ボサボサ赤毛の眼鏡姫と吸血鬼になった少女

夢神 蒼茫

ボサボサ赤毛の眼鏡姫と吸血鬼になった少女

「えっと、ここ、どこ?」




 薄暗い森の中に一人の少女がいた。跨る馬をゆっくりと進ませながら、周囲をキョロキョロと見回した。


 湿り気のある空気が漂い、薄い霧が漂っていた。


 ひんやりとした空気が肌にまとわりつき、思わずブルリと身を震わせる。


 少女は王家の血を引く由緒正しい名門貴族のお嬢様で、その日は狩猟の付き添いで嫌々ながらも同行させられていたのだ。


 勢子に獲物を追わせ、銃を構えた貴族がそれを撃つ。何が面白いのかと、少女には理解できぬバカバカしい行事であった。


 だが、父には逆らえぬため、無理やり付き合わされた。狩猟は社交の場でもあり、貴族の娘としてそうした場所に顔を出し、そろそろ結婚相手をというのが少女の父の考えであった。


 そのことには薄々感じ取っているのだが、少女は今の楽しい生活を崩されたくないため、どこの誰とも知らない相手の所へ降嫁する気など更々なかった。


 少女は本が大好きであった。近親者が王立図書館の管理者という役職に就いていたため、文字を覚えてからと言うもの図書館や書庫に出掛けては本を読み漁るというのが日課となっており、大好きな本に囲まれるという楽しい日々を過ごしてきた。


 しかし、その代償として視力を落としてしまい、眼鏡を手放せぬ体になってしまった。


 収まりの悪い赤い癖毛を揺らし、眼鏡を付けて図書館に入っていく姿がよく見かけられており、周囲からは『ボサボサ赤毛の眼鏡姫』などと陰で呼ばれていた。


 他人の評など気にはしなかった少女であるが、結婚などしてしまってはこの生活を手放すことにもなりかねないため、それだけは阻止したかった。今でこそ割と自由に動き回っているが、自身の夫となるものがそれを許す保証もないし、まして図書館もないような地方に嫁いでは、本との楽しい生活も終わりを告げることとなる。


 だが、少女に抗う手はなかった。せいぜい、人目に付かないよう狩猟場の隅で縮こまり、殿方の目星に掴まらないようにするのがせめてもの抵抗であった。


 早く終わらないかなぁ~、と読みかけの本のことを思い浮かべながら馬に跨っていると、そこに一匹の大きな猪が飛び込んできた。勢子が少女の事に気付かず、誤ってそちらに猪を追い込んでしまったがための偶発的な事故であった。


 そして、少女の馬が暴走した。すぐ近くを大きな猪が走り抜けたので、それはやむを得ない事であったが、乗っていた少女には不運以外の何物でもなかった。


 少女は暴走する馬に必死でしがみ付き、同時に助けを求める叫びを発したが、時すでに遅し。馬は暴走するままに森の中へと突っ込んでいった。


 それでも振り落とされまいとする少女はそのまま必死にしがみ付き、ようやく馬の暴走が収まった頃には薄暗い森に身を置いていた。


 これが少女の現在の状況である。




「うん、冗談抜きでまずいわね、この状況は」




 少女は方角を完全に見失っていた。鬱蒼と生い茂る森の木々や漂う霧が太陽を隠し、光を遮って方角が分からないようになってしまった。


 馬の足跡を辿ろうにも、どこをどう走って来たのか分からないし、馬の足跡の判別も困難ときた。


 どこからどう見ても完全な迷子だ。


 従者がいないのは当然としても、剣も銃もない。狼などの獣に襲われたら、まず命はないと思わなくてはならなかった。




「まあ、あったところで役には立たないか」




 なにしろ、少女は本の虫として四六時中、図書館や書庫に入り浸る日々を送っており、運動神経はお察しであった。こうして馬に跨っていることすら、無理やりに教え込まれたからであり、できれば地に足を付けて歩きたいところであった。


 それ以前に、この寒さが少女には我慢ならなかった。夜のとばりが降りればさらに冷え込むのは明白であるし、今の服装では凍えることは疑いようもなかった。


 火を熾そうにも道具が一切ない。




「知識はあっても、人の英知の結晶たる道具がなければ、何一つできることはなし。残念! 私の人生はここで終わってしまった!」




 などと悲劇の舞台劇でも演じているように振る舞っても、虚しく自分の声が響き渡るだけであった。


 とはいえ、何もしなくては何も始まらないし、ただ終わるだけだと考えた少女は、適当に馬を進ませることにした。ひたすら真っすぐに進めばどこかの街道や川にぶつかり、そこから位置が割り出せるかもしれないと踏んだからだ。


 眼鏡を指でクイッと押し上げてから最初の一歩を踏み出すのは、少女の前々からの癖であった。眼鏡はかけがえのない友であり、最も頼れる従者であり、本と言う名の楽園へと誘う悪魔でもあった。


 そして、しばらく進んでいると思いがけない幸運が少女に降り注いだ。


 目の前に誰かの屋敷が現れたのだ。少女の目に映るその屋敷は少し古ぼけていたが、薄暗い森の中にあって照り輝く松明を煌々と焚いており、住人の存在を見せ付けていた。


 現に、鉄格子の門の前には衛兵と思しき者が二人立っていた。全身を覆う甲冑を身にまとい、長い槍の穂先はきっちりと天に向かっていた。




「お、これは助かったかも。ここで森の外への道を聞けそうだわ」




 少女は馬に鞭を打ち、駆け足で門の方へと馬を走らせた。神も見捨てたもんじゃないと不謹慎な考えを抱きつつ、鼻歌混じりに近付いた。


 そして、後悔した。神様、やっぱりひどい奴だわ、と数秒前の祈りを速攻で取り消した。


 なぜなら、門番が異常に小さかったからだ。


 自身もそれほど体格に恵まれた方ではなったが、そんな自分よりも更に頭二つほど小さいのが、先程見た門番であった。


 森の薄暗さと視力の悪さで遠近感が掴みにくくなっていたため、対象物の大きさを見誤っていたのだ。


 そして、その大きさがはっきりと分かる位置までくると、まるで子供が甲冑を着込んでいるのかと思うほどに小さかった。


 そんな戸惑う少女を視認した門番は、持っていた槍を傾け、門の前で×字に交差させた。




「誰ダ、オ前ハ!?」




「用無キ者ハ、タダチニ立チ去レ!」




 非常に聞き苦しい言葉であった。野蛮人バルバロイの語源は“聞き苦しい言葉を話す者”と聞いたことがあったが、まさにそんな存在が目の前に現れたのだ。


 さっさと帰れと言わんばかりの突き放つ態度に、少女はさすがにムッと来た。森を彷徨い、ようやく助かったかと思ったら、鋼鉄の小人に凄まれる始末。


 とはいえ、聞き苦しいと言えども人語を介する程度には意思疎通が図れることは間違いなさそうなので、少女は文明人として礼儀正しく振る舞うこととした。




「馬上より失礼いたします。森の中を進んでいるうちに道に迷ってしまい、難渋しております。森の外へ通じる道を教えてはいただけませんでしょうか?」




 普段は使う事もあまりないが、貴族令嬢として礼儀作法もそれなりに仕込まれていた。


 大勢の人前に出るからと、どうにか必死に整えた癖の強い赤毛も、今は元のボサボサに戻っていた。馬の暴走で衣服や頭髪も乱れており、早く戻ってどうにかしたいと考えており、そのために道を聞くのは必須であった。


