことで、某中小食品メーカーのサラリーマンだ。本社は東京の目立たない所にひっそりと存在している。現在、僕は香辛野菜の栽培調査を任されていた。何の香辛野菜かと聞かれると、ちょっと書きづらい。現在も引き続き調査を行っているからだ。そこでこの話の中では調査品目を香辛野菜と表現する事にする。
僕の仕事は香辛野菜の生長を観察し、最適な栽培方法を確立することだ。今年は関東地方、中国地方そして沖縄地方において栽培調査を行っている。そのため栽培期間中は最低一ヶ月に一度、栽培地に出向き生長調査を行わなければならない。
僕はどちらかと言えば出無精な方で、旅行をするよりも、涼しい部屋で好きな小説でも読んでいる方が好きな質である。特に始めて人と会う時は無駄に緊張するため、入社試験の時には営業職を選択しなかった。工場勤務なら移動も少ないし、毎日同じ人々と顔を合わせていればいい。
そんな僕が真夏の沖縄で、青空を睨む事になるとは夢にも思わなかった。
今回行っている調査内容は、ここには書かない。書けば長くなるし第一読んでもつまらない。
さて。
一本の香辛野菜の調査にかかる時間は、手早く作業しても約3分かかる。しかし昼を過ぎて目の前には200本以上の苗が並んでいる。とても一日では終わらない。呆然と畑を眺める。
朝、購入した3ℓペットボトルの冷たいお茶は、沸かしたように熱くなっている。近くには自動販売機もないのだから仕方がない。が、お茶の残りが1ℓを切った。そういえば朝から一度もトイレに行っていないことに気が付く。補給した水分は全て汗に変っているらしい。
迎えの車は夕方に来る約束になっている。まだ相当に時間があった。乾きに苦しむのも馬鹿馬鹿しいので、木陰を探して休憩する事にしよう。
木陰でボンヤリしている僕の目の前を、近所の人が通り過ぎた。TVや広告で見る
沖縄の人々は皆、大変に礼儀正しい。初対面の他所者に対して、必ず会釈をする。下校中の小学生達は
「こんにちは」
「さようなら」
などと声を出して挨拶してくれる。東京で生まれ育った僕には、そのような習慣がないため少しドギマギしてしまう。ただし、それ以上、会話は続かない。きっと怪しげな風体のアンチャンを、警戒しているのであろう。
「お前、そんなところで何やっているんだ!」
大型トラクターに乗った中年男性が、畑の向こうから大声を上げている。恐ろしく日に焼けた男性で、典型的な沖縄人である。ガッチリした体格に濃い体毛。眉毛が濃くて、まるでこの辺りの守神であるシーサーのような顔をしている。
彼は僕が借りている畑の所有者で、康次さんという。周辺の集落は真喜志さんと砂川さんが大半を占める。苗字で呼ぶと誰のことか分からなくなるので、彼の事は康次さんと呼ぶことにしていた。
「あんまり暑いから休憩してました」
「こんな日に畑に出たって疲れるだけだ。俺の家で休んでろ」
恐ろしい顔をしている割に、康次さんは優しい。沖縄の人々は相対的に他人を頑張らせない。全ての仕事を程々に、こなすことが美徳であるのだそうだ。
「でも明後日には移動ですから」
「次は宮古島か」
今回の調査では、石垣島と宮古島を栽培地としている。両島は沖縄地方の代表的な離島であるが、地質的に異なった性格を持つ。火山島から出来た石垣島と、珊瑚礁が隆起して出来た宮古島では、土壌の性格や植物群落が大きく異なる。
例えば淡水の少ない宮古島では稲作ができない。石垣島には豊富な淡水があるため、収穫を年に2回行うことができる。
本州地方の良く手入れされた畑は、黒色のフワフワした土壌であることが多い。これを黒ボク土という。黒ボク土は有機質の多い、栄養を沢山含んだ土壌のこと指す。
しかし沖縄の両島とも土の色は赤から黄色の部分が大半を占める。これは堆肥などの黒い有機物が亜熱帯の気候で、微生物により恐ろしい早さで分解されてしまうからなのだ。
有機物が少ない粘土質や砂質の沖縄土壌は、乾燥すると石のように固まる性質がある。本当に良く乾燥した畑土を拾って、人にぶつけたら怪我をする程、固くなってしまう。きっと頭にぶつけたら死人が出るのではないだろうか。
「何とか明日までにケリをつけないと」
「まぁ頑張れ。仕事は五時半で終わりだな」
「いや、日が暮れて葉の数が数えられるまでは」
その途端、康次さんの目が大きく見開かれた。