 だが、鋼鉄の小人の返答は少女を絶望の淵に落としこんだ。




「ゲヘヘ、ヨク見タラ、美味シソウジャネエカ」




「兄弟、オ前モソウ思ウカ」




 兜を上げると、そこからは人ではない醜悪な顔を覗かせていた。少女はそれが本で見知った小鬼ゴブリンという野蛮な種族であることを知っていた。


 汚らしい緑と黒を混ぜ込んだ肌の色をしており、尖った耳もその不気味さに一役買っていた。


 少女は始めて遭遇した小鬼ゴブリンに興味を覚え、本で見た通りの姿だと興奮したが、そんな悠長なことを言ってられる状況でないと思い至り、馬首を返して逃げ去ろうとした。


 だが、遅かった。巧みに槍の穂先で服を絡め取られ、そのまま地面に引きずり落とされた。


 悪いことに背中から落ちてしまい、強い衝撃と共に肺をやられ、少女は上手く呼吸ができなくなってしまった。


 しかも、かけていた眼鏡も落ちてしまい、相手も周囲も把握が困難になってしまった。


 挙げ句、馬も主人を置き去りにして逃げ出してしまい、いよいよ逃げることすらできなくなった。


 そして、咳き込む少女に二匹の小鬼ゴブリンの内の一匹が馬乗りになった。醜い顔が笑みを浮かべ、口から涎を垂らし、舌をなめずりする。




「グヘヘ、久シブリノ御馳走ダ!」




「オイ、兄弟、右腕ハ俺ニ寄コセヨ!」




「アア、イイゼ。ナラ、俺ハ左腕ヲ貰ウ!」




「デモ、ソノ前ニ、楽シンデカラニシヨウゼ!」




 下品であり、寒気を覚える会話が少女の前で繰り広げられた。しかし、小柄と言えど重たい甲冑を着込んだ小鬼ゴブリンにのしかかられては、身動き一つできなかった。




(ああ、これから色んな意味で食べられちゃうんだ)




 少女はいよいよ観念した。せめて痛くないようにお願いしますと祈りを捧げた。


 そして、その願いは却下された。


 重々しく金属の擦れる音と共に門が開き、屋敷の中から一人の女性が現れた。


 二匹の小鬼ゴブリンは慌てて立ち上がり、背筋をピンと伸ばしてその女性に礼をした。




「いろーなサン、オ疲レ様デス!」




「不法侵入シタ者ヲ、捕縛シテオリマシタ!」




 捕縛と言うより、捕食では? と少女は心の中でツッコミを入れつつ、周囲を手探りで落ちた眼鏡を探した。




「まったく……。あなた達、仕事中の摘まみ食いはダメだと言ったでしょう? 今度やったら、食事抜きにしますよ!」




「エエッ、ソンナァ!」




「アンマリダァ!」




 叱り飛ばす女性に、小鬼は抗議の声を上げたが、女性はその声を無視して、少女に歩み寄った。


 そして、落ちていた眼鏡を拾い上げ、それを少女に差し出した。




「当方の衛兵が大変失礼な真似をしてしまったようで、お詫び申し上げます」




「あ、いえ、どうも」




 少女は差し出された眼鏡をかけ直し、視力を取り戻した。


 そして、絶句した。目の前の女性が、この世の物とは思えないほどに美しかったからだ。


 スラッとした細身の体を紺の長袖とスカートで包み、純白の前掛けエプロンを付けていた。自分の家にもいるメイドの装いだ。


 そこまでなら特には驚かない。驚いたのは、目の前の女性もまた、人間にはない、長く尖った耳を持っていたからだ。


 その女性に引っ張り起こされ、丁寧に服の砂埃も払ってくれた。




「もしかして、森妖精エルフ?」




「はい、左様でございます。私、イローナと申します。お見知りおきを」




 小鬼ゴブリンに続き、森妖精エルフと、普段見慣れぬおとぎ話の住人に、少女は興奮を覚えた。本でしか知らない存在が、目の前に現れたのだ。


 しかも、小鬼ゴブリンと違って襲って来ず、態度は至って友好的。仕草から小鬼ゴブリンよりも格上だとすぐに分かる。


 少女は助かったと胸を撫でおろした。


 そして、余裕が生まれると、神の作りし最高の造形物をじっくりと観察した。


 自分と違い一切の癖がない長い金髪が腰まで伸び、顔も実に均整の取れたものだ。小柄で細身であることから、肉体的な欲望を掻き立てることはあまりなさそうだ。どちらかというと、絵画や彫刻のような、そんな造形的な美しさを感じてしまうのであった。


 不愛想、というより無表情と言ってもよいのか、その感情からは何も読み取らせない雰囲気があり、そこがまたミステリアスだと少女はますます興味を覚えた。




「あ、申し遅れましたけど、私、アリスって言います。助けていただいてありがとうございました!」




 うっかり名乗り忘れていたのを思い出し、少女は名前を名乗った。


 それに対して、イローナは無表情のまま会釈した。




「ようこそおいで下さいました、アリス様。お嬢様が是非お招きしたいとのこと。一席設けておりますので、お屋敷の中にお入りください」




 お嬢様、つまりこの屋敷の主人もまた、自分と同じく女の子だとアリスは理解した。


 そして、またいつもの癖で、眼鏡をクイッと動かし、改めて屋敷を観察した。


 やはり少々古ぼけているが、年季の入った建物ならば仕方がないところもあるし、鉄格子の向こう側の庭木はしっかりと手入れされ、石畳には落ち葉一つ見えなかった。


 よくまあ、こんな辺鄙な森の中で、ここまで見事な屋敷を維持できているものだと感心した。


 もっとも、アリスの興味は小鬼ゴブリン森妖精エルフを従える主人とやらに向いていた。




(亜人や妖精を従えるお嬢様か。どんな人なんだろう?)




 もちろん、人間であるとは限らないのは重々承知していた。なにしろ、目撃した屋敷の住人は現在三名であり、そのいずれも人間ではないからだ。


 童話や伝説、あるいは昔話など、本の世界がそのままとびだしてきたような、そんな不思議な感覚だ。危険を感じつつも好奇心には抗えなかった。 




「では、折角ですので、お招きに与らせていただきます」




 アリスはにこやかな笑みで招待を受けた。何が待ち受けていようとも驚きはすまい。おとぎ話の世界であるならば、一瞬たりとて見逃してしまっては勿体ないのだ。




「では、アリス様、こちらへどうぞ」




 誘われるままに、アリスは見目麗しいエルフのメイドに案内され、屋敷の門をくぐった。


 なお、門番の小鬼ゴブリンは先程のお詫びのつもりなのか、実に神妙な面持ちでアリスを送り出し、深々と頭を下げていた。


 中に入ると、手入れの行き届いた庭木が並び、色とりどりの花が咲き乱れていた。


 ただ、その花に奇妙な感覚を覚えた。




「イローナさん、これってキンモクセイの花よね?」




 一度嗅げば忘れ得ぬほどの甘い香りを放つ、オレンジ色の庭木の花だ。小さな十字の花を無数に付け、その花から香しい香りを放っていた。




「はい、キンモクセイで相違ありません」




「じゃあ、こっちは?」




「ヒヤシンスでございます」




「え、それっておかしくない!?」




 キンモクセイは秋に咲く花で、ヒヤシンスは春に咲く花だ。両者が同一の空間で、互いに競うように無数の花を連ねているのは、見る者が見れば違和感しか湧かないのだ。


 アリスもまた、本から得た知識があったため、違和感を覚えていた。


 しかし、イローナは特段気にした様子を見せなかった。




「特に問題はありません。お嬢様はある程度時間を操れるので、春と秋を同時に楽しむくらい造作もないことなのでございます」




 サラッと言ってのけるイローナであったが、アリスにとっては衝撃的であった。


 時の流れは過去から現在を通り、未来へと繋がっている。その流れを表すものとして季節が存在し、春夏秋冬と循環していくのが、神の定めた時間の摂理だ。


 あろうことか、その摂理に干渉しているのだと言う。


 もしそれが本当ならば、この屋敷のお嬢様とやらは人知を超えた存在だと言えよう。しかも、目の前に季節の違う花を混在させ、その証としている。


 そう考えると、途端にアリスの体に恐怖が湧いてきた。興奮のあまり興味と言う蜜に誘われ、奇麗な花に留まってみれば、実はそこは蜘蛛の巣でした。


 そういう、しくじったと言う思いだ。


 アリスは慌てて自身の服装を見回し、いきなりのことにイローナもキョトンとその見つめた。




「アリス様、いかがなさいましたか?」




「あ、いえ、その、屋敷の主人の前に出るのに、この格好でいいのかな、と」




 もうこの屋敷の主人が人間であるなどとは微塵も思っていなかった。それだけに、下手に不快感を与えては、そのまま死に直結しかねない。そう考えると身嗜みをきっちりと整えておかなくてはならない、そうアリスは考えたのだ。


 今、身に付けているのは赤を基調とした狩衣で、馬に乗るのに適した姿と言えるが、その馬は薄情にも乗り手を放り出して逃亡しており、すでにこの服は用をなしていなかった。


 ちゃんとしたドレスでもあればいいのだが、あいにくと持ち合わせも従者もいない有様だ。


 ならばせめてと、おかしなところはないかとイローナに尋ねたというわけだ。




「服装はそのままでよろしいかと。ただ、御髪おぐしの収まりが悪いかと」




「あ~、髪留め、どこかにいっちゃったか~」




 アリスの髪は癖が強く、まるで燃え盛る炎のように赤く波打っていた。邪魔にならないように、普段は髪留めをしているのだが、今はそれが失われていた。恐らく、馬が暴走した際に外れてしまったのだろうが、このボサボサ頭で主人の前に出るのは、さすがに憚はばかられた。




「では、少し失礼いたします」




 そう言うと、イローナはどこからともなく櫛と紐を取り出した。癖のあるアリスの赤毛を何度か櫛で梳き、それから馬の尾毛のように髪を結い上げて紐で縛った。


 さらに、足元で咲いていたヒヤシンスの花を手折り、それを紐に飾り付けした。赤に映えるよう、白のヒヤシンスがそこに収まった。




「いかがでしょうか?」




 そう言うと、イローナは手鏡を取り出し、アリスに満足いくものかどうか確かめた。


 いつもの眼鏡をかけ、赤い髪は下ろさずに結い上げており、装飾品代わりに白のヒヤシンスを挿し、一応現状では最良と呼べる装いになった。少なくとも、アリスにはそう思えた。




「ええ、これでいいかな。イローナさん、あなたの主人は服装にうるさい方かしら?」




「いいえ、割と無頓着な方ですわ。特に食事の時の汚れがひどくて、洗濯するのが大変でございます」




 冗談なのか本気なのか、判断に迷う回答であった。


 食事マナーがなっていないというと、“お嬢様”とやらはかなり年下かもしれないと思い至った。




「え、えっと、イローナさん、あなたの主人ってかなり小さいですか?」




「はい。背丈で言えば、アリス様の肩に届くかどうか、と言ったところでありましょうか」




 思っていたよりもずっと小さかった。おそらくは十歳に届くかどうかではないかとアリスは推察した。


 しかし、イローナの話を真に受けるのであれば、時間に干渉できる桁外れの力を有しながら、姿はお子様ときた。 ますます訳が分からなくなり、アリスは首を傾げた。




(まあ、悩んでいても仕方ないし、会ってお話すれば分かるわよ)




 何事もなく平穏無事に終わりますようにと祈りつつ、イローナに案内されて、アリスは屋敷の中へと入っていった。






                 ***






 屋敷の中は良く手入れが行き届いており、廊下、壁、調度品や照明、いずれも綺麗に整っていた。様式は百年程前の流行りで統一されており、中々に古風な雰囲気を醸していた。


 だが、それよりアリスを驚かせたのは、屋敷で働いている者達の姿であった。なにしろ、種族に一切の統一性が見られないのだ。


 門番の小鬼ゴブリン、メイドの森妖精エルフときて、他にも人狼族ヴェアヴォルフの下男に、地妖精ドワーフの大工、豚人間オークの調理師、犬頭人コボルトの給仕、人間の庭師、実に多彩な顔ぶれだ。


 少し落ち着きなく眼鏡を何度も動かしてそれを観察し、本当におとぎ話の世界に迷い込んだのか疑わしくなって、頬を思い切りつねった。


 そして、痛みが返って来た。




「なにかございまして?」




 イローナは足を止め、くるりと身を翻し、アリスに尋ねた。




「いえいえ、この屋敷の美しさに見惚れていただけですよ。よく差配の行き届いた空間、屋敷の主の心配りが隅々まで行き渡っているようです。ただ、擦れ違う屋敷の人が皆、普段お見掛けするような人じゃなかったもので」




「ああ、そういうことにございますか。お嬢様はお優しい方でございますからね。困っている方を見かけると、ついつい手を差し伸べてしまわれるのです。種族に関係なく」




「なるほど。慈悲深い方なのですね」




 そう聞いて、アリスは安堵した。


 どうも小鬼ゴブリンに襲われてからというもの、過度に警戒しすぎていたのかもしれないと考え直した。実際、目の前のイローナは小鬼ゴブリンを無礼の廉で咎めている。雇われて日が浅く、礼儀がなっていないのだろうと勝手に結論付けた。


 再び廊下を進み、少し進んだ先の扉の前で立ち止まった。メイドが三度扉を優しく叩くと、中から声が返ってきた。




「誰かしら?」




「イローナでございます。お客様をお連れいたしました」




「入っていいわ」




 中からの声に応じ、イローナは扉を開け、恭しく一礼してから部屋の中へと入っていった。


 アリスもまた一礼した後、部屋の中へと入った。


 そして、部屋に入り、アリスの視界に飛び込んできたのは、大きな椅子に座る屋敷の主の姿。前評判通り、子供であった。




(うん、やっぱり小さい。年の頃は十歳に届くかどうかというほどに幼いわね。というか、椅子が不釣り合いなほどに大きいから、余計に小さく見える)




 だが、そんなことよりアリスの目を引いたのは、何と言っても館の主人の独特な容姿であった。


 椅子に腰かける少女はまるで象牙を掘り上げたのかと思うほどに白く、髪もまた白、というより銀色をしていた。そして、客人を見つめる瞳は、紅玉ルビーをはめ込んだように赤い。




(へぇ~、これは白化個体アルビノってやつね。ウサギとかなら見たことあるけど、人間とかで見るのは初めてだわ)




 時折、親の姿に関わりなく、真っ白な姿で生まれてくる存在がいるのをアリスは知っていた。


 じっくりと観察してみたかったが、アリスはその場に跪き、恭しく頭を下げた。


 そうした理由はただ一つ、目の前の少女が発する圧倒的な威厳。見た目は幼き身であるが、既に王侯の風格すら漂わせているのを、アリスは敏感に感じ取ったのだ。


 ならば、見た目よりも中身を重視して接するべきだ。目の前の少女は間違いなくここの主人であり、アリスは頭を下げたまま、声がかかるのを待った。




「ああ、そこまで畏まらなくていいわよ。あなたは久方ぶりに招き入れたお客人。ささ、席にお着きなさい、アリス=ベルモンテ=ランデルハート=ディ=タリア」




 予想外の一撃に、アリスは頭を下げたままビクリと震えた。なにしろ、名乗っていないはずの自分のフルネームを言い当てられたからだ。


 見た目は確かに可愛らしい。だが、中身は正真正銘の化け物だと、軽い挨拶の中だけで思い知らされてしまった。


 愛らしさの中に含まれる威厳に満ちた声。すべてを把握しているのに、まるでお遊び感覚。やっていることは子供と変わらないが、それでもこの少女が“王”であるのは間違いなかった。




「怖がらなくていいわよ。人の心くらい読めるから。もっとも、深層心理まで読み解こうとすると時間がかかるし、なにより気持ち悪いから滅多にやらないけどね。相手の名前程度の浅い情報なら、苦も無く手に入れられるわ」




 怖がるなと言われようと、さすがにそれは無理であった。時間に干渉し、相手の心まで読み解く。アリスの知識の範疇を超える規格外の存在だ。


 とにかく、大人しくしておくのが得策と考え、ただただ平伏するよりなかった。




「……顔を上げ、席に着きなさい。折角の出会いが台無しになるわよ」




 声に可愛げが消え、完全に威厳と威圧に満たされた。不機嫌というよりは、ままならない苛立ちと言った程度のものだが、それでもアリスにとっては死への道標でしかなかった。


 恐る恐る顔を上げ、改めて少女の顔を見た。先程と変わらないが、しかしやはり、早く座れと言いたげな雰囲気を出していた。


 ならば、さっさと席に着こうとすると、壁にかけられていた壁掛けタペストリーに目を奪われた。黄色の布地に竜が描かれていた。その竜は十字架を背中に背負い、尻尾を自らの首に巻き付けて竜の体で円を描く構図であった。