「今日仕事は五時半で終わりだ。迎えの車は来ない。砂川さんには俺から連絡してある」
砂川社長は石垣島で不動産業を営む五十代の男性である。彼は石垣島における我が社の案内役であった。彼はどんなに忙しくても約束した時間の十分前には、必ず迎えに来て下さる。
沖縄では約束の時間から1時間遅れても、誰も謝らないし怒らない。だから非常に几帳面で真面目な人であるといえる。
そんな彼にどんな連絡をしたのであろうか。案内役の砂川さんは、そのまま僕が所属する会社への監視役にもなる。何か下手なことを言っていなければ良いが。僕は漠然とした不安に襲われた。
僕に伝えたいことを伝えると康次さんは、トラクターでどこかに行ってしまった。
五時半になると本当に、軽トラックに乗った康次さんが迎えに来た。呑みに行くのであれば少なくとも手足の泥くらいは落としたい。そう思う僕の予想とは逆に、軽トラックは石だらけの砂浜についた。良く見れば二十フィート位の動力船が浮かんでいる。
「今日は、これから船釣りをする」
康次さんは断固とした口調で言い切った。船の上では彼の親戚である孝康さんが、釣り具の用意をしていた。得体のしれない仕事をしている僕のために、親戚まで動員する。後で分かったことだが、船は自宅の横まで運びあげて保管していた。つまり僕の仕事が終わってからすぐに海に出られるように、康次さんは自分の仕事を早退して船の準備していたのである。
ぶっきらぼうだが、優しい。沖縄に限らず僕は、地方に調査へ行く度にそういう人々と良く出会う。東京にもそういう人はいるのだろうが出会えない。きっと東京の人は毎日の生活が忙しくて、他の人を気遣う余裕がないのだろう。
船が岸を離れたのは夕方六時を回っていたが、沖縄の太陽は、まだまだ力強く輝いている。珊瑚礁の上はエメラルドグリーンに輝き、ラグーンに入ると深い蒼に海は色を変えた。孝康さんと初対面の挨拶も、ほどほどに早速釣り仕度を始める。餌は冷凍のさんまをぶつ切りにしたもので、針はとてつもなく大きい。
僕の釣り歴は地元で荒川のハゼ釣りか、お座敷釣り堀で鯉を釣るくらいしかない。そういう釣りの仕掛けは妙に凝っているし、餌の種類も豊富である。今回の釣りは、僕が知っている物とは少し違うようだ。太い糸に早い潮流に負けないような無骨な重り。それにブツ切りの肉片の付いた大きな針しかない。
聞けば海の船釣りは、小さい魚を大きな魚が食べるという、極めてシンプルなものであるらしく、餌が見えれば何でも喰い付いて来るとの事だ。本当だろうか?
「どんな魚が釣れるのですか?」
「釣れば分かる」
まぁ、それはそうだろう。でも、ぶっきらぼうも此処まで来ると、本当は自分が嫌われているのではないかと勘ぐってしまう。しかし嫌われていたら、船釣りには誘われない筈だ。
そう気を取り直して、さっそく仕掛けを投げ込んでみる。仕掛けが海底に着く前に、当たりがあった。凄い引きである。あげてみると真っ赤な30cm位の魚が釣れた。見たこともない形をしている。
「ミーバイだ」
孝康さんが教えてくれる。別名「タカサゴダイ」。後で調べたら凄い高級魚だった。彼はすぐにミーバイとは別の、黒っぽい魚を釣り上げた。
「この魚の名前は知らん。俺らはクロと呼んでる」
美しい夕日が沈む頃には、クーラーボックスにはミーバイとクロが山積みになった。どうやら魚の群れの中心に船がいたらしい。
「もう喰い切れないから、帰るか」
康次さんの自宅に着くと、釣れた魚はあっという間に刺身・焼き魚に変身した。さらに親戚の人々が集まり、大宴会へと流れ込んだ。良く見ると砂川社長もいる。監視者公認の宴会と考えて良いようだ。ビールや泡盛が賑やかに振る舞われる。親戚のおじさんが、康次さんに声をかける。
「透析は行ったのか?」
「今度は明日だ」
彼は長年の飲酒がたたって、内臓を壊し人工透析を受けていた。それでも泡盛のロックグラスを握りしめている。石垣島で愛飲される泡盛のメーカーは多数あるが、どれもアルコール度数が高い。
「呑まない方が良いのでは?」
という僕の意見は却下された。僕以外は誰も文句を言わない。後で聞いたら呑んで死ぬのは自分の責任だから、文句をいっても始まらないと言われた。ドライというか素っ気ないというか、凄くサバサバしている。