 アリスの頭の中にある知識の中で、その紋章を使っている人物は一人しかいなかった。




「失礼ですが、あなた様は“剛竜公バートリードラクール”の御一門の方でしょうか?」




 つい好奇心に駆られて尋ねてしまったが、それが思わぬ効果を生んだ。


 目の前の少女はまず驚き、次いでニヤリと笑い、そして拍手をした。




「凄い凄い! “父”をその名で呼ぶ人間に会ったのは久方ぶりよ。へぇ~、あなた、身の程を弁えているようね。殺すのは後にしてあげましょう」




 物騒極まる言葉がアリスの耳に飛び込んできたが、もはや自分の力ではどうすることもできないので、促されるままに席に着いた。


 と同時に、いきなり目の前にカップが現れ、湯気の立つ黒い液体が注がれていた。


 時間に干渉できるのであれば、飲み物をサッと呼び出すのも造作もないかとアリスは考えた。




豆茶カッファですか」




「あら、珍しい飲み物だから、これで驚かせようと思ったのに」




「飲んだことはありますので。眠気覚ましには重宝します」




「う~ん、残念」




 少女の言う通り、豆茶カッファはまだ珍しく、一般にはそれほど出回っていない。


 しかし、アリスは端の方とはいえ、れっきとした王族であり、お姫様だ。一般人には珍しかろうとも、懐の豊かな者にはその限りではなかった。


 そんなやりとりを挟みつつ、アリスは改めて頭を下げ、挨拶をした。




「本日は突然の来訪にも拘らず、お招きいただき恐縮でございます」




 アリスは普段使わない、外向き全開の“礼儀正しいお嬢様”に変身した。いつもは読書を楽しむだけの日々を過ごしているが、社交の場に引っ張り出されることもあり、その気になれば猫の毛皮を何重にも着こんでやり過ごすこともできた。


 ただ、堅苦しいので、そういうのは苦手であったが。




「まあ、こういう辺鄙な場所にある屋敷だから、やって来る人も稀なのよね。あ、私はダキア=マティアス=バートル=ドン=ラーキアよ。長ったらしい名前だから、ダキアと呼んでくれていいわ」




「丁寧なご挨拶、痛み入ります。私はアリス=ベルモンテ=ランデルハート=ディ=タリアと申します。こうしてダキア様と面識を得ましたること、近来にない喜びにございます」




 礼儀正しく名乗ったアリスであったが、内心は心臓バクバクに驚いていた。


 まず、爵位を持つ貴族の名前は、自分の名前、父の名、家名、尊称、爵位の名前の順で並ぶのが通常だ。アリスの場合だと、まずは自分の名前である“アリス”、次に父の名である“ベルモンテ”、次に家名の“ランデルハート”、尊称の“ディ”、最後に爵位の名前となる“タリア”となる。


 つまり、『タリア公爵たるランデルハート家のベルモンテの娘アリス』という意味だ。


 尊称は爵位の高さにより変化し、公爵及びその子息は“ディ”を使用する。


 そして、公王や国王及びその子息が“ドン”となる。


 つまり、目の前の少女が“ドン”を使ったということは、王様もしくはその子息ということだ。


 目の前の少女は『ラーキア王たるバートル家のマティアスの娘ダキア』というわけだ。


 だが、そこにアリスは大いなる疑問を抱いた。




「失礼ですが、ダキア様の御父君はかの有名な“剛竜公バートリードラクール”マティアス陛下でございますか?」




「ええ、その通りよ。それにしても、本当に久しぶりだわ。父の事を“悪魔公ヴァーゴドラーク”ではなく、“剛竜公バートリードラクール”と呼ぶ人は」




 心臓が圧し潰されそうな重圧。ダキアと名乗る少女から放たれるそれは、アリスを無意識に締め付けて、まるで首を絞めつけるがごとき息苦しさを与えた。


 しかし、アリスは必死にそれに抗い、平気を装い、にこやかな笑みで応じた。




(にしても、マティアス陛下の娘ですって!? 驚きの一言に尽きるわ。かの御仁は百年は昔にお亡くなりになられているはず。その娘が十に届くかどうかの少女の姿をしているなんて。やはり、予想通り、ここは幽世かくりよに踏み込んだ領域なのかしら?)




 つまり、もう自分は死んでいて、ここはすでにあの世なのかも。そう考えるとアリスの頭には諦めの文字が飛び交い、逆に軽くなった気分に変じた。


 死んでるなら、どう足掻こうとももう帰れないのだから。




悪魔公ヴァーゴドラークなどという呼び名は、かの御仁には相応しくございません。マティアス陛下は迫りくる異教の蛮族から、民草を守るために知恵を絞り、奮戦なさっただけでございます。その雄姿はまさに猛る竜のごとし。剛竜公バートリードラクールの呼び名の方が、よりその御姿を現しておりましょう」




「ふむ……。まあ、合格としましょう。あなた、少しだけ寿命が延びたわね」




 再び物騒な台詞が聞こえてきたが、ここでアリスはまだ死んでないことに気付かされた。


 寿命とは生きた人間に対して使われるものであり、死んだ人間は尽きた状態にある。それが伸びたということはまだ生きており、しかもそれを目の前の少女が握っているということだ。


 ならば、拙い知恵を絞り、この場を切り抜けねばと気を引き締めた。




(噂通りであるならば、“悪魔公ヴァーゴドラーク”の娘とくればまさに怪物。私の血肉は今宵の晩餐となったでありましょうが、どうやらそれをすり抜けれたかな? 少なくとも今のところは。て言うか、イローナさんが言ってた食事の時に服を汚すって、返り血で真っ赤になるって事じゃない! うわ~、怖いな~)




 無論、焦らしているのかどうかは判断できなかったが、目の前の少女の姿をした怪物はむやみに牙を突き立てるものではなく、気に入らない相手を始末する習性を持っているようだ。




(であるならば、私の知識と話術で切り抜けてみせるわ! まあ、話すのはそんなに得意じゃないけど)




 普段語り合うのは図書館に並ぶ書物だけだ。だが、それこそ今の命綱。怪物相手に渡り合える唯一無二の力なのだ。




「寿命が延びたなどと大げさでございますね。それでは私がこれから食べられてしまうかのようではありませんか?」




「その認識は間違ってないわ。あなたを食べるのか、あるいは単なる話し相手で終わるかは、私の機嫌次第。せいぜい、食べられないように、私の御機嫌をとることね」




 言い終わると同時に少女の口からは、鋭い牙が突如として伸びてきた。


 やはりそういうかと、アリスは納得した。


 悪魔の娘たる怪物の少女の機嫌を損ねず、どう切り抜けるか、アリスにとっては思案のしどころであった。心の準備をといきたいところだが、残念なことに練習も台本もなしにいきなりのぶっつけ本番。正真正銘の命のやり取りであった。


 しかも、命のやり取りと言っても、アリスは少女の機嫌を損ねただけで人生終了。そして、アリスは相手を倒す術を何一つ持ち合わせていなかった。


 そして、見え始めた鋭い牙、悪魔公ヴァーゴドラークという存在、目の前の少女の正体、それは、“吸血鬼ヴァンパイア”に他ならない。




(そうね……、お話の通りならば、十字架、大蒜、聖水、あるいは日光、この辺りが有効なのかしら? でも、生憎とどれも持ち合わせがないのよね~)




 吸血鬼は弱点やら苦手とする物が多い。だが、実際に効くかどうかなど分かりはしない。なにしろ、本物に出会ったのがこれが最初であるからだ。


 だが、アリスは気をしっかりと持ち、目の前の怪物と対峙した。




「ダキア様、わざわざそのようなことをお話になられたということは、何か私に聞いてほしいことでもおありなのではありませんか?」




「ええ、その通りよ。誰かに聞いてほしくて仕方がないわ。そして、聞いた後は誰も彼もが死んでしまう。正確には、私が聞き手を殺してしまうの」




 話を聞かせた上で殺す。おそらくは、話を聞いた感想などが気に入らないから殺す、といったところではないかとアリスは考えた。


 ならば、しっかり聞き入り、相手の望む答えを見つけてみせようと、アリスは姿勢を正した。




「ちなみに、今までどのような方をお召し上がりになりましたか?」




「それはもう色々なのを食べたわ。あなたのような迷子はもちろん、どこかで聞きつけてきたのか、腕自慢の騎士がやって来て、私を退治しようとしたけど、返り討ちにしてやったわ。ああ、旅の巡礼者なんてのもいたわ。私の招きに応じて屋敷に入ってみれば、そこは悪魔の巣窟。『悪魔め、悔い改めよ!』なんて言いながら十字架を掲げてきたのは傑作だったわ! 物凄く不味かったけど、お残しは好ましくないから、ちゃんと食べてあげたわ」




 物騒極まりない過去話に、アリスの背筋はブルリと震えた。気合いを入れねば、本当に少女の胃袋に収まってしまうのだ。




「ならばお聞かせ願いましょう。あの世への良き土産話となるように」




「あなた、肝が据わってますわね」




 クスリと笑い、少女は一呼吸を置いてから改めて口を開いた。




「あなた、私の父マティアスをどういう人物だと思っている?」




「一言で言うなれば、“英雄”でございましょう。先程も申しましたが、かの御仁は小さな公国の主であり、その国を守るために知略を駆使し、そして強大なる異教の侵略者を退けました。これを英雄と言わず、何人を英雄と讃えられましょうか」




「でも、世間ではそうは思われていない。民草から強略し、気に入らぬ者を次々と処刑する残虐な統治者。死体をずらりと並べ、一つ残らず串刺しにして、街道という街道を不気味な柱によって飾り立てる悪魔の男。林立する血の滴りし死体の側で血肉を貪り食う無慈悲なる怪物。ゆえに、世間ではこう呼ばれている、ラーキア公王マティアスは悪魔公ヴァーゴドラークであると」




 少女は吐き捨てるように、怒りを隠そうともせず、父の成したであろう悪行を口にした。怒りは震えとなり、握り締めた拳が今にも弾けそうなほどに揺れていた。




「異教の蛮族……、侵略者は退けた。だが、父には悪名しか残らなかった。だから、公王の座を奪われ、幽閉の憂き目に遭い、母もまた同じく囚われの身になった。その身に赤子を宿したままに。そして、幽閉先の塔の中で私は生まれた」




「それはご苦労多き人生の始まりでございました」




「そんな生半可なものじゃないわ! 私も最初は普通の赤ん坊だった。囚われの身の上であっても、ごく普通の人間の子供だった! でも、いつしかこうなった。母の乳ではなく、人の生血を求めるようになった。徐々に体が変化していった。耳が尖り、生えてきた歯は鋭く突き出し、肌も髪も白くなり、目は血で染め上げられたかの如く深紅になった。吸血鬼ヴァンパイア、おとぎ話の中だけの怪物が、人々の目の前に現れた。それが私」




 そう言うと、少女は壁に立てかけられた鏡を指さした。それを見て、アリスは驚いた。鏡には少女の姿が映し出されていなかったのだ。


 アリスは吸血鬼ヴァンパイアは鏡に映らないと聞いたことがあったが、まさか本当にそうであったと目のあたりにしたのだ。




「これは神の信徒たるあなた方が望んだ姿。悪魔の子は怪物だ。怪物ならば、人の血肉を喰らうであろう。人々がそうあれかしと“望んだ”結果が、私の今の姿なのよ。だから私はあなた方が望んだように怪物として振舞い、あなた方が望んだように人々を襲い、それを糧としてきた。これはあなた方の望み、願い、祈り。それがバケモノを産んだ!」




 少女はギラリと光る牙を見せつけ、アリスを威圧した。圧に屈して思わず後ろにのけぞってしまいそうになったが、アリスは必死に耐えた。




(なるほど、ここまで歪んでしまうのも当然か。いえ、むしろ歪んでいるのはこちらかもしれない。この少女は誰よりも真っすぐであるがゆえに、歪んだこちらから覗き込むと、却って歪んで見えてしまうということなのかもね)




 そうであるならば、答えは一つ。こちらも真っすぐになり、全てを受け止めてよう。下手な駆け引きはなしにして、ありのままに話すべきだ。


 アリスはクイッと眼鏡を動かし、今まで得てきた知識に対して、総動員命令を発した。




「ダキア様、『悪魔と魔女に対する指南書』という本をご存じでしょうか?」




「知らない。こんな辺鄙な所に本を売りに来る物好きはいないし、街に出かけて本を買うこともできやしないもの」




「そうでございますか。世に活版印刷が生み出されておよそ百年。それから今まで多くの書物が手書きから印刷術へと置き換わり、数多くの本が世に飛び出しました。そして、先程紹介いたしました『悪魔と魔女に対する指南書』、これはここ百年で最も多く世に送り出された書物。それこそ、聖書よりも作られた数が多い書物なのです」




 無論、アリスの通う図書館の書棚にもこの本が入っていた。ちょっとした好奇心、知識欲のために閲覧していたが、はっきり言って笑い話にすらならない醜悪な書物であったと記憶していた。




「この本には悪魔がいかにして人々を堕落させるか、あるいは魔女に仕立てるかを記されています。その具体的な例とともに、いかに悪魔や魔女が悪辣な存在であるかを描き、そのための対処法まで書かれています。まあ、見るに堪えないバカバカしい内容ではありますが、その“悪魔”の具体例の一つとして書き記されているのが、他ならぬマティアス陛下なのです」




「ほら、やっぱりそうじゃない! 人々が父を悪魔に仕立てた! 猛る竜バートリードラクール悪魔ヴァーゴドラークへと追い落とされ、いつしか怪物にさせられた! そして、その子である私もまた、怪物として人々から蔑まれた! それこそ、人の想いが私を怪物に変えた証拠よ!」




「否定は致しません。人々の目を曇らせ、心を歪ませたのは、間違いなくその本でしょう」




 あんなものを無学者が見せられ、教会で司祭様などから薦められでもしたらば、疑いなくそれが真実だと思い込むはずであった。教皇聖下のお墨付きが与えられ、魔女狩りに奔走する愚者を大量に生み出し、狂気が世間を席巻してしまっていた。


 それが世間一般での常識なのだ。




「マティアス陛下のことが書かれた箇所は殊更細かく書き記され、まるで実際に“見ていた”かのように具体的でした。そして、その箇所はある二人の人物の手記が元になっております。その二人の名はヤノーシュとコルヴィッツという名だそうです。お心当たりは?」




「忘れるわけがない……。ヤノーシュは父を幽閉した隣国の王。コルヴィッツは父から公王の位を奪った叔父の名だわ!」




 少女はいきり立ち、握った机の縁が砕けてしまうほどに怒りをたぎらせた。吸血鬼ヴァンパイアはとんでもない怪力だとアリスは聞いていたが、少女の姿をしていてもその怪力を持っているのかと、しっかりとその目に焼き付けた。




「マティアス陛下は紛れもなく英雄でございました。ですが、見る者の視点を変えますれば、それは邪魔者以外の何者でもありません。あの頃は異教徒の侵略が頻発し、皆が疲弊していました。しかし、そんな中にあって、マティアス陛下は小国でありながら異教徒の侵略者に大勝利を収め、皆を勇気づけました。しかし、裏を見ますれば、小国がこれほどの活躍を見せておるのに他の国々は何をしているのか、と当時の教皇庁の方々は思われたのでしょう。マティアス陛下が勝てば勝つほど、周辺諸国は焦りを覚えていきました。勝ちに乗じて失地を回復せぬかと教皇庁から催促が引っ切り無しにやってくるのですから、それは冷や冷やしたでありましょう。大規模な遠征は疲弊した国々には、あまりにも負担が大きく、危険な賭けになるのですから」




「では、ヤノーシュが叔父を焚き付けて簒奪させたのは……!」




「ええ。これ以上マティアス陛下に活躍させないため、遠征という危険な賭けに出ないため、やむを得ない措置だったのでございましょう」




 この辺りはアリスの私見も混じっていた。なんとなしに史書を眺めて、これが真相ではないかと勝手な想像し、それを口にしただけであった。


 何も知らぬ少女の身の上で、屋敷に引き籠っていれば難しいのかもしれないと思いつつ、アリスは話を続けた。




「ヤノーシュ王の視点で見れば、これは間違いなく“英断”。王自身も、自分の国を優先しなくてはならないのですから、遠征などはしたくないのでありましょう。だから自身と親密であったコルヴィッツ様に簒奪を促し、その手引きをした。マティアス陛下は味方と思っていた方々に裏切られ、捕らえられてしまった」




「じゃあ、父を悪魔に仕立てたのはなぜ!?」




「その時点ではマティアス陛下は武名を方々に轟かせた英雄。それを理由もなしに投獄するなど、方々から不審の目で見られてしまうことでしょう。ならば、理由を作ってしまえばいいのです。例えば、『マティアスは巧妙な罠を仕組んでいる。連戦連勝はお芝居で、意気揚々と我らが異教徒討伐に出かけたら、その背後を遮断し、異教徒と共に我らを挟み討つ計画を企てている』などといった感じに。それに真実味を持たせるため、マティアス陛下の苛烈な行動の数々を逆手に取ったのです」