僕はその晩、親戚の人たちの遊び呑みに誘われた。オトーリという遊びで、演説をしながら回し呑みをするのである。順番が来ると、演説をして乾杯する。それが終わると次の乾杯が待っている。乾杯も一寸口をつけるだけではなく、完全に飲み干さなければならない。
このような乾杯は中国でも味わうことになるが、非常に身体に悪い。途中で自分がどれだけ呑んだか分からなくなってしまうのである。僕はこの晩、庭の隅に二回ほど吐きに行った。
次の日、昼の便で宮古島に移動した。船で移動すれば数時間かかるが、飛行機なら三十分だ。宮古空港は新しく美しい空港である。定宿にしている民宿に荷物を置くと、城辺役場に挨拶し圃場へ向かう。
今回借りている圃場の近くには、某大学の実験施設がある。その関係だろう。この辺りの農家の人々は、他所者が近所の畑で怪しげな仕事をしていても、それほど気に留めない。
話は少し前後するが会社の後輩に当たる人物が、この時期この大学施設で実習作業をしていたようである。ひょっとしたら道ですれ違ったことがあるかもしれないと話を聞いてみたが、
「朝、二日酔いで起きて、日が暮れるまでサトウキビを収穫して、夜は気絶するまで泡盛を呑んでました」
と教えてくれた。だから会えるはずが無いと、後輩は言い切った。きっと農家の人も学生に気を使っていたのだろう。そうであると信じたい。
僕がこの島で出会った農業関係者は、例外なく研究熱心だった。儲かる作物を検索することに貪欲で、始めて会った僕に対して、何をどうして栽培しているのか、非常に興味を持って質問する。
僕が調査に入った時期には「ドラゴンフルーツ」が入り始めた頃であったが、どこの庭先にも試験的に植えてあるようであった。
宮古島の農家の人々は、厳しい自然を相手に、今も開拓者精神を保って戦っているのだと思う。
今回の訪問時は、年一回開催される名物のトライアスロン競技が終わり、人々はその熱気がおさまっていない雰囲気であった。この時期の宮古島はトライアスロン一色に染まるらしい。
役場の案内係の好徳さんが、僕の貧弱な身体(身長百六十八cm、体重五十三Kg)を上から下までジックリと眺め
「君が(トライアスロン競技に)出場したら、まぁ、初めの水泳だけでも完走できたら上等だね」
などと評されてしまった。どうも宮古島の人は文武両道というか、身体の頑強さを重視する人が多いようである。
まぁ、僕は仕事で野外に出てはいるが、基本はインドア派で人見知りのアンチャンだ。そういう意味での尊敬は、ここでは受けられないのだろう。
今回お借りする農地を見た所で、昼ご飯の時分となった。好徳さんとローカルな定食屋さんに入る。料金をどちらが支払うのか揉める(沖縄の人はホームで飲食代を客人に払わせようとしない)のを回避する為、先に宣言した。
「上司から厳命されています。ここの支払いは会社でさせて下さい」
「そうなの、悪いなぁ。じゃあ俺、『味噌汁』で」
「いやいや、遠慮なさらずに。もっと召し上がって下さい」
「?」
「味噌汁とご飯だけじゃ、足りないでしょう?」
そこでやっと納得がいったような表情を、好徳さんが浮かべる。
「遠慮はしてないさぁ。味噌汁定食はそれだけで腹一杯になるよ。」
そうなのか。試しに同じ物を注文してみた。出て来たお盆を見て驚いた。具沢山の汁物が丼一杯に入っており、更に小皿でおかずが何品も入っていた。ご飯のお代わりは無料だそうである。別に何かを頼んだら、食べきれなかっただろう。
昼食後、好徳さんと別れた。満腹で襲い掛かってくる眠気と闘いながら、調査を開始する。四時間ほど地面にへばり付いた所で、本日の目標数まで到達できた。荷物をまとめて、定宿へと歩き始める。
本当はタクシーを呼びたいところだが、配車される車は平良市街にしかいない。その為、田舎の畑に迎えに行く時間より、乗っている時間の方が断然短いため、物凄くドライバーに嫌がられてしまう。
さとうきび畑の間をどこまでも伸びて行く道路。仕方がないから一人で歩く。恐らく三十分も歩けば、宿に辿り着くだろう。
実は何度か調査の帰り道を一人で歩いたのだが、一度も最後まで歩き切った事は無い。なぜかというと僕の横を通り過ぎた車が、必ず止まってくれるのだ。そして、どこまで行くのか確認して、宿まで送ってくれる。