 アリスの知る限り、マティアス王は侵略者を倒滅するためにあらゆる手段を用いた。それこそ、悪魔の濡れ衣を着せられた大元となるほどの、数々の苛烈な所業を成した。




「マティアス陛下は村々を焼き、家屋や畑をめちゃくちゃにしましたが、これは焦土戦術という立派な策。建物や畑の作物を奪われるくらいなら焼いてしまおうという考え。しかし、これは民衆から劫掠したと置き換わった。気に入らぬ輩を次々と殺したというのも誤り。なぜなら、侵略者に対して国内の指揮系統を統一せねばならず、裏切り者や内通者をことごとく消しておかねばならなかったから。そうした事情を消し、“殺した”という点のみを喧伝し、殺戮者としての汚名を着せた。数多の人々を串刺しにしたと言いましたが、串刺しにしたのは侵略者と裏切り者。串刺し刑自体は珍しくもありませんが、数が数ですからそれは肝が冷えたことでありましょう。食料は手に入らず、内通者も消され、さらに相手の士気を下げる。苛烈な防衛策ではありますが、マティアス陛下は成し遂げられた。悪名と引き換えに」




「でも、その悪名こそが……」




「そう、悪魔に変わる苗床となりました」




 きっぱりと言い切ったアリスに対して、目の前の少女は泣きそうになっていた。




(無理もないか。このような屋敷に閉じ籠り、深く考察することなく、ただただ人間を嫌い、餌として補食してきただろうしね)




 アリスは目の前の怪物に同情的な気分になってきた。怪物の形をしているが、中身は多感な少女のまま。歪みや不安がより鮮明に出たのだと推察した。




「そんなのおかしい! 間違ってるわ! 父は国のために尽くしたのでしょう!? それなのに、怪物だなんだと……!」




「それがヤノーシュ王には必要だったからでしょう。現に、遠征計画は取り止めになり、無理な出兵で国が疲弊するのを回避できたのですから。ああ、ついでに申しておきますと、ヤノーシュ王は名君の代名詞的な存在になっておりますわよ。なんでも、身分を隠して国内を巡察し、悩める民衆をその知略で救い、国民全てから慕われ、皆に惜しまれながら天に召されました」




「父に濡れ衣を着せておいて、なにが名君よ!」




「先程も申しましたが、視点の問題です。ダキア様から見れば仇となれど、そこの国の民衆からすれば英雄となるのです。ダキア様にとっては残念で無念ではありましょうが、これが現在の“事実”なのでございます。納得しがたいという顔をしておいでですが、これが理不尽極まる地上の習わしなのでございます」




 人の世界とは違う、幼きまま人外の領域を闊歩した目の前の少女には、決して納得できぬ事であった。


 まして、自身の父を貶めた者が英雄だと持て囃されているなど、許されざる暴挙に感じられた。


 もし、目の前の少女が見た目通りの可憐な少女であったならば、これを抱き締めて怒りを宥め、ガラにもなく優しさで包み込んだかもしれない。


 しかし、アリスはそれをしなかった。


 怪物にして“王”たる少女に対してそれを行うのは、恐怖であり、不敬でもあると考えたからだ。


 


(むしろ、ここからが本番。さて、私は生き残れるのだろうか)




 再び気合を入れ直すため、また眼鏡をクイッと動かし、同情心を押し殺した。


 そして、目の前にある少し冷めた豆茶カッファを飲み干し、気分を切り替えた。苦みが頭を冴えさせ、知識の泉から必要な情報があふれ出た。




「さて、不快な歴史の授業はこれまでにして、本題に入りましょうか」




 本題という言葉に反応してか、少女は落ち着きを取り戻し、アリスを見据えて次なる言葉を聞き漏らすまいと真剣な面持ちになった。


 感情任せに行動しても、少女の本質は真っすぐで真面目な性格。ならばと、アリスもまた全身全霊を以てその姿勢に応えねばならないと考えた。




「ダキア様、御母君のことは覚えてらっしゃいますか?」




「母は……、いつも怯えていた。いつ幽閉が解かれるのか、いつ国に帰れるのか、そればかりを考えていたわ。そして、私を恐れていた」




 母親としては当然の反応であった。なにしろ娘が怪物になっていく様を、ずっと見続けているのだ。どれほどの苦悩が締め付けていったのか、アリスの想像力には及ばないことであった。


 だが、その苦悩がその後の展開に影響を与えたことだけは理解できた。




「そして、ある日、私が怪物になり始めてから、初めて母に抱きかかえられた。力強く抱きしめられ、大粒の涙が私の顔に落ちてきて、そのまま塔から身を投げた。何がどうなったのかを私は理解できなかったけど、地面に叩き付けられて潰れた母を見て、私は初めて死というものに触れた。でも、死は私を拒絶した。怪我はしたけど、私は死ぬことはなかった」




「ダキア様は人々の歪んだ想いが生み出した怪物。怪物ならば、塔から落ちた程度では、死を迎えることなどありませんわね」




 少女はアリスの言い様が気に入らなかったのか、思い切り睨んだ。嫌な記憶を口にしてしまい、挙句に怪物呼ばわりでは気分も害して当然かと、アリスは踏み込み過ぎたことを反省した。


 ゆえに、神妙な面持ちで頭を下げて詫びを入れた。




「……そして、私は初めて人の血を啜ったわ。心も体も、そのときに完全な吸血鬼ヴァンパイアになった。力を得た私はそのまま必死で逃げ出したわ。見つかれば殺されると感じたから」




「なるほど。それが始まりですか」




 悲しいことであった。目の前の少女は人々から蔑まれ、母の血肉を喰らい、本物の怪物に成り果ててしまったのだ。




(ああ、人間のなんと愚かしい限りの所業の数々。何も知らぬ少女にこのような罪過を背負わせるなんて、無知と偏見こそ悪魔を生み出す土壌じゃないの!)




 アリスの内において、同情が逆に怒りに転じていた。自身も含めて、人間のなんと愚かなることかと後悔し、憤激した。


 そして、目の前の少女はその重みに、小さな体で耐え続けてきたのだ。




「耐えられなかったのでしょう。自分に降りかかる不幸に、そしてなにより、怪物へと変じていく娘の有り様に、耐えられなかったのでしょう。それゆえに、自分と娘を殺すことを選んだ。それは大いなる罪。命は神より与えられし贈り物。それを自らの意思で自らの命を散らせるのは禁忌。しかし、その罪過を背負い込もうとも、地獄の業火で焼かれることになろうとも、あるいは氷に閉ざされた底辺の世界に押し込まれようとも、娘を抱きしめて世に決別しようと塔より飛び降りた。炎から娘を守るため、あるいは凍えることがないようにと抱き締めたまま、死を迎え入れた」




「まるで見てきたかのように語るわね、あなた」




「まあ、私の推察に過ぎません。ですが、ダキア様、あなたの心の内には、確かなものが脈打ってはいないでしょうか? 御母君より受け継いだ血と魂、宿してはおりませぬか?」




 少女は急に俯うつむいてしまった。何かを感じたのか、あるいは思い出したのか、なにかがドクリと少女の止まっているはずの心臓を押し上げた。




「……私は必死で逃げて、気が付いたらどこかの森の中にいたわ。そして、イローナと出会った。イローナは数人の男達に嬲られていたわ。代わる代わる痛めつけられ、嬲られ、気が付けば虫の息。男達は下品な笑い声を上げながら、ズタボロのイローナを打ち捨ててどこかへ行ってしまった。私は怖くて何もできなかった。木の陰からそれを見ているだけしかできなかった」




「まあ、いくら力に目覚めたと言っても、何をどう使うのかを理解していなければ、どうにもなりませんからね」




「そして、私は虫の息のイローナに近付いた。虚ろな目のまま、私に何かを訴えかけていた眼差し、ああ、私の役目はこうなのかと理解した。私はイローナの血を吸い、私というお城に住む最初の住人に、家族になった。それから彼女はずっと私の側にいる。人ならざる者として、私の従者として」




 そして、少女は顔を上げ、両の手を大きく広げた。




「この屋敷には大勢の見捨てられし者がいる。全員が理不尽な仕打ちを受けたり、あるいは望まざる状況に追い込まれたりして、世と決別する道を選んだ者達ばかり。私がそれらを引っ張り上げた。片っ端に手を差し伸べた」




「それでは増える一方でございますね。ご苦労も多いでしょうに」




「目に付いたんだから仕方ないでしょう! 私は誰も見捨てたりなんかしない! 世界があの者達を見捨てたから、私が代わりに拾い上げたのよ!」




 怒り混じりとはいえ、最初の威厳が少女に戻っていた。


 そして、アリスは気付いた。ようやく目の前の少女の本質が見えてきたのだ。時に同情し、時に怒りを煽り、殺されない程度に揺さぶって必要な情報を探り当てる。それがようやく実ってきたのだ。


 そして、アリスは頭を垂れ、深々と礼をして敬意を示した。




「な、何よ、急に」




「感服しました」




「はい?」




「ダキア様のこれまでの言動、心より感服いたしました。その姿勢、見習いたく思います」




 少女は困惑した。なぜ、自分が賞賛されているのかが、まったく理解できていないかったからだ。


 ようやく見つけた心の隙間、そして、目の前の少女の本質、アリスはそれに付け入るべく、ここぞとばかりに攻め込んだ。


 そう、ここが攻め時だ、アリスはもう一度眼鏡を動かし、城攻めを開始した。




「ダキア様、あなたはご自身を化物だなんだと卑下なさっていますが、それは違います。その怪物としての姿こそ、あなたの誇り、あなたの強さ、あなたの本質。そして、ダキア様の本質とは、ずばり“優しさ”と“愛情”でございます」




「……馬鹿じゃないの? あなた、頭大丈夫? 私は悪魔! 私は怪物! 人の想いという呪いを一身に受け、この世に落とされた忌むべき存在。それがなに? 優しさ? 愛情? 何を根拠にそんなことが言えるの?」




 怒りと困惑が半々、見た目相応の駄々っ子にアリスには映っていた。




(牙がなければ、本当に可愛いんだけどね)




 慌てふためく少女の姿に対する、アリスの本音であった。




「ダキア様は言いました。目に付いた片端から手を差し伸べたと。神から、世界から見捨てられた者を次々と拾い上げたと。あなたは捨てられし者、人ならざる者、その全てを救い上げようとしている。その信念、その優しさ、神と世界に背を向けようとも、それを成し遂げようとなされている。それがあるからこそ、あなたは怪物のままでいられるのです。牙を生やし、悪魔や怪物に身を置こうとも、その心は気高くも、神に、世界に、反逆する道を選ばれた」




「物は言い様ね。そんな大層なものじゃないわよ。日陰者が日陰者としても暮らせる場所を作っているだけ。神が捨てたから拾っただけ」




「それでも、この館に住まう者にとっては、安住の地を与えてくれた立派な主君なのです」




 アリスはジッと少女の目を見つめた。吸血鬼の目を見続けると心を囚われ隷属するなどと言われていたが、そんなことないなとアリスは心の中で苦笑いした。


 本の知識は玉石混交。むしろ重要なのは、そこから正しい知識を選び出せる知恵なのだと、今更ながら感じていた。


 少なくとも、目の前の少女の瞳はとても澄んでいた。




「先程のメイド、イローナと申しましたか。彼女の所作を見ていれば分かります。一つ一つの動作がとても丁寧で洗練されており、王侯にお仕えする者として恥ずかしくない態度を心掛けておりました。それは主君たるダキア様への忠義があればこそです。下手な振る舞いをして、来客になじられては、主人の方へも泥を塗ることになるからです。他の方々は無論、相応しい態度で挨拶をされていました。・・・あ、門番だけは少々いただけませんでしたが」




「そう、あの兄弟には後で食事抜きを通達しておくわ」




 小鬼ゴブリン兄弟は客人への無礼な振る舞いの罰として、食事抜きが確定した瞬間であった。




「そうした諸々の事を含めて、皆がダキア様を慕っているからですよ」




「そうね。みんな、よくやってくれていると思うわ。私みたいな怪物に、童の姿の主人に、よく尽くしてくれていると思う。でも、それは愛だとか、優しさとかじゃない。神への当てつけの結果でしかない」




「それでも、救われた者がいるのです。朽ち果てるだけの者、彷徨うしかない者、全てをひっくるめて、ダキア様は手を差し伸べた。あなた様は誰よりも真面目で、誰よりも優れた愛情を持っておられます。なぜこのような方を怪物だなんだと罵れましょうか!」




 アリスの周りは王侯貴族ばかりだ。上に立つ者は皆の規範とならず、それをよく見ていた。そして、目の前の少女は小さな体に似合わず、それを成そうとしていると感じ取った。


 王とは何か、主君とは何か、それを成さんと、常に考えて行動しているように見えた。


 それが分かっているからこそ、この館の者も敬愛を以て、主君に接しているのだと。


 主君は家臣を愛し、家臣は主君を愛す。主君は家臣の手本となるために努力し、家臣はそんな主君に恥をかかせまいと努力する。これほど理想的な主従はそうはいない。




(なお、私は本の誘惑に抗えず、堕落しきってますけど)




 貴族のお嬢様らしからぬ行動には反省を覚えつつも、改める気はなかった。目の前の少女ほど、意志力に自信がないし、他の楽しみを見出せなかったからだ。




「ダキア様、あなたは愛に飢えておられる。それは仕方のないこと。生まれたときから囚われの身で、外に出たらば石を投げつけられる迫害の身。それは愛情なき荒野を彷徨ったことでありましょう。ですが、そんな冷たく乾いた大地にあって一点、母より受けた温もりだけは覚えていた。違いますか?」




「母は私を殺そうとした」




「いいえ。あなたに罪過を負わせぬため、あえて死を選んだのです。地獄に落とされようとも、あなたを抱きしめて耐え抜こうとしたのです。それを心のどこかで理解してきたからこそ、あなたは他人に対して知らぬはずの愛情を注げるのでありましょう。なぜなら、あなたの受けた母からの愛情は、紛れもない本物の愛情だったのですから」




 少女の瞳が揺らぎ始めた。間違いなく動揺しており、怪物だ化物だと罵る輩ばかりのこの世界で、愛の溢れる主君という評価は初めてであったからだ。


 さて、もう一押しか、アリスは一度深呼吸して高ぶる気持ちを抑えた。




「ねえ、アリス、私は何人もの人間を殺して喰らったと言ったわよ。それでも怪物だとは思わないの?」




「思いません。私が豚を食するのと、何が違うのですか?」




 キッパリと言い切るアリスに、少女は目を丸くして驚いた。




「ダキア様程度で怪物なのでしたら、私の周りの方々は“私も含めて”全員が怪物ですわ。なにしろ、皆が皆、醜悪極まる世界の住人にございますれば。ああ、ですから、お気になさることはありません。私が豚や牛を食べるように、ダキア様の口に合う物がたまたま“人”であっただけの話です」




「……あなた、本当に変わっているわね」




「はい。なにしろ、あなたと同じく、神に反逆する者ですから」




 アリスは眼鏡を外し、それを机の上に置いた。何事かと思い、少女はアリスと置かれた眼鏡を交互に見やった。




「眼鏡を外してしまえば、私はダキア様の姿をまともに見ることも叶いません。神はこう言った、『本ばかり見ずに、周りもよく見ろ』と。でも、私は神の教えを無視し、罰として視力を奪われた」




「いやいや、それはあなたの生活習慣の結果では!?」




「そうあれかしと神は述べ、そして世界は生まれた。ゆえに、世界のすべては神の御心の内。神は人々に自由な意思を与えてくれました。その自由なる意思をもって、人は聖者にも悪魔にもなれる。なれるのであれば、自由なる意思によって立ち返ることもできる」




 アリスは眼鏡を拾い上げ、視界を取り戻した。




「私は眼鏡によって、人が生み出した利器によって、神の忠告に反逆し続ける」




「いや、だから生活習慣だって!」




「それもまた神の懐の内。あなたが人を襲うのもまたそうなのでしょう。ならば、罪は問えない。ただ、あなたが立ち返るのを、神はジッと見守っていることでしょう。悪魔よ、悔い改めよ! なんてね」