何も無い田舎道を、現地の人は一人で歩かない。そんな事をしているのは他所から来た変わり者だけだ。一度など、トラクターに乗ったお爺さんに送って貰った事もある。気さくに話しかけて頂いたが、言葉が半分以上分からなかった。ありがとうございました、というお礼の言葉は伝わったのであろうか? ちょっと不安である。
定宿は畑から近いが、街には遠い民宿だ。観光の目玉である海からも、相当離れていた。こんな所に宿泊する人間が、僕以外にいることが驚きである。そんな場所だから宿代は安いし、ご飯が美味しかった。
調査中に流れた滝の様な汗をシャワー(共同シャワーでバスタブは無い)で流し、お楽しみの夕飯を食べるために食堂へ向かった。すると庭から弦楽器の音がする。おぉ、
民宿の庭先で経営者のお爺さんが、三線を爪弾いていた。夕暮れの太陽が、お爺さんに長い影を落とす。手元の透明なコップに入っているのは、きっと泡盛なのだろう。トロリと太陽の光を反射していた。
誰かに聞かせるでも無い、練習をしているのでも無い。ただただお爺さんは僕に分からない言葉で、何かを飄々と歌っている。ここが日本であるとは思えない、夢の様に不思議な時間だった。
「あり、来るのが遅いと思ったら、こんな所に居たん?」
宿のお姉さん(オバサンと言うと怒る)に声をかけられるまで、僕は立ったまま、お爺さんの三線に聞き惚れていた。
「あの、すいません。もう少し聞かせて貰ってもいいですか?」
図々しいのを承知で、お姉さんに頼んでみる。すると彼女はニッコリと微笑んだ。
「三線が珍しいなら
気が付くと軒先に、青や赤色をした原色のお刺身、豚肉の煮込み、海ぶどうの酢の物、炊き込みご飯などの島ご飯とお酒(ビールは有料、泡盛は無料。ルールの意味が分からない)が並び始めた。泡盛を呑み、島ご飯を食べながら、お爺さんの歌と昔話を聞かせて貰った。
「オジーは呑み始めると、
お姉さんはそういいながら、食べきれない位のご馳走を持って来てくれるのだった。
歌い疲れたお爺さんは、僕に三線を持たせてくれた。東京で持ったことのある三味線より、ずっと小さい。実は僕、少しだけギターを弾くことが出来る。プレーヤーというよりは理論派(弾けないだけともいう)なので、沖縄音階を知っていた。沖縄音階などというと難しく聞こえるが、普通のドレミファソラシドから、レとラを抜かしただけの事なのである。
三本の糸の開放弦の音を採った後、適当に沖縄音階を鳴らし始めた。何となく「変なおじさん」が崩れたような旋律を弾き始める。
お爺さんとお姉さんが、キョトンとした顔で僕を見た。
「なんだぁ、弾けるのー」
「いやいや、ただの悪戯で。ギターと同じように弾いただけです」
「でも『ハイサイおじさん』だったでしょう?」
嬉しかった。本当に理論派弦楽器奏者で、良かったと本気で思った。ひょっとしたら僕は、初めて沖縄で認められたのかもしれない。その後は夜が更けるまで聞いたこともない、この集落の民謡や昔話を聞くという、贅沢な時間を過ごすことができた。
翌日、宿を出る時、お爺さんが見送ってくれる。空港まで送るというお姉さんのご好意を遠慮させて頂き(往復で1時間以上かかるため)、予約していたタクシーに乗り込んだ。
地べたを這い回るような(やっている事は言葉通り)調査を終え、本土に戻る飛行機に乗り込む。楽園のようなこの場所に今度、戻ってこられるのは何時になるだろうか。
人見知りでインドア派の僕は、飛行機の小さな窓から僕にとっては、楽園である島を見えなくなるまで覗き込んでいた。
以上が、二十年以上前の離島の話になります。香辛野菜の栽培調査結果ですが、生長状態が良く無い事。人件費と送料が滅法高く、採算ベースに乗せるのが難しい事。鮮度保持のコントロールがほとんど効かない事などの判断で、あえなく不合格となりました。
非常に残念でした。今でも泡盛を呑むと、当時のことを思い出します。
その後、同じような事を今度は、中華人民共和国の山奥でも体験することになります。
中国版、秘境の話は需要があれば、またの機会にお話させて頂ければと思います。最後までお付き合い頂き、本当にありがとうございました。
離島の話 @Teturo
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