 アリスは冗談めかして悪魔祓いの真似事をした。


 しばしの沈黙の後、途端に少女は笑い出した。大きな椅子に腰かけて、床に届かぬ足を前へ後ろへ揺らし、何度も何度も拍手をした。




「ごめん、私の負けだわ。こういう時は、先に笑ってしまった方が負けよね。アリス、あなたは食べないでおきましょう」




「そうですか。それは助かりました。家族にどうやって遺書を届けようかと悩まずに済みました」




 私も釣られて笑ってしまい、部屋の中には二人の笑い声が響きました。




「ねえ、アリス、最後に一つお尋ねしてもいい?」




「なんなりとお尋ねください」




「私の本質は“優しさ”と“愛情”だと言いましたが、それはあなたがそうだからでは?」




「はてさて、そう考えたことは一度もございません。強いて言えば、私が愛情を注ぐのは本に対してだけですから。人に対して、なんというか、その、希薄ですね」




 アリスはあくまでただの本好きであると自認していたし、それを直す気も更々なかった。




「あら、そうなの? なら、このままご逗留いただいて、一夜の逢瀬を楽しみましょうか。悪魔たる私が直々に、愛を説いて差し上げるわ」




「おお、なんという悪魔の誘い。でも、私は恋愛観にはごくごく一般的でありますので、お断り申し上げますわ」




「あら、意外とお堅いのね。もう少し柔軟かと思っていたのに。あなたの言葉の通りなら、これもまた、神の思し召しでなくって?」




 少女が悪戯っぽくアリスに問いかけた。実に愛らしい姿であり、思わず抱き締めてしまいたくなるほどであった。


 だが、アリスは悪魔の誘惑に耐えた。あるいはこのまま逗留してしまえば、幽世かくりよから現実の世界への扉が閉じてしまうかもしれないと考えたからだ。


 なにより、アリスにとって耐えがたい誘惑を放つ悪魔の姿は、目の前のような可愛らしい少女の姿をしておらず、図書館に鎮座している平べったい大軍勢なのだから。




「神の思し召しなのかもしれませんが、なにしろ私は神に反逆する者ですから」




「そう。なら、私とあなたは反逆の同志ということね」




 少女はピョンと椅子から飛び降り、両者の間に合った机を回り込み、手を差し出してきた。


 アリスも立ち上がり、それを握って握手を交わした。


 惜しむように手を放し、少女は机の上にあった呼び鈴を鳴らした。チリンチリンと澄んだ音が響き、僅かな時間をおいて、先程退出したイローナが部屋にやって来た。




「お呼びでございましょうか、お嬢様」




「お客様がお帰りよ。送って差し上げなさい」




「……! かしこまりました。お客様、帰り道のご案内を務めさせていただきます」




 イローナの驚きの表情を見せるも、すぐに元の無表情に戻った。


 さて帰りましょうか、とアリスは扉の方を向いたが、少し名残惜しくなり、もう一度見送る少女の方を振り向いた。


 そして、先程手にした髪に刺さる白のヒヤシンスを手に取り、それを少女に渡した。




「ダキア様、白のヒヤシンスの花言葉、御存じですか?」




「いえ。素敵な言葉でも贈ってくれるのかしら?」




「はい。白のヒヤシンスの花言葉、それは『控えめな愛らしさ』と『心静かな愛』です。力強くも静かに、日陰者を導こうとしたダキア様に相応しい言葉かと思います」




 アリスはギュッとヒヤシンスを握る小さな手を握り、少女は気恥ずかしそうに顔を赤らめた。




「それともう一つ、白のヒヤシンスには言葉が込められています」




「それは?」




「『あなたのために祈ります』です」




 無礼とは思いつつも、アリスは少女の頭を撫でてしまった。そして、銀色の髪を指で梳き、愛らしくも恐ろしい怪物の姿をした少女に微笑んだ。




「ダキア様、最後に一言を。あなたの御父君は悪魔と罵られておりますが、その本質は真面目で実直な統治者。そして、その気高き竜の魂はあなたの中にも受け継がれております。マティアス陛下、ダキア様、御二方のその真っすぐな信念と優しき志によって救われた者がいるのです。太陽かみさまに背を向けようとも、それを成した愛深き父、母、娘に幸あれ。そして、ダキア様が陽光の下に出て歩かれます日が来ましたらば、太陽かみさまに祈る日が来ましたらば、私もまたその隣で同じく神に懺悔をしたいと思います。同じ咎人同士、肩を並べてお祈りできる日が来ることを、私は心待ちにしております」




 アリスは最後にもう一度礼をして、イローナと共に部屋を出た。


 そして、扉が閉まるその瞬間、ふと振り向いたアリスの目には、大粒の涙をこぼす少女の姿があった。


 黙して語らず、ただ自らを殺し続け、忍従に耐え、神への反逆を続けた小さな王様の、ようやく吐露できた感情が溢れていた。






               ***






「こうして、お客様をお見送りするのは初めてです」




 門をくぐるなり、イローナはそう話しかけてきた。招かれたのに帰らなかったということはそういうことなのだろうと、アリスは今更ながらに生きていることを実感した。


 先程の小鬼ゴブリン兄弟も驚いており、兜を脱いで恭しく礼をしてきた。




「オ嬢チャン、サッキハ悪カッタナ!」




「元気デナ!」




 容姿的に反省しているのか判別できなかったが、それでも彼らなりに敬意を表してくれているのだと、アリスは思った。


 そして、先程の意趣返しを敢行した。




「でも、お嬢様はカンカンみたいよ。今日は食事抜きだって!」




「エエッ!? ソンナァ!?」




「サスガハ悪魔ダ! 容赦ナイ!」




 などと悪態つきつつも、二人は笑っているように見えた。


 やはり慕われているのだなと、アリスは実感した。




「あなた達も、次に訪問するときまでにはちゃんと礼儀作法を覚えておくのよ。食事お預けが続いて、骨と皮だけのみすぼらしい門番なんかになっちゃダメよ」




「オオ、任セテオケ!」




「次ハ、オ前ニ無礼ナ真似ハシナイ!」




 口調は相変わらずで、本当に反省したのかどうか疑わしいが、アリスはヨシヨシと笑顔で頷いた。




「お客様……、いえ、アリス様、私がお嬢様にお仕えしてから、お客様を招くことはありましても、お見送りするのは初めてでございます。闇夜を闊歩するお嬢様に光を差し入れて下さいまして、感謝の言葉もございません。差し出がましくはございますが、またお会いしとうございます」




「こちらこそ、イローナさん。そうですわね……、今度お招きに与るときは、何かお嬢様への献上品をご用意するわ」




 アリスは微笑み、イローナと門番はまた深々と頭を下げた。




「ああ、そうそう。ダキア様に一つ、言伝をお願いできますか?」




「はい。お伝えいたします」




 主人への伝言を聞き逃すまいと、イローナの耳は私の言葉に集中した。そして、アリスは一呼吸の後、口を開いた。




「涙を流す怪物などはいません。ダキア様、あなたの心は“優しい人間”です、と」




「お伝えしておきます」




 そして、イローナはスッと手を挙げ、前方を指さした。




「このまま真っ直ぐ、わき目も振らずに前へ進んでください。そうすれば、“こちら”に引きずり込まれることなく抜け出せます」




「そう、ありがとう。またいつかお会いしましょう」




 アリスはいつもの癖でまた眼鏡をクイッと動かし、頭を下げる三名を振り向くことなく、ただ真っすぐに森の中へと入っていった。


 するとどうだろうか、あれほど探しても見えなかった小道が見つかり、さらにその小道を進むと、見覚えのある大道に出ることができた。


 しかも、主人を見捨てた薄情な馬もその場に立っており、出迎えてくれた。


 これで帰れる、アリスは馬に跨り、出てきた小道の方を振り向いた。鬱蒼と茂る森の中、遥か先にある屋敷に向かって礼をして、その屋敷の主人とその従者達に別れを告げた。






                   ***






 後から気になって、アリスは森の屋敷について調べてみると、奇妙なことが発覚した。


 あの屋敷は百年近く前から廃屋になっており、なんでも病弱な貴族のお嬢様が静養のために住んでいて、それが亡くなると打ち捨てられたということだ。


 ならば、自分が出会った少女と従者達はなんであったのか、結局は謎のままとなった。


 偶然にも現世と幽世が混じり合い、あの場所に迷い込んでしまったのか、あるいはどこか別の場所に引っ越されてしまったのか、それはアリスには分からなかった。


 ともあれ、アリスは新たな世界に触れることができ、同時に“お友達”ができたと考えた。


 太陽かみさまに背を向け、闇の中にて暮らす者達が確かに存在し、闇の中にもまた世界が存在することを知った。


 明るい所だけが世界ではない。その明るさに耐え切れず、闇に呑まれた者を、あるいは蹴落とされた者を、あの少女は今日も手を差し伸べているのかもしれない。


 そんな可愛らしい王様を、アリスは微笑ましく思うのであった。


 いつかまた再会しよう。アリスはそう考えつつも、抗えぬ書物あくまの誘惑に負け、今日も眼鏡をかけて本を読み漁るのであった。






                ~ 終 ~

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ボサボサ赤毛の眼鏡姫と吸血鬼になった少女 夢神 蒼茫 @neginegigunsou

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